藤沢城と保科家

藤沢城山頂の土塁に囲まれた平地 藤沢城図

藤沢城跡藤沢城図
諏訪大社の防備と、諏訪氏・高遠氏・藤澤氏の均衡を保つための要地御堂垣外(みどがいと)の蛇山(じゃやま。城山の訛りとも)は標高1032m、麓からの高さ106m程。頂上は東西6間・南北11間程の平地。南に大手口があった。

藤沢城外観と松倉川 藤沢城頂上の石祠 藤沢城址案内板

■藤澤庄地頭の藤澤氏
上伊那の藤沢川・山室川・三峯(みぶ)川に沿った谷を黒河内藤沢之庄と呼び、諏訪郡に隣接し古くより諏訪大社の御狩神事を行う土地であった。
平安時代、荘園として藤沢庄は池大言が領家であったが、鎌倉時代に源頼朝が社領として寄進し、国の支配から外れた諏訪上社領となる。

文治2年(1186)11月藤澤庄の地頭藤澤余一盛景が御狩神事を抑留し拝殿の造営を妨げたことを諏訪上社の大祝(おおほおり、はふり。諏訪氏惣領家)が鎌倉幕府に訴えている。(『吾妻鏡』11月8日)
また、諏訪神氏分流の諏訪親貞(清貞)が在名をもって藤澤氏を名乗り、鎌倉幕府の御家人として藤澤谷の地頭となったとされる(『神氏系図』に藤澤神次の名)
親貞の弟の頼親も藤澤四郎を名乗り『甲斐国誌』では箕輪(みのわ)庄福与(ふくよ)城主とする。
箕輪の藤澤家では親貞の子の藤澤次郎左衛門尉清親(鎌倉稲瀬川に住み弓の名射手として武名をあげた)が祖先ともされる。

藤沢城展望南側高遠方面 藤沢城展望北東側箕輪方面 藤沢城展望北側杖突峠方面
藤沢城址からの眺望。写真左から南(高遠)・北東(箕輪)・北(杖突峠)方面

■藤澤代官の保科氏
元弘3年(1333)5月に後醍醐天皇方の新田義貞に攻められ一族共々自刃した北条高時(鎌倉幕府14代執権)の次男亀寿丸(千寿丸。北条時行)が難を逃れ信濃の北条氏の御内人である諏訪大祝頼重に匿われた。建武2年(1336)2年再挙し執権足利直義(尊氏の弟)を破って鎌倉を一時奪回する(中先代の乱)も追詰められ諏訪頼重・時継親子は自害、時行は生き延び後醍醐天皇の南朝に帰順した。
諏訪時継の孫の信員(のぶかず)が分家し高遠に入って高遠氏を名乗り支配し、高遠氏に従い保科氏が藤沢代官となった。
※延元3年足利尊氏に従った木曽家村(義仲の子孫)が戦功により高遠の地を賜り、長男の木曽義親が高遠城に入り高遠太郎と称したのを祖とする等諸説あり
長禄3年(1459)神使御頭を務めていた藤沢庄の保科氏(筑前守家親か)が、御射山御頭に変更(『諏訪護符禮之古書』)

文明14年(1482)6月、高遠継宗(つぐむね)の代官保科貞親(さだちか)の一族は継宗と対立し、諏訪大祝継満・千野法秀が高遠へ来て保科氏の弁明をしたが継宗は聞き入れずに戦となった。7月29日に千野入道率いる諏訪勢が保科家郎党と共に高遠に向かい30日に藤沢氏も加勢。対する高遠方は笠原氏と三枝氏が合力し、笠原で交戦し諏訪・保科方が勝利した。
8月7日、諏訪家内部で大祝継満と政満が対立し、政満側についた藤沢氏の栗木田城(くりきだ。台の城。古くは栗木田村とも言った長藤殿垣外に在る)を保科氏が攻めた。

 

■大名家の保科氏
※保科氏のルーツ(伝承)については→飯野藩保科家系譜・伝(保科郷の保科氏)
後に大名家となる保科氏が藤沢に入った時期は諸説ある。
長享の頃(1487~88年)または永正10年(1513)に高井郡、または有賀(諏訪市大字豊田)の源光利(保科郷の地頭)・正利(正則の父)親子は村上顕国(頼平)に攻められ藤沢に逃れる。正則6歳。

一説に保科正英(保科郷保科氏か)の子、保科八左衛門正満が民間に降り藤沢氏に改め藤沢村主となったとされる。『保科系図』には正利の弟で藤澤刑部とある。
元々藤沢の地頭であった保科氏と同族かは不明で、正俊と土地の娘との間にできた子もおり、複雑に入り混じっているようだ。
※そのため延元元年(1336)に箕輪郷で福与城を築いた箕輪藤澤氏も、御堂垣外藤澤氏とは別流になるといえる

