川崎尚之助について、尚之助と山本一家、八重(やえ。後の新島八重)との関係についての覚書。
※大河ドラマ「八重の桜」のネタバレになりますのでご注意下さい
●出石藩士の川崎正之助
川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)は天保7年(1836)11月、但馬国出石(いずし。現兵庫県豊岡市)の本町で、川崎才兵衛(通説[a]では出石藩の藩医)の子として生まれた。はじめは正之助と称した。
正之助(尚之助)は江戸に出て蕃書調所(ばんしょしらべしょ。幕府直轄の洋学研究教育所)教授の杉田成卿(せいけい。杉田玄白の孫)や、芝浜松町の医師大木忠益(仲益。坪井為春に改名)塾で学び[b]、蘭学や舎密学(せいみがく。化学)を修めた。
●山本覚馬と出会い、浪人として会津へ
嘉永5年(1852)頃に会津藩の山本覚馬(やまもとかくま)が砲術隊長林権助(ごんすけ)に随行し江戸藩邸勤番を命じられ、この間に勝海舟らと兵学者佐久間象山の塾に学んでいた。
覚馬は正之助も学んだ大木塾に嘉永6年~安政3年(1852~1856)頃まで居たとされ[b]、安政4年(1857)に南摩綱紀と共に会津藩藩校「日新館」の蘭学所の教師となった。この蘭学所設立前に正之助の才能を見込んで会津に招き、会津城下の自宅(米代四ノ丁)に寄宿させ、四人扶持で蘭学所の教授に推薦するも正之助は扶持を辞退している。
※扶持取…一人扶持は1日あたり玄米五合として俸禄を受けた。四人扶持は1年に七石二斗
正之助は砲術指南役の山本家[八重の母の山本佐久(さく)が砲術師範山本家の長女で、山本権八(ごんぱち。永岡繁之助)が婿に入って継ぐ]の元でラッパや鉄砲と弾薬・銅製パトロン(薬莢)の製造も指導する。
また会津藩祖の保科正之と同じ漢字を避けて尚之助(荘之助)と改めたという。[a]
この時尚之助21歳、覚馬の妹で権八の三女の八重は13歳。
●覚馬上洛、砲術師範としての尚之助
文久2年(1862)会津藩主松平容保(かたもり)の京都守護職就任で随行の覚馬が上洛した後、尚之助は日新館所師範方として砲術等を教授した。
元治元年(1864)7月19日、前年に会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派に京都を追放された長州藩勢が松平容保らの排除を目的に挙兵した禁門の変(蛤御門の変)で覚馬は砲兵隊を率いる。この時の戦いで視力が低下したとも。
10月に京都詰と若松詰の会津藩家老の間で尚之助の上京について意見が交わされる(会津藩軍奉行・林権助より上洛要請)ことから、この頃には尚之助は会津藩士になっていたと思われる。
慶応元年(1865)に尚之助は21歳の八重と結婚したともいわれる。
●会津戦争、尚之助は大砲隊の指揮者として戦う
尚之助は「大砲方頭取」として十三人扶持の俸禄を受けており[1]、明治元年(1868)会津戦争に参戦。
家老萱野権兵衛(かやのごんのひょうえ。長修、ながはる)配下の会津軍では女子の参戦を許さなかったが、薙刀奮戦隊(後年「娘子(じょうし)軍」と呼ばれる)を結成した婦人達は押し切って、彼女らの慕う照姫(てるひめ。松平容保の義姉)の元へ集おうとし、8月25日には城下に迫る長州藩との攻防に身を投じた。柳橋の戦いで中野竹子(なかのたけこ)討死。
断髪し白虎隊(八重は臨家に住む伊東悌次郎らに鉄炮の撃ち方指南をしている)と同じ黒の洋装で大小の刀を差しゲベール銃を携えて男装した八重は鳥羽・伏見の戦いで死亡で佐川官兵衛率いる別撰組と配下で戦死した弟の三郎としての心持ちで鶴ヶ城籠城戦に参加する。
八重は8月23日に城内に入り屋敷から持参した新式7連発スペンサー銃で土佐藩兵や加勢の薩摩藩士らを城内から射撃、大砲も撃ちかかった。
8月25日に新政府軍に城の東の小田山を占拠され佐賀藩の天守砲撃に悩まされるが、8月27日尚之助らは四斤山砲を豊岡神社に設置して小田山を砲撃し猛烈な反撃を加えた。この時八重も尚之助を手伝ったという。
9月13日夜、尚之助は城東外郭の敵を二時間にわたり砲撃。
