請西藩「真武根陣屋」

真武根陣屋遺址 真武根陣屋跡案内板

請西藩真武根陣屋(まふねじんや)
徳川幕府譜代大名の請西藩二代藩主・林播磨守忠旭(はりまのかみただあき。林氏は故事に習い将軍が元旦に食べる吸物に入れる兎肉を代々献上する家柄)が、嘉永3年(1850)上総国望陀郡(千葉県木更津市)請西村に造営。
移転元の貝淵陣屋を「下屋敷」と呼ぶのに対し、「上屋敷」と呼ばれていた。

木更津港から約2km程南東に位置する、標高50mの真船台地に所在。
調査によると陣屋の推定面積は南北370m・東西280m・8800㎡。南西の土手部分や西側の枡形を含めると倍の面積になると言う。
南西部に大手口、北側に(飲食用陶器の遺物があるため)御殿、中央に役所や蔵、大手口両側に士屋敷(南東部にも陶器の遺物)があったとみられる。

言伝えによると請西の地名は「城砦」の転訛で、陣屋を置くより前に古い城砦が在ったらしい。廃砦跡とすると陣屋に適した立地といえる。

陣屋は請西藩第3代藩主忠崇が佐幕派に属して出陣した際に焼かせて焼失する。陣屋址は地元の者に「お林」と呼ばれた。
昭和20年、戦後の農地改革で開墾され遺構は壊されてしまった。
請西藩の陣屋の存在が完全に埋もれてしまうことを憂いた知己関係者達の促進により昭和41年4月に木更津市指定文化財となった。

 

真武根陣屋遺址の碑

▲「真武根陣屋遺址碑」(まふねじんやいしひ)
忠崇が出陣した相州の、根府川で産出する赤みを帯びた根府川石の碑石は、箱根山の陣中で月光を仰いで詠んだ和歌と共に、20代当主林忠昭氏による碑文が刻まれている。
一番上には、徳川将軍より拝領の林家家紋、丸の内三頭左巴下に一文字。

陣中観月

くもりなき心や見せんあすの夜は
かはねの露に照らす月影

慶応戊辰四月 忠崇

 

林氏は清和源氏。親羅三郎義光十七代の孫光政公を祖とす。
姓は小笠原、徳川家康の祖、有親、親氏と足利持氏に仕えて誼し。
讒に遭ひ去って信州林郷に在り。親氏父子も持氏義教との隙に流浪し、永享十一年臘日、光政を誘ふ。
公遇する雪中に一匹兎を狩り、元日之を羹にし、薦めて歳旦を賀す。上意により姓を林と改む。
後、親氏三河に興るに及び、出でて仕ふ。
歴代、歳末に兎を献じ、元旦、将軍より一番に盃を賜ふ例とす。拝領紋、下に一の字を加ふ所以なり。

十四代忠英公諸侯に列し、若年寄に進む、子十五代忠旭公請西藩主として、嘉永三年、此処に館を営み真武根陣屋と称す。
第十六代忠交公伏見奉行勤役中に卒し、忠旭の子忠崇公封を襲ぎ戊辰の大変革に際す。
若干二十歳で徳川氏朝敵の汚名を受くるや、譜代の恩義を痛感、その冤を雪がんと蹶起し、慶応四年閏四月三日、藩地を脱し、豆相より奥羽各地奮戦す。
後、天恩鴻大、徳川家の社稷存せらるるに至って、翻然罪を闕下に請ふ。
赦されて忠交の男忠弘華族に列せられ、忠崇公亦其礼遇を賜ふ。

星霜移ること百年、里人お林と称し、藩侯の遺徳を慕へり。
後開拓せられ、今その址を留めず、往時を偲ぶに由無く、只管史蹟の湮滅を虞る。
玆に木更津市より文化財として史蹟の指定を受く。仍て碑を建て縁由を録し以て不朽に伝ふ。

昭和四十年四月廿二日 当主 第二十代 林忠昭 建立

林勲氏の碑文

真武根陣屋陣屋懐古詩碑(うたぶみ)
発起人である林勲氏による碑文。氏の物した詩が刻まれている。
一番から五番まで、忠崇の出陣の勇姿を謳うこの詩は柴勝三氏の作曲で歌になっている。

 

石祠と藩庁方面 海と貝淵方面

▲左写真、小さな石祠の方向(西南)奥にかつて藩庁や蔵が建てられていたようです。その先に古井戸、大手口(南)として枡形門の土塁も築かれていました。
右写真が貝淵陣屋がある方向(西)です。更にその先に江戸湾(東京湾)が広がります。こちらの区画は調査により遺構が完全に消失していることが確認されています。

木更津中央霊園前の道

▲址碑の前で南方向を撮影。木更津中央霊園入口のすぐ向かいにコンクリートに囲まれた址碑があります。かつては土塁が廻らされていたのでしょう。この右の敷地の先にも古井戸。
※縄張り等の学術的図面は著作権の都合で引用できず、言葉での説明のみでご容赦下さい

・真武根陣屋遺址
所在地:木更津市請西字間船台1319-21