正永寺[1]甲源一刀流師範・請西藩士檜山省吾の墓所

正永寺本殿 請西藩士檜山省吾の墓

霊鷲山正永寺本堂檜山省吾の墓
勝圓寺を檜山省吾が奇籍した菊池家の再興で現在の正永寺(しょうえいじ)に改称したという

 

檜山省吾(ひやましょうご)
天保10年(1839)6月23日、小森村(埼玉県秩父郡小鹿野町両神小森)間庭の小名間庭嘉平の次男として生まれる。幼名は英太郎
小沢口の逸見(へんみ)家の甲源一刀流練武道場耀武館(ようぶかん)で逸見太四郎長英に学び、後に師範となる程の剣の腕を持つ。

祖父の新井佐太夫信暁は、小森村・薄村(後に両神村に統合)と下小鹿野の一部を領していた松平中務大輔の郷代官を務めた幕臣で、以降間庭家が小森村名主を代々務めたという。
父の嘉平は鉢形衆の子孫と伝わる町田采女家から婿に入り、明治維新後は戸籍法制定で戸長となった。
兄の信太郎が家を継ぐため、省吾は17歳で、小森村の南の白久村猪鼻(秩父市荒川白久。幕末は忍藩松平下総守の所領)の高野家に婿入りをした。

しかし間もなく高野家と離縁し、請西藩檜山蔀の養子となる。小森村に隣接する上小鹿野村は請西藩主林肥後守の領地で、縁があったようだ。
間庭家は信太郎が出奔してしまい、間庭家は省吾の弟の犀平治(犀次。後に両神村長)が当主となった。

 

■請西藩士檜山省吾と戊辰戦争
慶応4年(1868)省吾が30歳の時、20歳の青年藩主林忠崇の決起に従い軍事掛として転戦し綴った日記が後に生まれる息子の小弥太により『慶応戊辰戦争日記』として複写され徳川再興を願う戦いと若き主君を護の請西藩士達の様子が今に伝えられている。

箱根に渡った後、6月の香貫村では長雨で腹を壊す者が多く出て、蟄居中の気保養にと忠崇や藩兵のために撃剣を披露していただろう省吾も患ってしまった。
しかし剣の腕に覚えあればこそ箱根関の戦いには病身で大雨の中、人見勝太郎率いる先行隊の加勢に発った我武者羅な振る舞いを、同郷の吉田柳助に諭され、その後の奥州磐城での戦いで大軍に少数の藩士で突撃する覚悟を忠崇が制している。
8月5日忠崇が仙台招致の要請を承諾し、相馬中村で藩兵を纏めていた省吾らを呼び会津を出発。
9月25日東北諸藩が次々に降伏し輪王寺宮も謝罪を決め、徳川家の存続が成った今、徳川のために戦ってきた意義が薄れ、これ以上は私闘となるため、忠崇は降伏を決めた。
顛末を請西藩関係者に伝えるため江戸に帰された省吾を除いた名簿を仙台監察熊谷齋方に差出す。

 

■小森村帰郷・小鹿野町転居
明治2年(1869)正月に省吾は小森村に帰郷し、その後は小森小学校兼薄小学校教員となった。
戸籍には明治4年(1871)4月14日「東京浅草西松山町八番地太田治郎兵衛方へ全戸附籍」
明治8年(1875)3月3日秩父郡「小森村間庭嘉平方ヨリ附籍」とある。

明治9年(1876)2月に未婚の菊池故う(こう)との間に小弥太(小彌太)が生まれたと思われる。故うは8年前に加藤恒吉との間に菊池群次郎(後に小鹿野銀行支配人)を生んでおり、故うにとって二男にあたる。
6月3日付けで省吾は南第11大区の27の小学校教員と保護役一同と共に農事休業願いを揖取熊谷県令に提出。許可が出ると以降は農林業に従事した。

明治10年(1877)4月5日に菊池家に附籍し、故うと共に小鹿野町(旧上小鹿野村)に転居。(戸籍上小弥太はこの年の12月25日生だが、菊池家に附籍後の出生として届出たのか、省吾が記した前年生が誤りかは不明)

明治14年(1881)春頃には剣道が大流行し(『柴崎家文書』)、省吾も小鹿野町警察屯所演武場等で剣道を指南している。
4月に耀武館の逸見愛作が宝登山神社(秩父郡長瀞町)に奉納した甲源一刀流の奉額に代師範として省吾の名がある。

 

■秩父事件で自警団を結成する
明治17年(1884)自由民権運動が盛んになり板垣退助(いたがきたいすけ。土佐藩士)を党首に結成した自由党が結成3年目にして急進派の制御が出来ず、埼玉でも4月17日に浦和事件が起き(自由党照山俊三が警視庁の密偵と看做され射殺される)6月に照山粛清の嫌疑で捕縛された村上泰治(たいじ。秩父自由党の若きホープとして影響力があった)の親友である自由党員の井上伝蔵(下吉田村出身)が、まだ18歳の村上を懲らしめた明治政府への反感を強め秩父方面で同胞を集めた。
そして10月29日の自由党解散直後、秩父で自由党の革命論に影響された困民党の徒数千人が、地租軽減・徴兵令改正等を求めて武装蜂起し、警官隊の殉職者も出し東京鎮台(日本陸軍政府直轄部隊の第一軍管区)からも鎮圧に出兵した秩父事件が勃発。

事件に際し省吾は戸長役場(こちょうやくば)に置かれた小鹿野町自警団の本部詰世話掛となり、戸長田嶋唯一(後に省吾の息子小弥太を婿に取る)と共に町の防衛に尽くし、事件後に報告書『小鹿野町ヘ暴徒乱入ノ状況』を提出している。

