▲献兎乃記念碑(木更津市上根岸の八坂神社)
徳川家の代々御嘉例(めでたい吉例)として林家が兎を献上し、年始の儀式で兎の吸物を共に祝った。
江戸時代の儀礼では正月元旦、白書院(儀式時の将軍出御の間)の上段に将軍が着座し、土器(からわけ)に盛った汁無しの兎の吸物と御酒を三方に載せて下され、吸物は足打膳に載せて御三家及び大廊下詰の諸侯に下された。礼者は、三献又は一献頂戴し、吸物の兎肉を各々白紙に包み、懐中にして退下する。
また老中、若年寄も登城して、政所に出づる以前に兎の吸物にて御酒三献を厨を掌る者が勤め、大目付の者が相伴する。
■献兎賜盃の発祥
家康より9代の祖先の得川有親(ありちか。世良田とも)は足利持氏(第4代鎌倉公方)の近臣であったが、永享10年(1438)6月の乱で持氏が敗北してしまう。有親は二郎三郎親氏(ちかうじ)と供に鎌倉を逃れ、故郷の上野国新田(群馬県の旧新田郡)世良田村得川へ帰る。しかし国許も安穏とは言えなかった。
永享11年(1439)3月上旬に有親父子は上州を去り、相模国(神奈川県)藤沢の清浄寺で剃髪し、有親は長阿弥(ちょうあみ)、親氏は徳阿弥(とくあみ)の名で出家する。
10月に藤沢を発ち、12月に信濃国に至る。
そしてかつては同じように持氏に取り立てられていたが讒言に遭って林郷に隠れ住んでいた小笠原長門守光政を頼って身を寄せた。
歳の暮れの29日、隠遁中で大したもてなしもできないがせめて正月の膳は豊かにしようと光政は、有親父子のために雪深い山に入る。冬場で得物の姿は無かったが、奇跡的に一疋の兎が現れ、持ち前の弓の腕で見事に狩ることができた。
翌正月元日朝、麦飯に田作の膾と兎の吸物を供した。
4月下旬に有親父子は三河国に渡り坂井郷に寓居する。この地で有親は亡くなった。
親氏は還俗して加茂郡松平村の豪族に婿入りして家を継ぎ、松平太郎左衛門と名乗り松平家の祖となる。
家を興した親氏は光政を召抱えた。
光政は親氏から林姓と丸の内三頭左巴の家紋を授かり、東三河の野田郡に居住した。
三河では長篠の菅沼の郷侍土岐大膳が親氏の敵となり、光政と協力して攻め落とす。土岐大膳は菅沼小大膳と改名して味方となる。
その後親氏は隆盛し、林郷で兎を供されたことが松平家の開運の基として代々年始の祝宴の儀となる。兎を狩った地も「兎田」として免租を許された。
一番に盃を頂戴し、御盃を一番下に置かれる儀が、林家家紋の丸の内三頭左巴の下に、一文字を加えた由来とされる。
※松平家・林家の開祖は伝承の域で、他の系譜史料との年代の違いがあります
■献兎賜盃の中断と再開
光政の子光友以降も林家は松平家古参の譜代としてよく仕え──三州の五本槍(岩津、安祥譜代衆者の一つとする説もあり)、光政から4代目の忠満は岡崎五人衆とされ──戦功をあげた。
永禄9年(1567)家康は松平から徳川に改める。
天正18年(1590)8月から家康が関東に移封となっても翌年の正月には献兎賜盃の御祝は行われ、林家は白銀三十枚と呉服を拝領している。
光政から6代目の林藤五郎忠政は17歳で眼病を患って勤めが困難になり、毎年行われていた御盃頂戴と兎献上の儀を辞して、領地に籠居したため嘉例は一時中断された。
文政8年(1825)第11代将軍徳川家斉に重用された林肥後守忠英(光政から14代目)が1万石に加増されて大名となる。
文政9年(1826)11月18日、忠英は嘉例再開を願い「兎御献上之儀留」を差し出しだ。
これを許されて、以降は領地の上総国望陀郡上根岸村(現千葉県木更津市上根岸)で兎を用意した。
●上根岸村の兎捕り
上根岸村では毎年12月初旬から30戸の村人達は藩から拝受した狩猟網を使い、公儀の「御兎御用」の旗を立てて貢物の兎の捕獲をしてた。
毎日二三里の山野で探し、あるいは小高い丘の山岸に罠を張って兎を追い立てて、5疋を得ると生きたまま御用かごに入れて担がせ、江戸藩邸の林侯に貢いだ。
