▲長福寺本堂と供養塔寄子萬霊塔(よりこばんれいとう)
勝山藩を出発した遊撃隊と林忠崇率いる請西兵は南下を続け、館山(たてやま)藩に協力を求めます。
藩主稲葉正善は上洛して恭順の意を示していたため要請を拒絶した館山藩に対して交戦覚悟の行動に出ました。
閏4月8日14時頃に長須賀村より鼓を打ち法螺貝吹き、館山湾海上の榎本武揚率いる旧幕府艦隊も呼応して大砲を数発撃ち鳴らして陣屋に迫ります。
そして遊撃隊の人見勝太郎・伊庭八郎が隠居の前藩主稲葉正巳と面会し、兵と兵糧の提供を取り決めました。
10日に一行は館山湾を出航し、その後箱根、奥州(東北)、蝦夷へと転戦します。
義軍第五軍一番隊/房州館山藩稲葉伯耆守家来
[隊長]山田市郎右ヱ門・佐久間竹蔵・木下柳助・梅岡又四郎
風戸倉蔵(庫助)・久保吉右衛門・生田原(日奈)禎竹(助)
・箱根関所の戦いで戦死
高橋金蔵・高橋竹治郎
・箱根で打死
江沢延三郎
・蝦夷の江差戦で戦死
根部田村……佐(作)生佐右衛門
茂草村……飯田東之助・山口勘平
・蝦夷の箱館戦(亀田新道)で戦死
能条考(幸)吉
・蝦夷で中立であった野戦病院の高竜寺(箱館病院の分院。函館市)で殺害される
[箱根では輜重掛・器機惣督、箱館では病院掛として勤務]木下晦蔵
実際は更に傭兵が加わり、記録の十数名より多かったとされます。
人材斡旋をする店「人宿(ひとやど)」の相模屋妻吉が寄親として、斡旋された奉公人「寄子」として一番隊に加わった農卒兵達を供養するため、戊辰戦争後に北下台(ぼっけだい)に建立した塔が「寄子萬霊塔」です。
前面「寄子萬霊塔」「壱番組」「相模屋妻吉」
左側「練兵士当国長狭郡佐野村住高橋金蔵源吉春行年二十一歳」「常楽院西岸道喜信士」
裏側に刻まれた句「鐘の音の 落葉に さみしき 夕べかな」
▲館山城と館山湾
■館山藩・1万石
稲葉正明(まさあきら)は三千石の旗本から御側衆となり、田沼意次の引立てにより長狭郡・安房国内で加増され一万三千石の大名となりましたが、田沼の失脚と共に減封され寛政元年(1789)に隠居しました。
稲葉家を継いだ正武(まさたけ)が安房・長狭・平4郡内三千石を加増され合わせて一万石となり、寛政3年(1791)に里見氏の館山古城下(城山の東麓)に館山陣屋を構えました。
普門山長福寺
所在地:千葉県館山市館山928
寄子萬霊塔も北下台の館山観音御堂の千手観音菩薩像(神亀2年/725年に行基が安置)と共に震災後に本堂(安房国札三十四観音霊場第三十一番札所)側の永代供養墓地へ移されたと思われます。
隣に長福寺観音堂(安房郡札三十三観音霊場第二番札所・十一面観音)が在ります。