11月1日午後7時に徒党は下吉田村の椋(むく)神社に武装して集い、下吉田戸長役場を襲撃し村内の高利貸の家に放火。甲乙2隊に分かれ東から甲隊、西から乙隊が小鹿野町を挟撃する形で進み、三百人程の甲隊が下小鹿野村を襲撃した。
11時半頃に甲隊は小鹿野町へ到達。小鹿野役場と裁判所の所員は予め退去しており書類を持ち出して焼くのみに抑えたが同じく空の大宮郷警察署小鹿野町分署(分署長らは大宮へ撤退)には…対政府策として警察権力への誡めと報復か…外から射撃しから侵入し内部を壊し書類を焼いた。

乙隊四百人も西の巣掛峠より法螺貝を吹き鳴らして小鹿野町内に入り、甲隊と合流し、十輪寺裏手の高利貸タバケン(中田賢三郎宅)に放火。この際、耀武館師範宮下米三郎の消防団が延焼防止を交渉(世直しを目的とする困民党の方針で高利貸等に焼討の標的を絞っていた。但し下小鹿野村で民家1件を類焼させている)し聞き入れられたため飛火対策が出来た。
次に金融業も兼ねた商家ヤマニ(山二。柴崎佐平宅。『柴崎家文書』は町指定文化財)を狙うがヤマニは井上伝蔵(困民党では会計長)と旧知の仲で以前より農家の借金返済の陳情に柔軟に接しており、焼討ちを免れ小規模な破壊のみで済んだ。ヤマニの近くの戚柴崎得祐宅も佐平の親戚であったのと、商家常盤屋(加藤恒吉宅)も周囲に民家も密集している立地のため打壊しで済んだ。
時違わずして町外れの丸山(田島篤重郎宅)、磯田縫次郎と坂本徳松宅も打壊しに逢っている。
小鹿野町長田嶋唯一の胸像 小鹿野町指定文化財常盤屋
田嶋唯一の胸像と、町指定文化財として現存する3階建ての常盤屋

困民本隊は諏訪神社(現小鹿神社。後に請西藩主林忠交三男の館次郎も奉仕)に夜営し、2日午前6時に大宮郷へ出撃した。
しかし驚異は止まず、午後1時頃に西から数百人の乙軍別働隊が小鹿野町にやってきた。坂本宗作と高岸善吉が率いる別働隊は、本隊による被害が抑えられたヤマニや常盤屋を再度破壊。暴徒の中には逸見道場で腕を鍛えた経験もある近藤吾平の姿もあった。

省吾は唯一と宮下、耀武館門下大木喜太郎らと策略を巡らして困民党に工作員を送り、狭窄した街並の小鹿野町内より小鹿坂の要地に出る方が得策と工作員に進言させた。
そして逸見愛作に協力を仰ぎ、道場門下生を集め50人一組の自警団5組を編成して町を護らさせた。
夜11時に再び数百名が来襲するも自警団を見て尻込みし、11時半には町から去らせることができた。
3日午前6時に徒党を飯田村に追い詰めて近藤を宮下が切り伏せ、一名捕縛したことで表彰されている。

本陣寿旅館跡 小鹿野観光交流館 本陣寿旅館跡
▲暴動前に寿屋で困民党参謀長菊池貫平を説得した
寿屋は江戸時代に本陣として利用され、代々営まれた本陣寿旅館は平成20年に廃業し現在は宮沢賢治の宿泊地として交流館(観光本陣)に改修。寿旅館代官の間を再現し、明治後期~昭和の館主田嶋保日記の複製や小鹿野歌舞伎の資料等も展示されている

小森村の間庭家では蜂起の報を知った当主の犀治がひそかに東京へ出かけ、騒動がすっかり鎮まった後に帰宅した。両神村から加担者として尋問を受ける者が複数出ており、両神の有力者で知識人であった犀治も自由党思想を疑われたが、東京への旅程で泊まった宿の領収書の束を提出することで関与疑惑を晴らすことが出来たという(井出孫六『峠の廃道』参考)

 

■旧請西藩主林忠崇侯と交誼を続けながら郷里に生きる
明治19年(1886)省吾は南埼玉郡登戸村(越谷市)の小島弥作の次女チエを忠崇に紹介し、結婚の仲介をした。
明治22年(1889)12月に秩父木炭改良組合を結成し、省吾が組合長となる。
明治28年(1895)正月に逸見愛作が願主として靖国神社(東京都千代田区)に奉納した甲源一刀流の奉額に師範の省吾と目代の小弥太の名がある。巨大な額のため製作日数がかかり奉納が予定より遅れるほど多数の門下生の名が刻まれている。

明治37年(1904)6月12日に66歳の生涯を終えた。一説に、腰の根の和田政蔵の家で亡くなったという。

正永寺の菊池家の墓地に、小弥太の筆で父省吾と母故うの墓がある。
雙樹院檜山忠省居士
菊寿院一貫省幸大姉
  請西藩主 檜山省吾 明治三十七年六月十二日歿 行年六十六歳
  俗名 菊池故う 明治三十八年三月二十七日歿 行年七十歳

田隝唯一は明治36年2月に小鹿野町長となり勤続、大正11年6月に72歳で亡くなり、27日に小弥太が町長を継承した。田隝家の『田隝家文書』は町の有形文化財に指定されている。

正永寺山門 正永寺山門の裏

元間庭家の門を移設した正永寺の山門
正永寺の山門は、間庭家の白壁の蔵のついた通り門を省吾が移した。

曹洞宗霊鷲山正永寺 所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野3585