9月14日に鶴ヶ城総攻撃が行われるさ中、尚之助が「我軍は天守閣を的に掲げるのに彼等の弾は命中するに能はず、余一発を小田山の砲塁に加へ必ず命中せしむべし」と弟子の高木盛之輔に言い、放った砲弾は敵塁を貫き丹波家の墓石塔を損傷、第二発復要所に命中し敵塁を鎮めたという。[c]
9月17日、城外の一ノ堰の戦いで会津玄武隊(50歳以上の隊)として八重の父の権八が戦死。厳しい籠城戦が続き9月22日午前10時、大手前に降伏の白旗が掲げられ開城。
●会津開城後の謹慎
会津開城後に尚之助ら城外藩士は謹慎で塩川村、後に他の謹慎者1720人と共に東京へ向かう。[d]
一方八重は、婦人子供60歳以上の老人は御構い無し(立退き自由)にも関わらず、弟の山本三郎を名乗って城内藩士らと共に猪苗代へ謹慎に向かった。
※覚馬は在京で戦い、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩に捕らわれ(失明同然でも活動を続けた覚馬の名は認められており、薩長同盟以前の禁門の変で共に戦った西郷吉之助ら薩摩藩士の待遇は良かった)、明治2年(1869)釈放、翌年京都府庁に出仕、京都府顧問となり会津には戻らずに至る。
余談として在京中に覚馬が開いた洋学所の門下には会津戦争の折に会津に残った戦った新撰組隊士・斎藤一も居た。
●山本一家は尚之助の伝手で米沢、尚之助は旧会津藩士として斗南藩へ
※領地没収となっていた会津藩は、明治2年11月3日松平容保の嫡男の容大(かたはる。当時生後五か月)が家名存続を許され現青森県に斗南(となみ)藩を立藩。翌年、旧会津藩士の移住が許される。
明治3年(1870)閏7月、山本一家が、米沢城下の米沢藩士内藤新一郎(尚之助から砲術の師事を受けていた。四石扶持)宅に寄宿(現山形県米沢市城西)した際、「川嵜尚之助妻」と記された戸籍簿が残っている。
京に上った覚馬もおらず、弟の三郎は京で父の権八も会津で戦死しており、佐久、八重、うら(覚馬の妻)と次女の峰(みね)、佐久の伯母を伴う米沢移住である。
10月、東京で謹慎していた尚之助は斗南藩領の野辺地(のへじ)に移住。
※尚之助が一度京都へ行き、会津を経て田名部(たなぶ。斗南藩庁地)に渡った説もある[2]
覚馬の妻の山本うらも、この時覚馬を世話する小田時栄≪時枝、時惠・時恵。丹波郷士の小田勝太郎の妹で、明治4年覚馬との間に娘・久栄(久枝。徳富蘆花(健次郎)の小説「黒い眼と茶色の目」は健次郎自身と久栄(茶色の目と形容)の恋愛がモデルで、黒い眼の先生は新島襄)誕生≫もおり、京都に行かず覚馬と離別し、子の峰を八重に託し、斗南へ行く。
※時栄とも後に離縁。覚馬は離縁の元となる不始末を許すつもりだったが八重と峰が追いだしてしまったと語る。時栄の不祥事は小説中に、久栄の婿養子にする為に会津から迎えた同志社英学校で学ぶ青年との不倫(密通)で覚馬の身に覚えのない子供を孕んだと書かれているが、確証は無い。
※越後高田(現新潟県)で謹慎していた斎藤一(山口二郎から藤田五郎に改名)も斗南藩領の五戸に移住。その後は諸説あるが旧会津藩士篠田内臓の娘の篠田やそと結婚、明治7年に上京し旧会津藩士高木小十郎の娘の高木時尾(ときお)と再婚したともされる。
明治4年(1871)8月3日、覚馬の招きで八重は母の佐久と姪の峰と共に米沢から京都へ。
前月8月2日には尚之助に砲術を学んだ者たちによる「先生の家内」としての山本家送別会があった。[e]
※7月14日には廃藩置県で斗南藩は斗南県となり藩知事の松平容大も東京へ移住している。
●尚之助の函館渡航
斗南藩は表高は3万石だが実際は不毛の地であり更に新政府からの扶助米も廃され、窮乏した。
飢餓に苦しむ領民を見捨てられなかった尚之助は「開産頭取」(かいさんかしらどり)、米座省三は「斗南藩商法懸」として米の調達のため函館へ渡る。
明治3年(1870)10月27日函館着。尚之助と米座は大工町徳弥方に止宿。
