■林忠交(ただかた。武三郎。林家十六代)
天保3年(1832)貝淵藩初代藩主林忠英の四男として生まれる。
安政元年(1854)4月27日に請西藩主(貝淵から陣屋を移転)林播磨守忠旭は長男を亡くしており末子昌之助(忠崇)が幼年であったため、弟の武三郎(忠交)に家督を譲る。
12月16日、従五位下肥後守に叙される。
安政4年(1857)閏5月18日に大番頭となる。
安政6年(1859)8月11日に伏見奉行を21年務めた内藤正縄(信濃岩村田藩藩主。翌年2月死去。前老中水野忠邦の弟)が解任される。
8月28日に忠交が伏見奉行となる。京都町奉行と共に幕末の激動期となる京都での司法・行政を管轄する重職就任である。
9月5日引越費用の借受を願い金一千両を支給される。
万延元年(1860)3月15日、水戸浪士の金子孫二郎(教孝)・同佐藤鉄三郎(教寛)を拘引し、翌日訊問する。閏3月5日江戸に2人を檻送させる。
文久2年(1862)4月23日、忠交は尊皇派達が討幕の挙に出ようと集まったことを察知するが、薩摩藩藩主後見役の島津久光の命で薩摩藩尊皇派の過激分子を伏見寺田屋(てらだや)で成敗されたため、伏見奉行所は関与に至らずに済んだと思われる。(寺田屋事変)
▲薩摩藩士らの「寺田屋騒動殉難碑」と「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」
坂本龍馬像の背後にある殉難碑の篆額は有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆。
文久3年(1863)5月に将軍徳川家茂が大阪城より入洛のため(3月4日に上洛、4月21日に巡視のため大阪城に入り5月11日に出発)淀を経て伏見京橋から伏見奉行所に入る。竹田街道より入洛。
6月9日に二条城を出て伏見街道から伏見奉行所に着き、今留橋より乗船し大阪城へ戻る。
元治元年(1864)6月24日に長州藩(前年の八月十八日の政変で長州藩を中心とした尊皇攘夷派が京都から追放された)家老の福原越後(元僴/もとたけ)が三百余人の兵を率いて長州伏見藩邸に入り、幕府は監察戸川安愛(やすちか)・小出五郎左衛門を伏見奉行所に遣わせ長州藩の様子を偵察させる。
7月3日に朝廷は大監察永井主水正・小監察戸川安愛を伏見に遣わせ、福原越後を伏見奉行所の役所に呼び出すが病を称して翌日応じる。兵を退ける説得に福原は従おうとしたが、山崎天王山に陣する久坂玄瑞らや嵯峨天龍寺に陣する来島又兵衛らは拒む。
その後も応じず18日一橋慶喜は追討を決め伏見方面には大垣藩を先方に彦根藩・会津藩(新撰組も属す)・桑名藩等の兵を出した。追討軍は長州勢を破り敗走させた。
19日の禁門の変勃発時に福原越後が率いる長州勢は伏見長州藩邸に立ち戻り、再び出陣しようと試みるが、彦根藩ら連合軍に京橋から砲撃され藩邸は焼け落ちた。
▲伏見長州藩邸跡と現在の京橋
慶応元年(1865)長州征討への動きで5月24日徳川家茂が二条城を出発し伏見奉行所に入り、翌日大坂へ出立。9月14日に家茂は大坂城を出て伏見奉行所に入り16日に二条城着。23日に再び伏見を経て大阪へ発ち10月3日に大坂城を出て伏見奉行所に入り伏見に逗留し4月2日に二条城入り。11月3日に二条城を発ち伏見奉行所に入り大阪へ着き征討準備を進めた。
慶応2年(1866)正月23日に手配中の浪士坂本龍馬らが寺田屋に入ったと報告が入り、伏見奉行はこれを捕縛すべく指揮をとった。
深夜2時に幕吏(役人)が二階へあがり詰問し、坂本と同泊の長門府中藩士三吉慎蔵の二人は薩摩藩士を名乗った。三吉が手槍を握っているのを見て幕吏が引き下がると坂本らは襲撃に備えた。
やがて階下から数人が得物を携え押し上がり肥後守の上意として捕縛にかかる。
坂本は銃を撃ち三吉が手槍を振るって捕吏に抗戦しながら逃走し薩摩藩邸に救援を求めた。匿った薩摩藩邸は坂本龍馬の引渡しを拒否。
※伏見奉行“肥後守”を同じ肥後守の会津藩主松平容保と誤って解釈され京都守護職配下の新撰組が関わった風聞があるが、この肥後守は容保でなく林忠交である。
▲寺田屋(再建)と伏見薩摩島津屋敷跡
2月23日、禁門事変の軍資を京の商人が代償した書状を幕府に上申し、これを大坂金蔵から弁償することを請う。
慶応3年(1867)6月24日急病のため伏見奉行官舎にて35歳で没した。晃晥院殿轉誉宝国大居士。一心寺に葬る。※急死を黙され実際は5月24日ともみられる
後任が置かれないまま、7月より京都町奉行(永井主水正尚志)の管轄となり、大政奉還を迎え奉行所が廃止されたため忠交が最後の伏見奉行となった。
8月30日に忠交の養子となった忠崇が継ぐが、翌慶応4年(1868)の戊辰戦争で忠崇が脱藩して抗戦に徹したために請西藩は取潰しとなった。
戊辰戦争で減封された藩は少なくないが、全てを没収されたのは請西藩だけである。
▲伏見奉行所跡と明治期?の石垣
慶応4年の鳥羽伏見の戦いで新政府軍の砲火を浴びて伏見奉行所は焼け落ち、その後跡地は陸軍工兵隊の兵営になっている。
▲一心寺と忠交の墓
『晃晥院殿従五位下前肥州大守轉譽寳國忠交大居士』
『慶應三丁卯年 六月二十四日 林 肥後守源忠交 於城州伏見宦舎卒』