下総国多古藩の多古陣屋跡

多古藩陣屋跡 多古陣屋鳥瞰図

多古陣屋跡と『千葉県多古町鳥瞰図』
多古(たこ)陣屋の南西、古峰神社のある多古台に多古城があったとされる。
天正18年(1590)8月徳川家康の関東入封に従い、信濃国(長野県)高遠城保科正直(まさなお)が下総国多胡(千葉県香取郡多古町)1万石を与えられ、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の勝利により徳川家臣の旧領が復活し、子の正光(まさみつ。飯野藩正貞の兄。会津藩主保科正之の養父)が高遠2万5千石で元の封地に戻るまでの約10年間保科家が統治した。

江戸時代は寛永12年(1635)駿河国(静岡県)の旗本久松(松平)勝義(かつよし)が8千石の領主となり、正徳3年(1713)松平勝以(かつゆき)が1万2千石の大名となって多古藩を立藩し、藩丁を陣屋に置いた。
松平氏は陣屋内でなく多古台下の屋敷に居住したが、保科時代の武家屋敷を引き継いだとも思われる。
以降明治4年の廃藩までの230年余りの間、久松松平家が藩主であった。

廃藩置県で多古県庁舎になり、多古県廃止後の明治6年に競売にかけられ、明治8年に御殿は多古学校に当てられ、多古小学校に引き継がれた。
昭和8年製作の多古町鳥瞰図の小学校(陣屋跡)の隣に久松子爵邸が描かれている。

多古陣屋跡石垣 多古陣屋跡石垣 多古陣屋跡石垣
多古陣屋の石垣跡
陣屋は現在の多古第一小学校の建つ標高15m程の小高い丘にあり、校庭の一部に相当するが遺構は僅かに高野前稲荷社天神社の裏に石垣が残されているのみである。
藩丁が置かれ、行政・居住のための邸地・長屋、倉庫、稲荷社等が建ち、馬場も備わっていた。
東側の陣屋下の南北に伸びる下馬通り(県道)沿いに表門・中門・裏門が並び、石垣下の堀に朱塗りの橋が正門へと架かっていたという。堀は表門周辺から陣屋の北側を囲うように直角に折れ、木戸谷(きどやつ)奥の池(小学校正門前付近)に続いていた。
競売記録に邸地800坪、山地(森)500坪、囚獄(しゅうごく、牢獄や番小屋等)囲地100坪とあり、その他建造物をふまえると陣屋面積は15000㎡はあったようだ。

多古陣屋下総名勝図絵

多古と千葉氏
多古地域は古くは千田荘(ちだのしょう)と呼ばれる荘園であった。
平安時代の公家藤原下総守親通は、保延2年(1136年)に下総の在地領主千葉常重から領地を取上げたという。親通の子の親盛もまた下総守として領地を継ぎ、平清盛の嫡男平重盛に娘を嫁がせ平家との繋がりを深めた。
親盛の子の親政は千田荘領家判官代として千田氏を名乗る。
治承4年(1180)源頼朝が平氏方に敗れて房総に渡った際、千葉荘の千葉常胤(常重の嫡男)は頼朝を迎え、平氏一門への抵抗を顕にし、親政の目代(代官)を成敗した。
9月14日千葉荘へ大軍を率いた親政を、常胤の嫡孫小太郎成胤が僅か数騎で迎打ち生捕りにし頼朝へ差し出した。(『吾妻鏡』)
千田荘は成胤の娘千田尼(北条時頼の後室)、甥胤綱が千田次郎を名乗り継いでいく。
胤綱の娘、その子宗胤が、永仁2年(1294)元寇で元軍と戦い肥前国で命を落した父大隅守頼胤に代わって九州に赴くと、留守を任された弟の胤宗がを千葉惣家を掌握してしまう。

千葉氏本領の千葉荘は胤宗の子貞胤が、千田荘は宗胤の子の胤貞が継ぎ「千田殿」と呼ばれた。
建武元年(1334)12月1日胤貞は肥前国小城郡や千田荘の総領職を子胤平に譲る。
その翌年から南北朝の戦いで千田貞胤と千葉胤貞が敵味方分かれ、結果、貞胤側が宗家を存続する。
千田荘は胤平の弟の胤継に渡り観応元年(1350)胤継が千田荘の倉持阿弥陀堂に免田を寄附している。
※多古にまつわる千田氏は次浦(多古町)本貫の次浦八郎常盛の孫千田次常家の末裔等、諸系統あり『千葉大系図』等では千葉常胤の弟千田次郎胤幹(松蘿館本系図の千田弥ニ郎胤鎮と同一か)が領主で、子の次郎太郎胤氏が継いで多古胤氏を名乗り、三男の胤満の子の胤春が千田荘の地頭となって再び千田氏に戻したようだ

 

関東動乱期の多古城
文安元年(1444)には宗家の千葉胤直(ちばたねなお)が領していた。
享徳3年(1455)古河公方(こがくぼう。鎌倉公方)足利成氏(しげうじ)と関東管領上杉憲忠(のりただ)の対立で、どちらにつくか千葉一族で勢力が分かれてしまった。
康正元年(享徳4年)4月、分家の馬加康胤(まくわりやすたね)と執権原胤房(はらたねふさ)らが亥鼻(いのはな。千葉)城を急襲し、胤直の子の胤宣(たねのぶ)は多古城に避れた。
8月12日に多古城は落ち、胤宣はむさ(武射か)の阿弥陀堂で自らの血で「見てなげき聞きてとむらふ人あらば 我に手向けよなむあみだぶつ」と壁に辞世を書き遺して自刃した。未だ15歳(12歳とも)の美男で、共に割腹した従者も年若い者ばかりであったという。14日に胤直の志摩砦も陥落し、翌日胤直は多古妙光寺で自刃した。尚、胤直の弟胤賢の子孫が千田氏称している。