翌閏10月(1870年10月23日)にデンマーク名誉領事である商人デュース(John Henry Duus)所有の広東米15万斤と引き換えに、斗南藩で収入予定の大豆2550石を翌年三月に渡す契約を結んだ。[f]
契約は尚之助と米座との連名・柴太一郎を保証人とし、運送費用など尚之助側の負担が多いものだった。
12月20日米手形を別の担保(米座が函館商人池田勝蔵に払うべき借金)として英国商人ブラキストンに差押えられ米を出荷でず、翌日尚之助はブラキストンの米手形返却を開拓使(蝦夷開拓の政府機関)へ嘆願するが、米座の行方不明(ブラキストン函館から逃がしたとされる)や英国領事の非協力対応で難航。
明治4年(1871)3月9日米手形が返却されるが、その間の相場変動等で食い違い、支払がデュースの意向に合わず、4月9日尚之助らがデュースに訴訟された。
※協力者の裏切については否定されているものもあるので省略
●尚之助は訴訟により東京へ
デュースは賠償は斗南藩が払うべき訴え、尚之助側も4月11日米手形不当差押えにより生じた損害はブラキストンの責任として提訴。
4月27日に辰野宗城(たつのむねよし。斗南藩権大属・会計係)が尚之助は藩政に関る者ではなく米取引の契約も藩に無関係と開拓使外務係へ上申。その後も藩の責任者は藩の賠償を否定した。
9月15日には尚之助と柴も鉱山事業のため(銕山興起)の函館行であり藩命でなく個人での取引であったと口述。
明治5年(1872)尚之助は斗南への影響を慮り罪を被って、デュースとの裁判の為に上京したという。取調べは司法省の東京裁判所・司法省裁判所で行われ、尚之助は契約は斗南の飢餓を見過ごせず、また藩命でないことを口述。
6月デュースはデンマーク公使を通して外務省に損害は藩が負担するものとして起訴、その後日本側が藩は取引に無関係と主張。
明治6年(1873)まで本石町四丁目(ほんごく。現日本橋本町)山田和三郎方寄宿の会津人、名越勝治のもとに寄宿。12月に家主が破産し離散。
その後浅草鳥越明神裏通の川村三吉が病気の尚之助を下宿させる。
※8月から山本覚馬と八重は小野組転籍事件で拘留された槇村正直(京都府大参事)の開放を求め上京し四か月滞在している。この折に八重が鳥越の尚之助と会った逸話があるが、その頃尚之助は浅草鳥越移住の記録はない。
明治7年(1872)ブラキストンの裁判の為3月18日収監中の米座が函館送りとなり、28日に尚之助も請書の提出のため官費・監視人付きの函行きが決まる。4月18日に尚之助の知らぬ間に知人の川上啓蔵が預かり人とされ呼出される。19日、川上と尚之助両者が病のため青森県士族の根津親徳が代理人として法務省に出頭。
5月12日尚之助は開拓使東京出張所へ、青森県の許可も得た自費での函館渡航を申し出た。差添人は本郷竹町の道具屋徳兵衛方に寄宿の会津人加藤保次郎、保証人に根津。
しかし尚之助は(根津によると)6月1日会津若松に到り7月17日付の手紙に脚気を患ったとあり、その後は旧斗南藩領の青森県二戸郡釜沢泊の折に大病を患い、東京へ戻った。
※根津親徳(ちかのり。金次郎)は尚之助より14年下で、浅草今戸十一番地に住む永岡久茂(ひさしげ。敬次郎。田名部支庁長辞任後に評論新聞社を設立、明治9年の思案橋事件後に獄死)の書生。
八重の父権八は久茂の永岡家の分家の出であり、尚之助は八重の夫として、根津を通じて永岡の援けも有ったのかもしれない。
●尚之助の最期
明治8年(1875)2月5日に帰京した尚之助は、7日に下谷和泉橋通(現・神田和泉町)東京医学校の病院に入院。根津が尚之助の身元引受人を加藤から自分への変更を申し出る。
3月20日午後3時頃に入院先の東京医学校病院第五番で慢性肺炎症により死去。享年39。遺体は看病していた根津が近隣に埋葬したという。
デュースの追及は死後も続くが、尚之助に家族無しと皆は答えた。
※浅草区今戸町称福寺に葬られたともされるが、現在称福寺は移転しており、尚之助の墓は存在不明となっている。
※実家の出石(現兵庫県豊岡市)に一人東京で没した尚之助を偲び供養したと思われる墓石が過去に存在した記録がある。改名は川光院清嵜静友居士。[3]
