大樹寺[2]松平家八代の墓と略歴

大樹寺松平八代墓 大樹寺松平八代墓の葵紋の門

松平八代墓(まつだいらはちだいぼ)岡崎市指定文化財
元和元年(1615)徳川家康松平家菩提寺の大樹寺に、前三代親氏公来の廟所(信光明寺/岡崎市岩津町)を模して追修し、4代親忠以下清康に至る先祖三河八代の墳墓を再建。
元和3年(1617)に天領代官畔柳寿学が奉行となり、家康の一周忌が大樹寺で営まれた際に、信光明寺の松平三代墓の宝篋印塔をここに移転し、現在の姿に整備した。

 

初代松平親氏の墓 2代松平泰親の墓 3代松平信光の墓
▲松平初代~3代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)……岩津松平家の発祥
■初代 親氏(ちかうじ。生没年不詳。芳樹院)
諸説あるが時宗の流浪の僧徳阿弥(とくあみ)が三河(愛知県)に入り、大浜(西尾市)・矢作(やはぎ。岡崎市)等を経て松平郷(豊田市)に至り郷主松平太郎左衛門信重の婿となり、郷敷城を築く。
子(弟とも)の泰親と共に近隣山間部の林添、麻生等を攻略して勢力を拡大し、中山郷7名(17名とも)も支配したという。この頃信州から林藤助が来て親氏の靡下に属す。
大樹寺には康安元年(1361)4月20日逝去と伝わるが諸説あり。松平郷の高月院に葬。

■二代 泰親(やすちか。生没年不詳/良祥院)
親氏の弟、もしくは子。松平信広・信光と共に岩津(岡崎市岩津町)に進出。
泰親の代に本多平八郎助時が松平家に仕える。
大樹寺には永和3年(1377)9月20日逝去と伝わるが、信光の年代と合わず不明。

■三代 信光(のぶみつ。1404~1488/崇岳院)
泰親(もしくは親氏)の子。左京亮、後に和泉守を称した。
応永28年(1422)8月15日泰親と協力し夜襲で岩津の中根大膳を討ち取る。
伯父(もしくは兄)信広は岩津攻めで足を負傷したため松平郷に残り、信光が今後の本拠地となる岩津城の城主となる。
泰親と共に円川(つぶらがわ。中垣町)合戦に勝利して大給城(おぎゅう。豊田市)を占領し、保久城(ほっきゅう。岡崎市)を焼いて下し、勢力を拡大する。
永享3年(1431)3月、洞院大納言実熈が三河大河内に配流となった折に泰親が京都まで守護した縁から、子の信光が室町幕府政所執事伊勢貞親の被官となったとも伝わる。
宝徳3年(1451)親氏・泰親の菩提を弔うため信光明寺を創建。
寛正5年(1464)5月に伊勢貞親の命を受けて井口砦(岡崎市井ノ口町)に篭る郎党鎮圧のため深溝(幸田町)に出陣し大場次郎左衛門を誅した。
この頃、宇津(後の大久保)八郎右衛門昌忠や榊原主計清政が信光に仕える。
文明3年(1471)7月15日夜、踊りの行列で偽装して油断させ、安祥城(あんしょう。安城市)を攻略。※『三河物語』による。諸説あり
続けて岡崎城主西郷弾正左衛門頼嗣と交渉し岡崎城を譲り受け、西三河の半ばを治めた。
長享2年(1488)7月22日に85歳で没。

 

4代松平親忠の墓 5代松平長親の墓 6代松平信忠の墓
▲4代~6代の五輪塔(ごりんとう)……安城松平家
■四代 親忠(ちかただ。1431~1501/松安院)
信光の3男。左京進、左京亮、蔵人を称した。
應仁元年(1467)8月23日、第一次井田野合戦(岡崎市井田・鴨田)で尾張品野・三河伊保の大軍に対し信光は500騎で交戦して勝利。その後、戦死者を弔うために念仏堂(今の西光寺)と千人塚をつくる。
文明(1469~)の初年に家を継ぎ安祥城に住む。
文明7年(1475)菩提寺として大樹寺を建立。
長享元年(1489)8月に麻生城を攻め天野弥九朗を下す。
長享2年(1488)に父信光が亡くなったことを悼んで親忠は仏門に入り西忠と称した。
明応2年(1493)10月第二次井田野合戦。上野の阿部・寺部の鈴木・挙母の中條・伊保の三宅・八草の那須氏の連合軍(全て豊田市)が岩津城を襲撃し岡崎へ迫ったため、親忠が兵2千を率いて井田野で食い止め、撃退。
文亀元年(1501)8月10日、71歳で没。※諸説あり

