上総国飯野藩保科家 無断転載・使用を禁じます

保科家と上総国飯野藩

飯野藩(いいのはん)は上総国(かずさ。千葉県)の「総南の名門」と言われた藩。
一国一城令により城はなく周淮郡(周淮/すえ、周准/すす)飯野(富津市)の飯野陣屋に藩庁が置かれた。
上総・下総国に約三千、関西の近江・摂津・丹波国に一万七千の二万石。 房総は頻繁に転封が行われていたにもかかわらず、慶安元年(1648)立藩~明治維新後の廃藩置県(1871)まで藩主保科(ほしな)家10代に亘り一度も国替なく、江戸幕府の守りとして223年続く。

保科氏祖の伝承家格保科家家紋伺候席時献上*幕府献上物参勤
清和源氏井上家、或いは諏訪神社の神氏流。神氏の四郎太夫行遠が信濃国中嶋高井郡保科に移住し保科を称する等諸説あり譜代 大名
家禄 20000石
陣屋(飯野陣屋)
並九曜(なみくよう) 梶の葉
並九曜 ・ 梶の葉
帝鑑間
(ていかんのま)
4月:椎茸/漬松茸
10月:串海鼠
(くしこ。干しナマコ)
毎年12月参勤
毎年8月御暇
挟箱:二重革内全紋先挟箱
槍:1本駕の跡
立傘:あり

飯野藩保科家系譜・伝【保科郷の保科氏】 ─ 保科氏のルーツ

飯野藩保科家系譜・序【高遠系~】 ─ 高遠(たかとお)藩・会津(あいづ)藩・飯野藩保科家の始まり概要

初代藩主「保科正貞」年表 ─ 高遠での保科正之(会津松平家初代)との関わり~飯野藩立藩

最後の藩主「保科正益」年表 ─ 会津藩のと密接な関係により幕末の倒幕・佐幕に揺れる飯野藩

保科家に因む蕎麦「更科そば」 ─ 更科蕎麦の「科」は飯野藩保科の「科」ともされる

 

■上総飯野藩歴代藩主 ※少しずつ更新していきます
【1】正貞(まささだ/1855-1661/弾正忠):藩主在期 慶安元年(1648)6月26日~
【2】正景(まさかげ/1616-1700/越前守・弾正忠):寛文元年(1661)11月1日~ →関連ブログ記事
【3】正賢(まさかた/1665-1714/兵部少輔):貞享3年(1686)10月25日~※正祥
【4】正殷(まさたか/1694-1738/主膳):正徳5年(1715)2月16日~
【5】正寿(まさひさ/1704-1739/弾正忠):享保3年(1718)11月22日~※正昭(まさあき)
【6】正富(まさとみ/1732-1797/越前守):元文4年(1739)~ ※正宜(まさよし)
【7】正率(まさのり/1752-1815/越前守・弾正忠):明和7年(1770)7月5日~
【8】正徳(まさよし/1755-1844/能登守・下総守):享和2年(1802)6月3日~
【9】正丕(まさもと/1801-1848/能登守・弾正忠):文化14年(1817)3月24日~
【10】正益(まさあり/1833-1888/弾正忠・子爵):嘉永元年(1848)7月16日~明治4年7月14日(1871年8月)

 

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