※確証はないが尚之助は鳥越で子供相手の手習い師匠として生計を立て貧窮していた、旧米沢藩士小森沢長政の扶助を受けた等の旧藩士小川渉[a]談もある。鳥越では「この頃は金のなる子のつな切れて ぶらりと暮す鳥越の里」等、狂歌を残したという。
訴訟の追及が及ぶのを考えて選んだ最期か、史料に「子無し弔祭するものなし」とあり孤独な病没だった尚之助とは対照的に、背を患い立つことも困難になっていた盲目の覚馬は時に八重に背負われながら産業・教育等多方面で京都近代化に貢献し、八重は性格不一致にして円満となる新島襄(にいじまじょう)との結婚そして晩年まで婦人活動に励み、歴史舞台においては、明るい。
※八重との離婚を示す資料は無いが、尚之助が入院した明治8年2月には八重の書類上の記名が川崎八重でなく山本姓(山本屋ゑ)になっている
※この記事は参考資料整理・確認中の覚書です。後日別ページにまとめるかもしれません。無断転載はお止め下さい。
※[1]:『外様分限帳』によるが同書に覚馬が十九人扶持「大砲方頭取」とあり、『幕末会津藩往復文書』で「大砲方頭取御雇」十六人扶持とあるので(父権八から家督を継いでおらず御雇)、誤りとの指摘もある
[2]:『旧斗南藩帰農商人伊呂波寄』に「川崎尚之助 壱人 京都府」とある
[3]:あさくらゆう氏の調査による
※出典 a:小川渉『会津藩教育考』 b:西田長寿『大島貞益』『同志社談叢』 c:斉藤肆郎『会津籠城記中軍護衛隊』 d:『京都謹慎人別イロハ寄』 e:『鶴城叢書』内藤新一郎記述項 f:『開拓使公文録』
* * *
…慶応元年(1865)結婚とされていますが、会津戦前後に尚之助が郷里の命運や多くの犠牲に怯え落胆する山本一家の支えになろう(助手を務めた八重とは未婚だが見分や聞き語りで記録する者の目からは既に夫婦と思われていたかもしれない)と籍を入れたか、尚之助の伝手の米沢移住の都合で妻を名乗って登記したか。それとも斗南の者を救うために奔放する道を選んだ尚之助がリスクを負わせないよう秘かに離縁したか……覚馬の妻、うらや旧会津藩への気遣いも有ったのでは云々と、様々な可能性を想像してしまいます。
そしておまけ。記事登場人物の、大河ドラマ「八重の桜」でのキャスト(番組ガイド・公式サイトより。成長後、敬称略)
・山本八重:綾瀬はるか
・山本覚馬:西島秀俊(かくま。八重の兄)
・川崎尚之助:長谷川博己(元・但馬出石藩士、洋学者)
山本家
・山本権八:松重豊(八重の父)
・山本佐久:風吹ジュン(母)
・山本三郎:工藤阿須加(弟)
・山本うら:長谷川京子(覚馬の妻)
・山本みね:千葉理紗子(みね)
会津藩
・松平容保:綾野剛(会津松平家9代藩主)
・照姫:稲森いずみ(容保の義姉)
・萱野権兵衛(ごんべえ):柳沢慎吾(会津藩家老)
・林権助:風間杜夫(会津藩大砲奉行)
・佐川官兵衛:中村獅童(会津別撰組)
・伊東悌次郎(ていじろう):中島広稀(白虎隊士)
・高木時尾:貫地谷しほり(八重の幼馴染)
・中野竹子:黒木メイサ(中野平内の長女)
江戸幕府
・勝海舟:生瀬勝久(幕臣)
新撰組
・斎藤一:降谷建志(新選組隊士)
京
・小田時栄:谷村美月(覚馬の後妻。のちに離縁)
諸藩
・西郷吉之助:吉川晃司(薩摩藩士。会津と共に戦ってきたが薩長同盟で新政府側に)
・佐久間象山:奥田瑛二(松代藩士。象山塾に覚馬が入門していた)
・新島襄:オダギリジョー(上州安中藩士、軍艦教授所生)
参考図書
・あさくらゆう『川崎尚之助と八重』
・野口信一『会津えりすぐりの歴史』
・好川之範『幕末のジャンヌ・ダルク 新島八重』
・『歴史REAL八重と会津戦争』
・『歴史読本2013年3月号』→Kindle版 『歴史読本2012年9月号』
・『会津人群像2012年22号』
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち』
・石光真人『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』
・青山霞村『山本覚馬伝』
・徳富健次郎『黒い眼と茶色の目』