忠孝の士・請西藩士諏訪数馬

 

▲請西藩士諏訪数馬の墓
数馬が館山で没し埋葬された来福寺から諏訪家の墓所に移した墓碑。郷里で諏訪家が建てたであろう奥の古い先祖の墓石にも数馬の戒名(恵光院善忠元鑑居士)がみえる。
※本家の親戚の方に伺いを立て墓参しました。現在は個人管理下のため詳細を求める問合せはご遠慮下さい。

『諏訪数馬肖像并略伝』『忠考』(林忠崇の筆・明治30年)


林忠崇筆『諏訪一馬肖像並略伝』
 諏訪頼母ノ孫ナリ。幼ニシテ父ヲ喪ヒ祖父頼母ニ養ハル。性従順ニシテ謹直ナリ。幼ニシテ先藩主の側ニアリ。長シテ近侍トナル。身多病ニシテ武技ニ耐ヘズ。一藩擯斥シテ遊行ノ士トナス。戊辰ノ年久シク病床ニアリ。余出陣スルにアタリ、ソノ病躰ヲ思ヒ随行ヲ許サズ。数馬従軍ヲ請フコト再三終ニ強ルヲ以テ之ヲ許ス。従テ、房州館山ニ至る。身躰疲労シテ行歩最モ艱ナリ。自ラ思ヘラク、身躰斯ノ如シ。終ニ素志ヲ達スル能ハジト剱ニ伏シテ自殺ス。今ニ至ルマテ墓前ニ参詣スルモノ不絶。抑々其大和魂ニ感動スルカ故ナリ。嗚呼始アリ終アルモノ少シ。世人ソレ之ヲ亀鑑トセヨ。
 明治三十年十月偶数馬遺族ノ家に寓シ感慨ニ耐ヘズ依テソノ行為ヲ略記シ、併テ当時ノ像ヲ画シ以テ記念トス。
「散りてのみふかき香りのいまもなほ のこるや花のなさけなるらむ」
旧請西藩主従五位林昌之助忠崇入道一夢

(画は木更市津郷土資料館フライヤー・略伝文章は林勲『林候家関係資料集』より引用)

 

■諏訪数馬
天保6年(1835)貝渕藩諏訪幸右衛門(兵平。地曳家から養子。林忠英忠旭の二代に仕える)と母りか(当時34歳)の間に生まれる。
嘉永2年(1849)9月4日に父を亡くし、祖父頼母(林忠英に仕え貝渕陣屋の陣代を務めた)に養われる。
幼くして請西藩主林忠交の近侍となる。
江戸浜町の請西藩邸の対岸、本所松井町(現千歳町)の中西福太郎の娘せい(数馬より4歳上)を妻とした。
文久元年(1861)頃に息子の篤太郎誕生。
慶応3年(1867)6月に忠交が伏見で亡くなると忠崇に仕えるが、数馬は生まれつき病弱で満足に仕えられないことを憂いていた。

慶応4年(1868)戊辰閏4月の忠崇決起の際、数馬は病床(労咳とされる)にあり従軍を認められなかったが、再三請いた末に同行を許された。
8日に房州館山に着き長須賀の来福寺付近に宿陣。伊庭八郎が雨中に小船で軍艦大江丸に漕ぎ着け伊豆真鶴への出航を依頼し、豪雨のため一泊し乗船を10日とした。
宿所で考え耽る時間を過ごしたのだろう数馬は、歩行すらままならず、これ以上は主に迷惑をかけるとして、その命を以って徳川と林家にかける忠義の覚悟を表明しようと決意する。
9日朝6時台、数馬は遺状を懐に入れ、剣に伏して自害した。33歳。
来福寺に埋葬された。恵光院善忠元鑑居士。

長須賀村宿陣中卯ノ下刻家来諏訪数馬自殺ス 近来多病ニシテ久ク勤役セス空シク録ヲ食ムコトヲ嘆キ請ヒテ随従シ此處マテ到リシモ歩行難儀ニシテ従行難ヲ憂ヒ死シテ素志ヲ表セント此ニ及フ
時三十歳同地長須賀来福寺ニ埋ム 『林昌之助戊辰出陣記』
 ※年齢は誤りか

 

長須賀薬師 海富山医王院来福寺
かつては来福寺の境内に数馬の墓があった。
数馬の子の篤太郎は明治6年(1873)2月22日に13歳で早世したため大井村の伊丹家から嶋治を諏訪家の養女さくの婿に迎え、明治32年(1899)に千葉県士族に編入認許される。
三代の孫にあたり市原市議会議員を務めた諏訪孝(たかし)氏が郷里の諏訪家の墓所を整える際に来福寺より数馬の墓を移し迎えた。没した館山の地で忠孝の士として拝まれていた長い年月を経ての帰郷となった。
来福寺所在地:千葉県館山市長須賀46-1

また数馬の父親の実父、大田村の惣名地曳新兵衛の家から大河内三千太郎なおが嫁いでいる。