▲真武根陣屋遺址
請西藩の真武根陣屋は林忠崇の実父、忠旭が構えた。
■林忠旭(ただあきら。銈次郎。林家15代)
文化2年(1805)2月6日、武州にて林忠英の次男として生まれる。母は後室。
8月、兄(忠英長子)忠起が21歳で病死。
文化10年(1813)忠旭を跡取りとする届け出が認められる。
文政2年(1819)12月2日、15歳で西の丸の小姓として出仕。
12月16日、従五位下に叙され諸大夫、播磨守となる。
父林忠英が徳川家斉に引立てられていたため忠旭もその恩恵があったと思われる。
文政4年(1821)2月11日船掘筋御成りの際弓の御伴した際に浅草今戸で小鳩を1羽仕留めた褒美として、時服を授かる。
文政8年(1825)4月23日に父忠英が若年寄となり1万石の諸侯に列し、翌日忠旭も21歳で菊之間席となる。
5月24日、実母の本誓院が死去。
天保8年(1837)徳川家斉は西の丸で退隠し、家慶が将軍職となる。
天保12年(1841)閏1月7日に家斉が没し、老中水野忠邦(みずのただくに)が家斉に引立てられていた西の丸派の粛清と、天保の改革に踏み切った。
4月16日に父忠英が免職され1万8千石のうち8千石を削られ、7月29日に隠居に着き忠旭が家督を継いだ。
天保14年(1843)6月10日、利根川分水路・印旛沼古堀筋普請御用を仰せつけられる。
江戸湾(東京湾)と印旛沼に流れていた2つの川、古掘筋を地面を掘って水路をつくって繋げ、利根川~印旛沼~江戸湾を結ぶ大工事である。
印旛沼開拓は過去、天明期の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の時に計画され大洪水と反発を受けた田沼の失脚で中止となっていた。
しかし天保13年(1842)に幕府普請役の二宮金次郎(尊徳/のみやたかのり。そんとく)が事前調査をし工事は困難であると報告したにも関わらず、幕府は強行する。
幕府の実施であれ、実際は御手伝として5藩が予算超過分(20万両)等を負担する形で普請を強いられたと言える。
一の手 駿河国沼津藩(静岡県・5万石)水野出羽守忠武【担当区間の村:平戸~横戸】
二の手 出羽国庄内藩(山形県・14万石)酒井左衛門尉忠器【横戸~柏井】
三の手 稲葉国鳥取藩(鳥取県・32万5千石)松平因幡守慶行【柏井~花島】
四の手 上総国貝淵藩(千葉県・1万石)林播磨守忠旭【花島~畑】
五の手 筑前国秋月藩(福岡県・5万石)黒田甲斐守長元【畑~海辺】
忠旭は父忠英、沼津藩水野忠武は祖父忠成が前将軍家斉の寵臣であり水野忠邦派に疎まれたことから報復人事で、他藩も国替え拒否をした経緯や断りきれない立場ゆえに指名されたともされる。
沼津藩は平戸村~横戸村4,416間(現八千代市平戸~千葉市花見川区の約8km)の最長区間、貝淵藩は2番目に長い2,234間(花見川区内の約4km)を受け持つこととなった。
また貝淵藩は粛清を受けて減封され1万石となった小藩でありながら見積金額は4万両にのぼった。(最大が高台を任せられた庄内藩約11万8千両。5万石の秋月藩は比較的楽な区間で1万両)
割掘工事は進むが、天保14年(1843)閏9月14日に水野忠邦が老中職を罷免され、23日に忠旭は普請の御手伝を免じられる。
天保15年(1844)5月10日に江戸城本丸に火災が発生、復興資金の上納を命じられる。
25日に正式に印旛沼開拓が中止が決まる。
印旛沼の普請は、改革の反発にあった水野忠邦の失脚により中止となり、普請を担当した藩には御下賜品が贈られることで労いとした。
嘉永3年(1850)11月23日、忠旭は陣屋を上総国望陀郡(千葉県木更津市)貝淵村から約1.5km南東の請西間舟台に移し真武根陣屋と称した。
西南に耕地をめぐらし東北は小高い山丘に連なり平坦にして縦横数町。
嘉永6年(1853)6月4日、米国艦隊来航の報により幕府が請西藩等、総州諸藩に湾岸警備を命じる。
安政元年(1854)4月27日に弟忠交(武三郎・後に肥後守)に家督を譲る。
※忠旭正室(曽我伊予守助順の娘)の長子は早世、末子の昌之助(忠崇)はまだ幼年のため、忠旭の弟である忠交(武三郎。忠英の側室の子)を養子にとって継がせた。
慶応3年(1867)10月20日、63歳で病没。義鶴院殿一道大居士。江戸愛宕下青松寺に葬。
生前の忠旭は画号を一道と号し、狩野(かのう)晴川院養信に師事し、好んで鷹の絵を描いたという。
▲萬年山青松寺
※青松寺の墓地(林家墓所・石碑等)は檀家以外は立入禁止です。
一般の方は墓所の参拝許可がおりた場合でも、撮影や写真のWEB掲載を許可しておりません。
青松寺サイト:http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/
所在地:東京都港区愛宕2-4-7
余談。
水野忠邦は肥前国唐津藩主(佐賀県)であったのを、幕政に加わる為に遠江国浜松藩への転封となるよう働き実現させています。
唐津藩には小笠原が入りますが、戊辰戦争後に林忠崇が御預となった先が、この小笠原家ですね。
ちなみに林忠英達が粛清された代わりに登用された遠山景元(とおやまかげもと)は、後に江戸町奉行として天保の改革の厳しさに苦しめられた庶民を助けようと水野忠邦派と対立することになりますが、この景元が「遠山の金さん」のモデルです。