運搬中は帯刀を許されて士分となった村役人が付き添い、上根岸から姉ヶ崎までは村人が担ぐが、姉ヶ崎からは宿場ごとに人足を継立てて、市川の御番所では番所役人はひざまずいて敬礼し、江戸川・中川を渡る時は特別仕立ての船を一艘用意して一般の乗客は許されなかった。
林侯は12月29日までに官府に献上する。
上根岸村には林侯から褒賞として毎年米一石を下賜される。
碑文※原文は註釈等無し
昔、徳川将軍家にて元旦の吸物に兎を用ひたる慣例は三河後風土記・瑞兎奇談等の文献に徴すべく、普く人口に膾炙したる(人々の話題にのぼって持てはやされ広く知れ渡る)事実也。
而して眇たる(そして小さな)我上根岸の里は、幾百年の久しき此兎を献納したる歴史を有する処、由来は遠く家康公九代の祖有親と其子親氏とが、故あって信州林郷なる林藤助光政の家に客たりし、其歳も尽きんとし光政雪中に兎を狩り、之を翌永享十二年元旦の吸物として供せしが、不思議にも有親父子開運の基と成り、終[つい]に家康に至って覇業を遂げたる故、徳川家に在りては無上の吉例として永世絶つことなかりし者也。
扨[さて]家康大将軍と為り、林氏も恩賞に預り、後年一万石諸侯の班に列したれど、乱夷ぎて先づ授與されたる采地三百石の旧此村は林家の宗領地とて、啻(ただ。強調)に献兎の命を蒙りたるのみならず、新年の賜宴には領内の首坐[座]を占め、御倉開の式は我村人の手にて行ひ、又名主は世襲ならで公選なりし等、治者被治者の間に隔なく、師走に入れば公儀への御用として、葵の旗に給附の網にて、遠近兎狩に何憚[はばか]る処なく、五口を揃へ駕籠に乗せ、附添の名主は両刀を佩し、供一人を具し、姉崎迄[まで]は村人夫に、同所より沿道人夫に舁[か]かせ(運ばせ)、道中威儀正しく、其月廿日に江戸九段の林侯邸へ送り附くるが恒例にて、為めに年米一石を給せられ、幕末迄踏襲したる美談なるも、星移り物換り、今は當[当]時を記憶する村の老人も残り少なに成り、可惜(あたら。惜しいことに)郷土誌も後世忘れらるべきを憂ひ、今歳卯年に因み、一は青年子弟の為め、一は世道人心の為め、我等識る処を録し、痩碑を樹つること如此[かくのごとし] 昭和二年丁卯三月 米崖松﨑九郎平撰
※献兎の永享12年に光政との関係は確証できず、別の代の逸話である可能性も示唆されている。
裏には『粛ヽ兎罝 施于中林 赳ヽ武夫 公侯腹心』
粛粛たる(しゅくしゅく/引き締めた)兎罝(としゃ/罝は網)、中林(ちゅうりん/林の中)に施す。
赳赳たる(きゅうきゅう/勇ましい)武夫(武人)は、公侯(周の文王)の腹心(心と徳を同くすること)。
毛詩(詩経)の国風(諸国民謡編)の文王の徳化の盛んな様子を詠んだ詩が、徳川と林家の古事と重なるとして引用している。
粛粛兎罝は雪中に兎を得たこと、施于中林は信州林郷に住居すること
赳ヽ武夫は光政の武勇が優れていたこと、公侯腹心は互いに忍び暮す境遇の時に力を合わせ、そして徳川家が戦乱を収束し太平をもたらし、ついに林氏の武名を世に輝かせたことに比べているという。
▲八坂神社
祭神:須佐之男命、奇稲田姫命、八柱御子神
地元では天王さま(牛頭天王・須佐之男命)と呼ばれていたようだ。
手洗い石の大きな三つ巴紋は、林家の家紋(丸の内三頭左巴下に一文字。請西藩ページに画像あり)が初めは盃に因んだ一文字が無かったともされるのを思わせるが、これは八坂神社の神紋の三つ巴紋であろう。
富士山を模して石を積みあげた富士塚。富士大神の石は明治期のもの。
石像が彫られているのは庚申塔。
お社の裏手の左右に児守神社等の摂社。献兎乃記念碑の傍らにある石祠は道祖神。
神社の傍らに流れるのは上根岸橋の架かる小櫃川。
八坂神社所在地:千葉県木更津市上根岸171
参考図書
・井原頼明『禁苑史話』
・『木更津市史』
・『君津郡誌』
・大畑春国『瑞兎奇談』
・『三河古書全集』
・小野清『史料徳川幕府の制度』
※他、郷土史料として別途まとめます