西郷頼母邸跡と四郎顕彰碑

西郷邸から大手門を臨む

▲降伏の白旗を立てた鶴ヶ城北の大手口を西郷邸跡地から撮影
鶴ヶ城北追手前に西郷頼母の屋敷が在った。隣は萱野権兵衛邸

 

西郷頼母近悳(さいごうたのもちかのり。保科近悳)
千七百石。西郷家は元は信州高遠城主保科正直の弟三河守正勝から始まる保科氏で、代々会津家老職の家柄であった。鷹の羽の家紋の他に保科家の並九曜紋を許されていた。
頼母は文政13年(1830)閏3月24日若松追手前家老屋敷にて、江戸詰家老西郷近思(ちかし。25歳)の子四男八女の長男として生まれる。母は律子(小森家)。

会津藩江戸屋敷で大半を過ごし、天保14年(1843)14歳で初見参、側役小姓頭を勤め、22歳で飯沼粂之進の次女千重子(17歳。白虎隊で生き残った飯沼貞吉の叔母にあたる)と結婚。28歳で家督を継ぎ番頭に任じられる。

33歳で家老に任ぜられた文久2年(1862)に藩主松平容保から京都守護職任命の内意が伝えられ、会津藩の現状を汲み「御辞退あるべし」と進言したが、容保は守護職を受ける。
頼母は翌年も上洛し守護職辞任を迫ったが、家老を免職され、国に戻り下長原村に栖雲亭を営み隠栖した。

39歳、慶応4年(1868)に鳥羽・伏見の戦いの頃に家老に復職、白河口総督の任に就く。
藩の存続第一に考えた彼の性質から、兵法を修めた者の意見を跳ね除けて苦戦し犠牲を招く逸話も残るが、5月1日の稲荷山の激戦では馬を下りて自ら戦おうとするも親族の朱雀士中一番小隊飯沼時衛(白虎隊飯沼貞吉の父)の諌めでようやく退く決死の覚悟もあった。
白河方面敗戦の責により8月2日免職となるが、閉門を顧みず登城し水戸軍を率いて冬坂を守備したという。
8月23日朝、西郷邸で頼母の言いつけ通り一族21名が自刃

近悳は鶴ヶ城開城の前に藩主容保から命を受け城外に出、長男の吉十郎有鄰を伴い、米沢を経て仙台から開陽丸で大鳥圭介らと共に出航し10月20日蝦夷鷲ノ木着。
他の藩主・家老達と共に役員外江差詰として箱館戦争に参加。
捕えられる直前に、12歳の吉十郎を函館の神明宮神官の沢辺琢磨(坂本龍馬の従弟にあたる旧土佐藩士。日本初のギリシャ正教牧師となる)に託す。

明治2年(1869)5月自訴降伏。三旬ほど揚り屋(牢)に捕えられた後に東京に護送され、9月21日から翌3年2月まで上州館林藩に幽閉。
幽閉を免ぜられると東京深川の覚樹王院に弟陽次郎と住む。
雲井龍雄事件(陽次郎は獄死)での捕縛と釈放を経て、伊豆・江奈村(現静岡県松崎町江奈)に移住し、明治4年(1871)謹申学舎の塾長を務める。

明治8年(1875)に都々古別神社(現在福島県棚倉町)の宮司に就任。
明治10年(1877)西南の役がおこり、旧会津藩士は新政府軍の抜刀隊に応募する中、近悳は西郷隆盛と交遊を持っていたという。
明治11年(1878)宮司を解任させられ、翌年吉十郎が東京神田和泉町の医科大学病院で病死(享年22歳。東京西麻布長谷寺に墓所)。

51歳になり明治13年(1880)松平容保(45歳)が日光東照宮宮司に赴任すると、補佐役の禰宜として仕えることとなった。
明治17年(1884)志田家の四郎(16歳)を養子にし、青森県上北郡伝法寺のきみ女を後妻に迎えた。

その後日光東照宮禰宜を辞任し政府批判運動に加わるが、新政府弾劾の中心人物の後藤象二郎の入閣により運動は消滅。
明治22年(1889)霊山神社(福島県伊達郡)宮司となり神社と地元発展に尽す。霊山神社を訪れた武田惣角に請われて合気道大東流奥義を伝授した。
※剣術は溝口派一刀流を学び、馬術にも長じ、特に甲州流軍学の奥義を極めていた頼母は非常に小柄で足袋は僅かに九文半(22.5cm)であった。合気術は小柄でなければ奥義に達せられず、会津藩にあっては合気術は側近にある重臣と奥女中のみに教授されたと言われている。

明治26年(1893)従七位に叙される。
明治32年(1899)4月、70歳で故郷会津に帰る。
明治36年(1903)4月28日午前6時、下女のお仲(なか)と暮す沼沢邸跡の若松市栄町九番地通称十軒長屋(現会津若松市東栄町1。西郷邸跡地の北100m程)で脳溢血により没した。享年74歳。戒名は栖雲院殿従七位八握髯翁大居士。
葬儀は当時11歳の養子保科近一(きんいち)が喪主で神式でいとなまれた。

辞世は「あいつねの遠近(おちこち)人に知らせてよ 保科近悳今日死ぬるなり」
墓所は妻千重子と共に会津の善龍寺

 

西郷邸祉. 西郷頼母邸案内板

西郷邸祉
慶応4年(1868)西軍が鶴ヶ城下に押し寄せた時に西郷一族二十一人が自刃した。

 

西郷四郎顕彰碑

▲鶴ヶ城の西郷四郎顕彰碑

西郷四郎
慶応2年(1866)2月4日、会津藩士の志田貞二郎(しだていじろう)の三男として会津城下に生まれる。

幼時を津川(現新潟県津川町)で過ごし、津川小学校卒業後は代用教員などを務めた。
明治15年(1882)3月24日上京したのち嘉納治五郎(かのうじごろう)創設の講堂館に入門。四年後に五段に昇進し講道館四天王の一人と謳われ、やがて柔道創立の功労者となる。
四郎は非凡な運動神経の持ち主で、投げられても地に着くまで身をひるがえす柔軟さから「猫」と呼ばれる。後に禁じ手となった彼独自の特技山嵐(やまあらし)は養父の頼母から大東(だいとう)流武田惣角、更に四郎に手ほどきされたのが基本になっているという。

明治17年(1884)保科(西郷)頼母の養子となり、明治21年に西郷家を再興。
明治23年(1890)に講道館を去り6月21日に中国へ渡ったのち、長崎に居を構えて「東洋日の出新聞」出版責任者として副社長就任。長崎遊泳協会創立に携わるなど多方面で活躍する。
大正11年(1922)12月23日、神経痛療養中の広島県尾道市で没した。享年57歳。

柔道のみならず槍術、居合術にも秀で、弓道は奥義を極めていた四郎をモデルに夏目漱石は「坊ちゃん」に山嵐を登場させ、富田常雄は小説「姿三四郎」を発表、黒沢明監督のデビュー作としても有名である。

 

西郷邸祉
所在地:福島県会津若松市追手町

院内の「会津武家屋敷」に西郷邸をイメージして復元した家老屋敷があります

参考図書
・文化財資料室西郷頼母編集委員会『西郷頼母』
・西郷頼母研究会『西郷頼母近悳の生涯』
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち