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大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生

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神居村総代人となる
明治24年(1891)6月に看守を退職し、空知監囚人外役所があった神居村番外地(ニ通り1丁目、後の美瑛町1丁目)に移住して荷物の運搬業を営んだ。
※上川市街地計画上での神居第一・第二市街の測量区外。第三市街地は旭川
三千太郎の住む二通り1丁目は、美瑛駅逓所から1町(約109m)程の距離で、神楽(25年2月4日に神楽村となる)には新しく忠別川に忠別橋、美瑛川に美瑛橋(後の両神橋)が仮設され、翌年旭川に旭川駅逓所が置かれて運輸の需要が大いにあった。
そして三千太郎は神居村の第1期の総(惣)代人を引継ぎ、33年3月(第5期)までの全期間を歴任した。
※この頃の総代人は村民から2名が選ばれ村の事業等について評決し、戸長が施行した

明治27年(1892)12月4日に疋田新助、掛場吉右エ門らと共に村民72名の連署を以って忠別太53万3500坪を共有地として貸下出願が認可される。
明治28年(1895)4月、札幌連隊区徴募区徴兵参事員となる。8月、神居村に公立忠別小学校(10月に忠別尋常高等小学校に改称)の分校を開くため三千太郎所有の倉庫と金二十円を寄付
9月27日に三千太郎らが申請していた雨紛原野2万3325坪の基本財産貸下が認可。

明治30年(1897)8月31日忠別尋常高等小学校の神居分校が開校。
明治31年(1898)8月15日旭川に鉄道(空知太間の上川線)が開通。三千太郎は開通式の発起人の一人である。
明治32年(1899)2月10日に三千太郎らは神居分校の独立を決議し3月13日認可、4月に神居尋常小学校と改称、新築して開校となった(ロ通り右6、ハ通り右6左6)

 
▲現在の神居小学校と北海道庁立上川二等測候所跡
総代人らの協議会は神居尋常小でされ、三千太郎は村の共有財産確保や教育に貢献した。
「候所跡」は『明治ニ十三年旭川地図』市街予定区画外(番外地)にある空知監獄署出張所のすぐ西の区画内に書かれている。明治21年7月1日に樺戸監獄署忠別太派出所事務所の一室で気象観測を始め、23年7月23日に新築移転し31年7月末までこの地(ホ通り4丁目/3号)に在った。

測候所が旭川に移った頃に旭川駅が開通し翌年には第七師団の旭川移駐が内定、次第に旭川市街が上川郡の中心街となっていく。

 

旭川に私立校を設立、中学校警察師団等の嘱託教師として剣術、剣道を教授
明治33年(1900)4月10日水田開発のための灌漑溝の開墾についてので熱弁。
6月に学科と剣道の教授の場として、藤本本蔵・馬場泰次郎等と旭川市街予定地宮下通14丁目右5号に「文武館」を設立し、三千太郎が塾長となる。
※8月に旭川村は旭川町に改称

明治34年(1901)7月に有志家の援助を得て、旭川町一条通9丁目左7号に「上川尚武館」として大河内剣道道場を移転し、三千太郎が館主となる。門下は300余名を数え、60余名が通学したという。
文武館は来海實を館長として私立中学「上川文武館」として引継ぎ、三千太郎も剣道を教えた。夜学を開始し生徒約80名となるが、3年後に休館。

 
▲上川尚武館跡地と文武館跡地付近
明治36年(1903)5月1日に上川中学校(現旭川東高等学校)が開校、剣道教師となる。
6月に尚武館に講道館流柔道部新設、教師は齋木藤之助。

……明治34年昨年6月21日東京市会議所で星享を短刀で暗殺した伊庭想太郎へ9月10日に酌量減等の上無期徒刑の判決、翌年4月19日の控訴審で無期徒刑が決まり東京の小菅監獄に収監。
この想太郎が網走に送還された時に三千太郎が付き添った風聞もあるが、想太郎は明治40年10月31日に小菅監獄で胃癌で病死している。付添いを裏付ける資料は無く、三千太郎は少年時代に伊庭道場の門下であったともいわれ箱館戦争では想太郎の兄の伊庭八郎らと共に戦っており無期徒刑からの連想だろうか。

 
▲現在の旭川東高等学校。また三千太郎は第七師団の工兵隊にも剣の指導をした

大正2年(1913)8月4日に伊藤くにが亡くなり、9月一郎とくにの墓を建てる。
大正5年(1916)妻のみや(みと)が64歳で亡くなる。
大正7年(1918)4月まで上川中学校に勤続した。三千太郎は長い白髭を蓄えた晩年まで近隣の学校、旭川警察署などにも出張指導し、時には式典で直心影流剣術や鎖鎌術の演武を披露したのである。
11月24日に上川尚武館にて73歳で卒去。尚徳院大與武道居士。

 
▲養子の武雄と門人の建てた三千太郎の墓(正面は前編に掲載)
大河内三千太郎墓」「大正七年十一月廿四日 逝享年七十三 法諡 尚徳院大與武道居士
男 大河内武雄  門人一同 謹建焉

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[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍
[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

■■不二心流と木更津「島屋」■■
[2018.6/3 記事を分けました]

大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

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北海道空知監獄署に奉職(前半続)
明治22年(1889)5月空知監獄署の看守長代理となる。
この年の8月奈良縣吉野郡十津川郷の大洪水で被災し依る所のない住民600戸は官費での集団渡道を決め、最初の十津川移民789人が小樽港に上陸、10月31日に市来知に到着し、空知監附属の撃剣場等を移民の宿泊所に充て囚人が炊出しを行った。移民達は天長節の祝賀を願い出て11月3日まで滞在する。
この天長節について川村たかし(ドラマ化された『新十津川物語』作者)の新聞連載『十津川出国記』に、空知監の看守と十津川移民とで剣術試合を行ったことが書かれている。
幕末剣士達が看守となっているため腕自慢の郷士達でも歯が立たなかったが、中でも「看守長の大河原は鎖鎌の妙技を披露して驚かせた」という。三千太郎は剣術と共に鎖鎌術にも優れ度々披露していることから、この「大河原」という看守長は「大河内」のことであろう。
※この後、老人や子供は囚人の手で運ばれ空知太に入植し新十津川村(現在の新十津川町)が開かれる

 

上川郡道路開削従事囚徒の引率
明治23年(1890)4月に三千太郎は石狩国上川郡(現旭川市)の忠別太(ちゅうべつぶと。忠別/チュップペツ)から伊香牛までの北見道路開鑿のため囚徒270名を引率する。(鈴木規矩男『上川発達史』の三千太郎本人談)
永山屯田兵地の開拓も進められ、永山屯田本部と官舎や授業場等の建築が行われる。兵屋400戸のうち、樺戸・空知監は300戸を請け負い(監獄署は二中隊の200戸、札幌の北海商会が一中隊の200戸を担当したが頓挫し100戸を監獄署が引継ぐ)永山本部の後方に囚徒小屋を建てた。
山で木材を伐採するために監獄署出張所が牛朱別川畔と宇園別(当麻町)に置かれ、石狩川や牛朱別川に流して永山で製材した。
三千太郎は永山に居て、時々忠別太に置かれた空知監派出所へ赴いたという。
7月22日に監獄署は集治監に名称を戻す。9月20日に神居(かむい)村・永山村・旭川村の三村が置かれる。

 
空知監獄署出張所の跡碑と出張所があったとされる付近
明治22年6月に神居村に中央道路開削と屯田兵屋建設のため出張所が置かれた。
『明治ニ十三年旭川地図』美瑛川端に空知出張所が書かれている。現在は当時と川筋が変わり中洲にあたるという

『神居村神楽村村史』に明治32年に榎本武揚が旭川を訪れ、かつて箱館戦争に加わっていた三千太郎も神居から駆けつけ謁見し土地の価格について等に答えたと書かれているが、その頃は政界を引退し個人で学会等の会長を兼任し公的な記録が乏しく真偽不明。
『旭川史誌』等に明治23年9月に樞密顧問官榎本武揚が上川を視察とあり、再会が事実ならこの年であろうか。

 

明治24年(1891)永山村の樺戸出張所第一外役所の炊所勤務であった樺戸看守白石林武(しげたけ。明治19年9月1日樺戸監職員に採用)の勤務記(『北海道集治監勤務日記』)4月3日に「空知出張所看守大河内氏ヘ過日押送相成候囚七拾弐名、朝飯壱度分相渡置候事、拙者囚弐名引率ノ上渡済…」とあり「空知看守大河内 氏太刀鎌能シ」と、日々撃剣稽古に励んでいた白石らしい付記を加えている。

 
屯田歩兵第三大隊本部跡碑永山屯田兵屋(旭川市博物館展示)
三千太郎の引率した囚人達は裏に小屋を建てて本部や兵屋建設に従事した

5月に永山屯田兵舎落成。
6月屯田兵歩兵第三大隊本部が置かれる。7月2日に永山屯田兵の入地が完了。
7月25日に月形から永山・神居・旭川3村の戸長役場が永山に移り、屯田兵本部官舎に仮住して開庁。

 
樺戸監獄署出張所の跡碑(事務所等跡地)と初め事務所があった農作物試験事務所棟
明治20年5月、上川仮新道の改修に囚徒を従事させるため農作物試験所建物(現神居1条1丁目忠別太駅逓第一美瑛舎)に樺戸監獄署出張所が置かれた。ただし、獄舎、看守詰所等監獄署としての施設はこの一帯に置かれ、後には事務所もここに移った。囚徒は、新道工事のほか屯田兵屋の建築にあたるなど、陰ながら上川開拓に大きな足跡を残した。
上川郡農作物試験所は明治19年に建ち20年に樺戸監に移管され忠別派出所事務所となり、22年に貸下げられ官設駅逓(人馬車継立兼休泊所)となり、8月15日に忠別太驛逓第一美英舎が開駅した。

白石林武の勤務記にみられる通り、空知出張所の三千太郎は樺戸監とのやり取りもあった。

 

大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生へ続く
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■■不二心流と木更津「島屋」■■
[2018.6/3 第三大隊本部跡碑追加。長いので記事を分けました]

大河内三千太郎[1]上総義勇隊頭取、箱館へ従軍

  
▲『年寄部屋日記』の押収された三千太郎の羽織の箇所と、旭川にある三千太郎の墓

 

大河内三千太郎藤原幸昌(みちたろう、道太郎)略歴前半

■江戸で剣術修習
弘化3年(1846)10月15日に上総国望陀郡木更津村(千葉県木更津市)で大河内一郎の長男として生まれる。
安政元年(1854)1月に幼くして江戸で心形刀流伊庭軍兵衛(伊庭八郎や想太郎の父)の門に入り、数年修行を積む。

■木更津の大河内道場で指導
木更津に帰郷後は八幡町の八劔(やつるぎ)八幡神社境内の不二心流道場で、神主八劔勝秀の長男の勝壽(かつなが。嘉永元年生)と共に剣を教えた。
文久3年(1863)7月17日に父一郎が亡くなり持宝院に葬る
慶応元年(1865)6月地曳新兵衛の娘なをを妻に娶る。7月に挙式。
慶応2年(1866)5月9日になをが亡くなり持宝院に葬る

■戊辰戦争勃発、義勇隊を率いて撒兵隊に協力
慶応4年(1868)4月に木更津に上陸した撒兵隊に協力し大河内阿三郎不二心流四代目)が義勇隊長となって島屋一門200余人を率いて、三千太郎が隊を指揮したという。
閏4月7日に五井宿・姉ヶ崎宿の合戦で撒兵隊が敗退。三千太郎は八幡宿の民家に潜伏し、千葉を経て、下総国の新政府恭順藩の捜査網にかかる危険をかい潜って北行した。
……一方、大河内の腕利きの者達が出払っている木更津村へは大河内総三郎(不二心流三代目)が潜行した。木更津に官軍が南下する情報が入ると、八劔勝秀は戦に備えて刀を差し、火縄銃の心得がある勝壽を撒兵隊分隊長に紹介している。

5月21日に大総督は佐倉藩(藩主に謹慎が命じられた佐貫藩にかわり佐貫城を管理)に富津陣屋の前橋藩と協力し房総地方の賊徒討伐を命じた。
しかし皆銚子へ逃れた後であり、佐倉藩の報告によると匝瑳郡西小笹村の喜左衛門宅(大河内本家)も佐倉藩の捜査が入ったが、18日に佐貫城を襲った賊徒として「上総国本納村元農具鍛冶職平右衛門」を誅したのみであった。
武具や被服等押収品の一つに「白絹紋附羽織 壱枚 但襟ニ義勇隊頭取大河内三千太郎藤原幸昌花印」とあり、本家に三千太郎が立ち寄ったか、形見を本家に届けるよう平右衛門に羽織を托したのだろうか。(『年寄部屋日記』)
また、この後の8月に美香保丸の難破に遭った伊庭八郎らが「伊庭軍兵衛の門弟であった大河内一郎」を頼ろうと木更津に向かうが官軍に抗って捕縛されたことを聞いている。
三千太郎も若い頃に伊庭道場に入ったとされるが父の大河内一郎は戊辰前に亡くなっており、伝聞ゆえか情報の食い違いがある。

■箱館戦争に従軍
明治2年(1869)4月11日に松前より江差に出陣。『遊撃隊起終録』には縫殿三郎(不二心流二代目の幸安とは別人)が抜刀して敵を切り伏せて進み、雨流石(雨垂石村)で砲撃の前に散った様が記されている。三千太郎も側で戦ったであろう。討死9名負傷14人という犠牲は大きかったが官軍を敗走させることができた。
『元徳川藩遊撃隊勇士年齢』に「上総浪人 大河内三千太郎 二十四才」の記録がある。
『戊辰戦争参加義士人名簿』に「第一軍一番隊(徳川脱走遊撃隊・隊長人見勝太郎士官 大河内縫殿三郎 大河内三千太郎」再編成後は「二番小隊(頭取沢録三郎)右半隊 大河内三千太郎」とあり、三千太郎が遊撃隊に加わったことが分かる。

5月17日に総裁の榎本武揚らが降伏し18日に五稜郭が引渡され箱館の寺院に入り、21日に運送船で津軽青森に送られ6月9日弘前城下に移る。
三千太郎は関昌寺に沢録三郎ら86人と謹慎となった。

■赦免後は東京で榊原健吉の撃剣会興行に加わる
明治3年(1870)7月に下谷車坂町の道場で榊原鍵吉(さかきばらけんきち)に直心影流の極意皆伝を授かる。
明治5年(1872)秋、みや(みと)と入籍。
明治12年(1879)8月25日上野公園で催された、明治天皇の上野行幸における「槍剣天覧試合」に榊原一門が出場した。当時の新聞に剣術で出場した三千太郎の名もみえる。

■北海道で集治監の撃剣教授となる
明治15年(1882)7月に空知集治監に招致され撃剣教授を勤務。
明治17年(1884)7月に役を辞任。精勤を賞して金二十円が下賜された。
※斎藤建二著『樺戸監獄と旭川』や長谷川吉次『北海道剣道史』旭川剣道連盟編集委員会『旭川剣道史追加資料』等では樺戸集治監とするが、樺戸での一次資料が確認できず、調査中。
なお樺戸集治監の演武場の山岡鉄舟の筆による「修武館」の額は明治15年に書かれたもので、翌16年から19年まで神道無念流の杉村義衛(新撰組の永倉新八)が剣道の指南番となった。


■東京に戻り警視庁撃剣世話掛となる
明治19年(1886)9月28日、北海道の市来知(現三笠市)空知監獄署(集治監より一時改称)典獄の渡邊惟精(これあき)に手紙を送る。(『渡邊惟精日記』)
明治20年(1887)2月3日、東京に帰京中の渡邊典獄の元に三千太郎が来訪。
3月に警視庁より撃剣世話掛に任命される。
5月に甲部撃剣教授となる。
8月29日東京神田黒門町19番地に在った三千太郎から渡邊典獄に手紙が届き返書。

■空知監獄署の看守長代理となる
明治22年(1889)再び北海道へ渡り、弟の伊藤常盤之助と同じく空知監に勤め三千太郎は看守長代理となる。
 
空知集治監跡地と空知典獄渡辺惟精の碑

大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となるへ続く

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流四代目】大河内正道と戊辰戦争義勇隊


大河内正道藤原安吉(おおこうちまさみち)
天保14年(1843)12月25日に上総国望陀郡木更津村で大河内縫殿三郎の三男として生まれ、阿三郎と名付けられる。
嘉永3年(1850)正月には8歳にして父や兄総三郎から不二心流の剣を学んでいた。
安政2年(1855)6月に13歳江戸にて神道無念流斉藤弥九郎に入門。
安政2年(1859)2月17歳で去り、3月に木更津村と西小笹村の大河内道場で初めて門人を取り立てて剣を教える。その後関東を遊歴し更に剣の腕を磨いた。
慶応2年(1866)2月に甲州甲府郭内旗本菅沼米吉邸(山梨県甲府市)で道場を開き、江戸に随行もしたが、病で辞して木更津で静養する。

 

戊辰戦争、撒兵隊に協力し義勇隊を結成

慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦が勃発し德川慶喜が恭順の意を示すが、処遇に抗おうとする佐幕派の者達は方方で協力を求め、2月下旬に幕府撒兵(さんぺい)頭の福田八郎右衛門道直の使者が大河内家を訪ねてきた。
大河内兄弟は徳川のために立ち上がりたいと希望するが、縫殿三郎は79歳の老齢であり事態を静観した。
3月に福田の使者が再び訪れたのを機に、阿三郎は覚悟を決め、妻を実家に帰した。
老父縫殿三郎が詠んだ「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」を以って決別し、江戸へ福田との面会に発つ。

4月9日に江戸を脱走した撒兵隊(さんぺいたい。さっぺいたいと呼ばれていた)が、寒川(千葉市)を経て木更津村に入った。
──房総には徳川恩顧の大名や旗本が多く、大多喜藩主大河内正質(島屋大河内家とは無関係)は老中格で鳥羽伏見の戦いの幕府軍総督を務めた。飯野藩は会津藩松平家の親族筋で藩主保科正益は第二次長州征伐の石州総督を務め德川慶喜の助命嘆願所にも連名している。
彰義隊が江戸に在り、歩兵奉行大鳥圭介ら伝習隊・新撰組が下総に、榎本武揚の艦隊は安房館山湾に向かっている。その間にあって江戸への海路となり阿三郎のように熱意のある剣士もいる上総方面を目指したのであろう。
実際は時勢に合わせて大多喜・飯野藩をはじめ殆どの藩主が恭順の意思を示していたが、隠居中の先代藩主や土地の者にとって幕府の影響は薄れていなかった。

撒兵隊は「徳川義軍府」を名乗り選擇寺に本営を置いたとされ、「義」の字を染めた小切れを肩につけた隊士達が付近に分宿し、福田は島屋を宿所とした。
撒兵隊の後に木更津へ上陸した人見勝太郎伊庭八郎ら遊撃隊も島屋の側の成就寺に陣営を設けたという。大河内一郎(島屋当主幸左衛門。3年前に死去している)の息子大河内三千太郎は過去に江戸で伊庭道場に入門していたとされ知己であったのだろう。

義勇隊頭に選抜された阿三郎は島屋門を中心に参戦意思がある者を義勇兵として纏め、八劔八幡神社の拝殿を義勇隊の陣営とした。
境内には神主の八劔氏が大河内家に提供した町道場があり、当時は三千太郎と神官八劔勝秀の息子勝壽が剣を教えていた。若い三千太郎も義勇隊頭取として島屋門の者たちを率いた。

 

五井戦争敗退

4月下旬に撒兵隊は本営を砦に適した山間の真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)天寧山真如寺(しんにょじ)に移し福田が第四・第五大隊を率いて移動。第一隊長の江原鋳三郎は国府台進出を作戦とし、第一~第三大隊を北上させた。そして新政府軍は幕府脱走兵の掃討のため総州へ兵を向けた。
閏4月3日に市川・船橋方面で撒兵隊第一・第ニ大隊が敗退し、薩摩・佐土原・備前・大村・津・長州各藩兵が北姉崎に北上中の第三大隊を討つため南下する。
7日早朝、五井(市原市)根山(ねやま)で再集結した撒兵隊他義軍が養老川を背に新政府軍を迎え撃つも11時過ぎには敗退。

養老川を渡り真里谷へ向け押し寄せる新政府軍を食い止めんとし、中村一心斎の薫陶のもと幼い頃から剣の腕を磨いてきた大河内一族からは少年剣士も義勇隊に加わり19人斬りで敵味方を圧巻させた勇猛さが伝わっている。
…木更津の里に年頃剣術の道場を開き数夛門弟を集めて指南を業とし大河内某といふ者父子あり、閏四月七日五位、姉ヶ﨑辺の戦争中に門弟八十人を引連 横合より宦軍へ打て出て、花々しく血戦し、子某は歯纔(齢わず)か十五才なりしか、眼前敵兵十九人を斬伏せて、其身も討死し、父某も数十人と戦ひて、終に討蓮(れ)たり、此一手の目覚しき働き、敵も味方も皆肝をつぶし、只茫然と静まり…」(『日〃新聞』慶応四年「閏四月」記事。新聞なので誇張はあろう)

しかし剣の腕では新政府軍の砲撃に敵わず、退きながら抗戦または撤退し散り散りになった。
参戦した大河原一門は戦死した者、郷里の小笹村に身を寄せる者、箱館まで従軍する者と様々であった。

阿三郎は危機を掻い潜って真里谷村に帰還するが、馬上で敵に囲まれていた福田を見失ってしまった。
阿三郎は已む無く300人程で決死隊を結成し、新政府軍が捜索を続ける木更津村方面に押し出て江戸に渡る。

江戸に至ると福田も出府していた。
8月上旬、福田の出廷に阿三郎も同道し、尋問の上で放免となった。

 

結城藩成東陣屋の撃剣教授となる

明治2年(1869)6月に阿三郎は両親を訪ねて成東村に逗留した後、南房総へ発った。
その後、結城藩の水野日向守により成東陣屋へ撃剣教授として招致の知らせが届き承諾。
>※常陸国行方(なめがた)郡大生原村(おうはら。現茨城県潮来市)より成東に移住したともされる元倡寺の興譲館道場の師範役となり、弟の四郎信明と共に指導。
報国社を結成し社長として維新の廃刀令で衰退していく撃剣の再興に努め、直心影流榊原健吉らと撃剣会を開催した。明治12年(1879)8月25日上野公園で催された明治天皇の上野行幸における槍剣天覧試合に一族の大河内三千太郎が剣術で出場している。

 

富津村で旧忍藩士田代家に養子に入る

明治13年(1880)陸軍工兵第一方面(東日本の軍用建築を担当)派出所出仕。
周准郡富津村で阿三郎の親族の旧忍藩士田代兵七郎氏方の養子となり、苗字が田代となった。
明治14年(1881)9月6日に兄の宗三(総三郎)が亡くなり嫡流が途絶えた(宗三の実娘が入婿と離縁し子がなく、養子家族は紺屋を継ぐ)ため、阿三郎が不二心流4世を継承

明治15年(1882)11月3日元洲堡塁砲台建築所勤務中に成東で弟の四郎が37歳の若さで亡くなり、道場維持のため辞職を申し出るが聞き入れられなかった。

富津元洲堡塁砲台跡 富津元洲堡塁砲台跡通気口 富津元洲堡塁砲台跡

富津元洲堡塁砲台跡(富津公園「中の島」)と地下掩蔽部
砲座6門を東西に配置し両端に観測所を設けたという。大正4年除籍。中の島の他に富津岬の各所に現存するコンクリート製の観測所、警戒哨、隠顕式銃塔等はほぼ大正11年設置の第一陸軍富津射場(試験場)のもの。

 

復籍し正道と名を改め町会議員、成東中学校の撃剣教師となる

明治16年(1883)初夏に許可を得て成東へ帰省。自宅敷地内に道場を新築する。
明治17年(1884)原籍に復帰。田代家は息子の精一郎を相続人とした。
明治21年(1888)名前を正道と改める
明治22年(1889)4月25日成東町町会議員となる(明治25年4月24日退任)
明治24年(1891)10月望陀郡根形村飽富神社に振武社が献じた不二心流奉額に連名。
明治26年(1891)12月26日正道の練武場で一本町物産比較会を開く。
明治31年(1898)4月25日成東町町会議員となる(17点で補欠議員当選。明治40年4月24日まで)
6月9日午後8時20分に正道の宅地内の椎名三乕の保有地から発火し近隣に類焼、11時30分に鎮火した。
明治33年(1900)2月6日に佐倉中学校成東分校教諭田中玄黄が出張事務所開設の相談をし、正道の宅地から借受けて仮事務所を開始(『田中哲三家文書』※6月に法宣寺に移る
4月佐倉中学校成東分校(翌年成東中学校に改称。現在の県立成東高等学校)が開校し正道が学事世話掛(学務委員)となる。撃剣教師として剣を教授した。
大正2年(1913)5月に病を発症。
大正4年(1915)10月に中学校教師を辞職。
大正12年(1923)3月25日に東京府目黒町千番地にある嫡子の田代精一郎宅で没。享年81。
麻布山善福寺に葬る。超證院襗正道居士。