妙光寺山門 妙光寺本堂
妙印山妙光寺総門と本堂

戦国時代の多古城
千田氏支族の牛尾(うしお)氏は、千田庄牛尾郷(多古町牛尾、うしお)を本拠とした。
多古領主であった三浦入道を滅ぼして多古城に入り、新たに城を整備して城山に移ったという。
天正13年(1585)7月に多古城主牛尾能登守胤仲(たねなか)は飯櫃城(山武郡芝山町)主の山室常隆(やまむろつねたか)の子の氏勝(うじかつ)との戦いに破れ、隠棲する。
『山室譜傅記』では、弘治元年(1555)6月12日胤仲は山室常陸と佐野原で戦い胤仲の弟の薩摩守が討たれた。胤仲は再起を図り閏10月3日に飯櫃城を攻めるが落せず、逃れた小原子の妙光寺を囲まれ果てたとされる。しかし胤仲が娘の病気快癒祈願に妙光寺へ寄進した鰐口に「天正五年丁丑月六日 大旦那牛尾右近大夫胤仲」と刻銘があり、弘治以降も生存しているはずである。

天正18年(1590)8月徳川家康の関東入封に従い保科正直が多古1万石を与えられる。
12月27日近隣を支配していた山室氏の反抗に対し、家督を継承した正光は大熊大膳対馬守を大将として飯櫃城へ進軍、翌日落城し山室常陸守光勝(氏勝の子)は自害した。
※前述の『山室譜傅記』によるので創作の可能性もあるが、実際にこうした在郷勢力の抵抗はあったのだろう
飯櫃の記録と飯高の正則の墓正直が信仰した樹林寺の位置関係から、保科家の領地は八日市場の飯高(匝瑳市)~小見川の銚子道に沿った地域、芝山町の旧千代田村を領したと思われる。

多古に移って間もなく正光は文禄の役や上杉攻めで家康に従軍し、関ヶ原の戦時に浜松守備、戦後に越前の庄城の城番となる等で多古を離れていたため、多古の民政は家老北原采女佐光次篠田半左衛門隆吉一ノ瀬勘兵衛らに任せていたようだ。

 

江戸時代の多古陣屋
慶長6年(1601)正光が高遠へ転封し翌年には幕府直轄地となり、関東代官頭長谷川七左衛門が管轄。
慶長9年(1604)に田子(多古)村含む5千石は越中国(富山県)布市(ぬのいち)藩1万石の藩主土方雄久(ひじかたかつひさ)が替地として宛がわれる。
※田子は本領ではないが、慶長13年(1608)雄久が本領能登石崎より田子に陣屋を移したとの記録から田子藩が成立したとの解釈もされている。
慶長13年(1608)11月12日雄久が死去し、次男雄重(かつしげ)が遺領の散地1万石と田子5千石を継ぐ。
元和8年(1622)雄重が陸奥国窪田(くぼた。福島県いわき市)藩主となったので、多古は御料地として代官南条帯刀(たてわき)支配所となる。

元和9年(1623)多古の一部の南玉造等が生実(おゆみ。千葉県千葉市)藩主酒井重澄(さかいしげずみ)の領地となり、その後、寛永10年(1633)の領地替えまで佐倉藩主大炊頭土井利勝(どいとしかつ。江戸老中)が領する。

寛永12年(1635)11月9日松平勝義が駿河の領地を多古牛尾諸村8千石に移す。
勝義は、家康の異父弟久松康俊の娘婿の子で、康俊の妹が保科正貞の母多劫である。
多古領は勝義の次男勝忠(かつただ)が継ぐ。
正徳3年(1713)勝忠の末弟の勝以が加増され1万2千石の大名となり多胡藩を立藩した。
以降、勝房(かつふさ)、勝尹(かつただ)、勝全(かつたけ)、勝升(かつゆき)、勝権(かつのり。井伊直弼の兄)、勝行(かつゆき)まで代々続いた。
戊辰戦争時藩主であった勝行は、徳川家との決別の意を示すために久松姓に戻し、版籍奉還により知藩事に任じられた勝行は隠居し、多古藩は長男勝慈(かつなり)の代で廃藩を迎えた。

多古小学校校庭前 志摩城方面
▲多古陣屋の敷地であった校庭と志摩城(島)方面(多古城址はこれより右方向)

多古町高野前稲荷社 多古町切通天神社
高野前稲荷社社・天神社城山の天神社
久松氏の先祖は菅原氏とされ、松平勝義は多古陣屋の森に天満宮(菅原道真)を守護神に祀り、信仰していた正一位稲荷大明神を総本社伏見稲荷より分祀し、同一社屋に祀った。
昭和56年多古第一小学校建設の為、社屋取壊しの上、妙光寺裏の高台に仮安置され、平成12年3月25日この場所に遷座した。
(碑の神社由来要約。表に菅公の詩東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
多古城の在った多古台は土地開発で均されてしまった。
天神社が鎮座する丘は「城山」と呼ばれ、多古城の出城であったという。
古くは丘が繋がっていたが、後年、道路を作るために切り開かれて独立した丘になったことから「切通」という地名になった。

多古町立多古第一小学校所在地:千葉県香取郡多古町多古2547

▼関連サイト
多古町:https://www.town.tako.chiba.jp/
▼参考図書
・多古町史編さん委員会『多古町史』
・多古町教育委員会『多古町名所百選』
・芝山町史編さん委員会『芝山町史 山室譜伝記』
・芝山町教育委員会『総州山室譜伝記』
・『千葉県香取郡誌
・清宮秀堅『下総国旧事考
・千野原靖方『戦国房総人名事典』
・『下総古城趾』
他、記事中記載の史料、案内板等