■五代 長親(ながちか。1473~1544/掉舟院)
親忠の3男。忠次-長忠-長親と改名。蔵人または出雲守を称した。安城松平家2代目。
文亀元年(1501)9月、父親忠の死の直後に駿河今川氏親の軍が西三河に侵入し、松平一族は結束を固めて警戒する。※今川軍の侵攻時期は諸説あり。この頃に仏門に入り道閲と号したという。
永正3年(1506)8月21日、駿河今川氏親の軍が再び西三河に侵入し、氏親の客将伊勢新九郎盛時(長氏。後の北条早雲)が一万騎余で岡崎に入って一部を甲山において岡崎城をおさえ、伊勢盛時本隊は大樹寺を本陣として岩津城に攻めかかった。※11月とも。『大三川志』は文亀元年9月
安祥城の長親は一族郎党を集めて最期の酒宴を催し、そして僅か500余の軍で矢作川を越えて岩津城を狙う今川勢の背後を攻めた。
夜戦となり疲弊した両軍が一時兵を収めた時に、陣中で裏切り者が出たと噂が流れた今川勢は駿河へ撤退した。
永正年間の連戦で松平惣領の岩津家が衰退し、安城家が惣領となる。
天文13年(1544)8月22日没。

■六代 信忠(のぶただ。1486~1531/安栖院)
長親の長男。次郎三郎。左近、蔵人、左京亮とも。安城松平家3代目。
大永3年(1523)に早くも家督を嫡男の竹千代(清康)に譲り、大浜郷に隠居して祐泉と号し、また泰考・道忠と改める。
信忠派・弟信定派と分かれた家督騒動の渦中にいたため『三河物語』では叛く者を誅殺する残忍な性格に書かれてしまっているが、内紛を収めるため潔く引退し陰ながら若い清康を援けた説もある。
享禄4年(1531)7月27日に没。

 

7代松平清康の墓 8代松平広忠の墓 松平家9代徳川家康の墓
▲7代清康の五輪塔と8代広忠の無縫塔(むほうとう)、近年建立の9代家康の墓
■七代 清康(きよやす。1511~1535/善徳院)
信忠の長男。次郎三郎。
大永3年(1523)13歳で安城松平家4代目となる。
大永4年(1524)14歳で、岡崎城主松平(西郷)信貞の持つ山中城(羽栗町)を攻めた。信貞は大草に隠居し、清康は安祥城から岡崎城に移る。
大永5年(1525)足助(豊田市)鈴木氏を攻略。
享禄2年(1529)5月27日、牧野氏の吉田城(豊橋市)攻めのため岡崎城を出発し赤坂を本陣として、翌日進攻し激戦の末に牧野勢を打破る。この年、小島城(西尾市)も攻略。
享禄3年(1530)熊谷氏の宇理城(新城市)攻を攻め、熊谷実長の迎撃に一度は崩されるが、城内の者が内応して火をかけたため落城。
享禄4年(1531)三宅(周防とも)氏を攻め伊保城(豊田市)を手中にする。
天文2年(1533)3月20日、広瀬城主三宅・寺部城主鈴木氏らとの岩津合戦で勝利。12月に三河に侵入した信濃兵を井田野で撃破。
天文4年(1535)2月22日に大樹寺の多宝塔を起工させ4月に完成。真柱銘に「世羅田次郎三郎清康安城四代岡崎殿」とある。
12月3日、尾張進出を図り一千余騎で岡崎城を出発し、翌日に尾張織田信秀(信長の父)の守山(森山とも。名古屋市)へ侵入。この夜、守山の陣中で家臣阿部大蔵定吉(正澄とも)が謀反の疑いで処罰されると誤った噂が立つ。
5日早朝、噂を信じた子の阿部弥七郎が清康を背後から刺殺。享年25歳。
岡崎勢は撤退を余儀なくされ、若い雄渾の宗家当主の急死により松平氏の三河支配が揺らいだ。この事件は後世守山崩れと呼ばれる。
大樹寺の他に随念寺(岡崎市門前町。養女お久の墓も)と大林寺(魚町)等にも墓がある。