麻布山善福寺勅使門 麻布山善福寺本堂

麻布山善福寺勅使門と本堂
所在地:東京都港区元麻布1丁目6-21

* * *
※善福寺は墓地の写真撮影不可。
大河内友蔵(嘉永元年1月10日生。無刀流。剣道教士。総州出身で福島県へ移る)が正道の養子となったという話があるようだが、友蔵とは5歳しか年齢が違わないため誤記か?(調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流三代目】大河内総三郎と寺町「志摩屋」

大河内総三郎藤原幸経
文政7年(1824)下総国匝瑳郡西小笹村縫殿三郎と恵以子(のち喜佐子)の間に生まれ、幼少より中村一心斎に不二心流の剣を学ぶ。
長じて水戸藩剣術指南役宮田助太郎清喜(千葉周作門下。宮田一刀流)に随身し水戸と江戸水戸藩邸を往来した。総三郎は剣の腕を認められ、塾頭となる。
後に常陸国で不二心流の流れを継ぐ大河内家は、ここから繋がりが出来たのかもしれない。

天保13年(1842)9月22日、江戸で結ばれた鶴(砲術家の幕臣桜井啓介の次女)との間に娘豊子が生まれる。
安政2年(1855)上総国木更津村で4月建立の中村一心斎供養塔に連名。

慶応4年(1868)4月に江戸を脱して木更津を本営に定めた幕府撒兵隊南町の島屋大河内道場の者達が義勇隊として協力。
五井・養老川の敗戦後に皆北総へ逃げる中、総三郎は危険な木更津方面へ戻り、大寺(おおてら)村の商家「こうや・彌太べえ」に身を寄せ、乞食などに変装して義軍の支援活動を続けていたという。(宮本栄一郎著『上総義軍』より要約)

戦後は伊藤姓に戻し、伊藤宗三郎(後に宗三/そうぞう)と改名し再び染物屋を始めた。
明治4年(1871)6月24日に縫殿三郎が死去。
9月6日に不二心流正統三世を継承し、祇園村・大寺村に道場を開く。
一族で剣の腕も見込める新太郎を娘婿に迎え道場の継承者として考えていたが、不仲であったらしい。
そこで甥伊太郎の娘うたを養女として婿(福太郎)をとり孫の宗太郎が誕生する。

明治14年(1881)9月6日に木更津で死去。57歳。三晃院幸経日宗居士。
一心斎供養塔のある成就寺にかつては夫妻の墓があり、現在は他所に改葬されている。

 

■木更津寺町の志摩屋(しまや)

昭和4年千葉縣木更津町鳥瞰圖 千葉県木更津市中央の田面通り志摩屋跡付近

▲昭和4年鳥瞰図の田面通り(たもどおり)と志摩屋跡付近 ※鳥瞰図・下の古写真共に観光案内パネルより
鳥瞰図西(右下)の伊藤染店が「志摩屋」、東(左上)の伊藤染店が「紺茂」

木更津村寺町(現木更津市中央)の伊藤宅は明治の寺町家事で類焼してしまったようだ。
その後、昭和初期に総三郎の孫の宗太郎伊藤染店を経営しており当時の『大日本商工録』に流行・染物・印物一式を扱う「志摩屋」として屋号紋(の右上に┓)と共に記載されている。

木更津古写真田面通り紺茂跡地 紺茂跡から志摩屋を望む田面通り

▲昭和中期の田面通りの古写真と、紺茂跡から志摩屋跡に向けて撮影
古写真の若竹筆店(一番左の文具店)の場所に紺茂があった。
現在は平戸理髪店の建物のみ残り中村洋服店は私有地通路、紺茂の場所は月極駐車場になっている。

●大河内孫左衛門
孫左衛門の息子の茂三郎が天保11年(1840)生まれなので総三郎より年上であろう。
一心斎供養塔には総三郎の前(島屋当主幸左衛門の次)に名前が刻まれている。
戊辰の総州騒乱時に孫左衛門も義勇軍として出陣したが、五井・養老川の戦いで銃弾が右眼かすめ、下総に逃れた後に亡くなったという。
茂三郎が新しく出店した紺屋は彼の名前から「紺茂」と呼ばれた。
茂三郎の次男の伊藤竹次郎は海外で医学を研究し伊藤病院の院長となる。
孫の伊藤勇吉も剣道を嗜み日露戦争で戦功をたて大正8年から昭和8年まで木更津町長に連続就任し木更津町の発展に貢献した。

■■不二心流と木更津「島屋」■■