天文11年(1542)7月2日、高遠城主の高遠(諏訪)頼継が武田晴信(信玄)と結託し、諏訪下社の金刺(かなさし)氏らと共謀して諏訪大社大祝諏訪頼重(よりしげ。武田勝頼の母諏訪御料人の父)を攻めて甲府へ贈り自害させ、奪った諏訪の領分を晴信と分けた。武田家の取分に不服な頼継が諏訪社禰宜の満清と共に反旗を翻したとして晴信は頼継を攻め諏訪の地を武田のものとした。
天文14年(1545)4月下伊那に在った晴信は、弟の武田信繁(晴信の弟)を有賀峠から伊那を侵攻、藤澤頼親(箕輪藤澤氏)の福与城を包囲させ、保科氏は伊那衆として藤澤氏に加勢し伊那部に陣した。
11日に藤澤谷にも進軍した甲州勢を迎え撃つため杖突峠に出陣した保科正俊は、信玄を阻止はできまいと即座に判断して甲州勢を引き入れたとされる。
17日に高遠頼継が城を明け渡し18日に入城して以降は武田氏の支配下となり、信玄は現在の高遠城を築き、秋山信友を城主とした。福与城も6月に和睦となる。

天文15年(1546)8月保科氏が武田家直参として伊那郡役所五疋前を与えられた。
天文16年(1547)武田勢の佐久志賀城攻で、先鋒の保科正俊が敵家老志賀平六左衛門の首級をあげて、褒美として信玄から元重の銘刀を与えられた。正俊は武田軍下で多くの戦功をたて、槍弾正と呼ばれる。

高遠頼継の失脚後は神林入道と保科弾正に諸氏の統率を任せ、やがて保科氏が主権を握る。
天文18年(1549)7月16日武田軍が高遠城を陥落。
天文20年(1551)年6月28日付けで晴信から下伊那の土地一ヶ所を賞与する旨の書状が保科甚四郎(正直)宛で出されている。

永禄5年(1562)6月に晴信(この頃には出家し徳栄軒信玄と名乗る)は息子の諏訪勝頼(武田勝頼)を高遠城代とした。※高遠城には元亀2年2月より武田信廉が、天正元年仁科信盛が城代となる
松尾の小笠原信貴が飯田の坂西長忠を攻め落とした戦に、保科氏が甲州側(小笠原方)に加勢したとも。
天正元年(1573)信玄が没した後は勝頼に仕えたが、戦続きで課役と更に諏訪神社の祭銭等ものしかかった藤沢片倉の村人は逃散を企てた。その慰撫を、保科家を継いだ正直に任せられた。

藤沢城展望東側の保科古屋敷 保科古屋敷跡周辺
▲かつて中町に保科の古屋敷跡があった(道路右側、町遠景の中央左寄り)

天正3年(1575)5月21日の長篠合戦では、正直は病気のため当雪という医者一人つけて一間四方の小さな家の中に厠へ通う穴だけ開けて閉じこもっていた。
勝頼が実弟の源蔵(内藤昌月)を寵愛していることに心を病ませたともされる。
しかし勝頼の敗北を聞くと病を押して馬に乗り、下伊那の根羽で勝頼の騎馬姿を見つけた。戦で武田の重臣達を失った勝頼は生存する正直に対し下馬して手を握ったという。

天正10年(1582)2月織田信長の侵攻時は正直は飯田城に入り、平谷・浪合方面の守備にあたる。織田信忠の兵が迫ると正直は機を見て飯田城を捨て、3月2日高遠城が陥落し11日に勝頼が自刃し伊那の地は武田から織田へと渡る。
6月2日本能寺で信長が討たれた後、伊那衆はかつての領土の回復を望み各所で決起した。5日正直は、箕輪の藤澤頼親と下条頼安が籠っていた高遠城を攻めて奪取する。
7月に徳川家康が甲斐入り甲信の指揮を執ると正直は潔く家康に帰順した。
9月に正直は頼親が逃れた田中城を攻め滅ぼし、10月24日に家康に伊那郡の半分を正直に賞与される。正直は家康の命令で小笠原貞慶を攻め、善知鳥(うとう)山で激戦を繰り広げた。
天正13年(1585)12月貞慶は正直が留守(上田出陣)中の高遠を攻めるが、隠居の正俊が指揮し奇策を以って撃退した。

こうして保科家は藤澤から高遠へ移り、正直は徳川家康の義妹多却の君を室に迎えて飯野藩主となる正貞が生まれ、徳川との結びつきを強め江戸幕府のもとで大名となった。

藤沢城の土塁遺構と東の石垣跡 9藤沢城頂上に向かう山道 藤沢城内の石垣跡

藤沢城跡所在地:長野県伊那市高遠町藤澤御堂垣外