■八代 広忠(ひろただ。1526~1549/大樹寺・瑞雲院)
清康の長男。幼名千松丸、のち次郎三郎。
天文4年(1535)12月、10歳の時に父清康が殺され、家督をめぐる内紛がおこり、叔父の松平信定(桜井松平家)が岡崎城に入り、千松丸は流浪の身となる。
28日に阿部定吉が息子の罪の償いのため千松丸を護って伊勢の神戸(三重県鈴鹿市)へ。
天文4年(1535)3月17日に海路で遠州縣塚に渡る。阿部大蔵や、清康の妹婿の東條吉良持広は駿府の今川氏に助力を請う。8月26日に形ノ原に移る。
天文5年(1536)9月10日に茂呂城に入り、閏10月に吉田を経て駿府の今川義元に面会する。
天文6年(1537)5月岡崎に残る大久保新八郎忠俊と弟甚四郎忠員・弥三郎忠久らに岡崎帰城を促され、千松丸は茂呂城に戻る。
29日、岡崎を執っていた松平蔵人信考が有馬温泉に赴いた隙に、大久保忠員・八国甚六詮実・林藤助忠満・瀬又太郎正頼・大原近右衛門惟宗が千松丸のもとに集った。
6月1日岡崎城を攻め、大久保忠俊が本丸の石川兄弟を討って開門し、千松丸は入城を成し遂げた。12月9日に元服。
天文9年(1540)織田信秀の三河侵攻が激しくなり6月6日に松平左馬介長家(親忠の子)の安祥城が包囲され、松平長家・信康(広忠の弟)・信忠をはじめ譜代の林藤助忠満渡辺右衛門照綱・本多弥八郎正貞・弥七郎正行(正貞弟)・内藤善左衛門・近藤与一郎・足立弥市郎等将達が奮戦するが守りきれず、50余人が戦死し落城した。以降、広忠は駿河の今川義元の援助を受けて安祥城の奪還を試みることとなる。
天文10年(1541)於大の方(伝通院。家康の母。刈谷城主水野右衛門大夫忠政娘)を娶る。
天文11年(1542)8月10日松平勢は今川義元の翼下として織田信秀軍と小豆坂で合戦する。※織田の小豆坂七本槍の奮戦で織田軍の勝利とするが虚構ともされる
8月27日叔父の松平信孝が、信孝の弟康孝の旧領三木(岡崎市三ツ木町)を横領したとして、広忠は信孝の留守を狙って三木城を占領。合議で追放された信孝は織田氏につく。
12月26日に次男の竹千代(後の徳川家康)誕生。
天文12年(1543)9月に水野氏が織田方についたため、於大の方を離縁する。
天文14年(1545)9月20日安祥城奪還のため清縄城に出陣するが織田勢の挟撃に遭い敗走。
天文15年(1546)9月6日広久手に兵を出す。
天文16年(1547)8月2日に6歳の竹千代を今川家の人質として駿河に送るが、竹千代は途中で織田方に奪われてしまう。
天文17年(1548)4月15日耳取縄手合戦──3月19日に小豆坂で今川勢と織田勢が合戦し織田勢が安祥城まで退いたため、に大岡の山崎砦の松平信孝が単独で岡崎城を落とそうと500騎を率いて妙大寺(岡崎市明大寺町)表へと迫った。200騎の兵で迎え撃った広忠は、予め伏兵として絵女房山に弓の精鋭を配置して山を下る信孝軍へ射らせてから妙大寺へ退かせた。一直線に伏兵達を追いかけた信孝軍を、広忠家臣の隊が左右から挟撃。信孝は半弓で脇腹を射られて討死した。
天文18年(1548)3月6日、広忠の側に仕えていた岩松八弥が城内で突如広忠を刺し殺す。
岩松は織田方の広瀬城主佐久間九郎左衛門全考の刺客であった。享年24歳。
大樹寺の他に密葬した松應寺(松本町)、広忠寺(桑谷町。永禄5年家康が建立)、大林寺(魚町)、法蔵寺(本宿町)にも墓がある。

広忠の死後は今川勢が岡崎城に入り、主君を失った松平家中は今川氏の指揮下に入る。
8歳の竹千代は織田信広との人質交換で駿河へ(家康の生涯は著名なので省略)
かつては広忠までの8基が並んでいたが、昭和44年に家康公の墓も日光東照宮の廟に模して岡崎市民により宝塔が建てられた。墓碑の法名は徳川18代当主徳川恒孝(つねなり)氏の筆。

岩津松平家供養塔と歴代住職の墓
▲松平八代墓のそばに岩津松平家供養塔。奥の開山堂の敷地には歴代住職の墓が並ぶ。