忠崇と戊辰戦争」カテゴリーアーカイブ

請西藩主林忠崇侯の乳母杉浦関女の墓


※個人管理の墓所につき詳細を求める問合せはご遠慮下さい

請西藩主従五位林忠崇侯御乳母
     杉浦関女齢八拾六年
妙法 精進院妙持日守大姉 霊
明治四拾壱申年拾弐月弐拾七日

木更津市史』に林昌之助をめぐる人々として乳母の杉浦関(せき)女が紹介されている。
慶応戊辰閏四月の出陣の際に請西藩主の忠崇は、請西村の名主林重五郎の家へ45歳になる乳母関を預けた。
大名林家と名主林家は血縁上の繋がりは無いが、頼める豪農の林家へ預けたのだろう。

市史の該当頁を担当した宮本栄一郎氏の著書『上総義軍』では関を知る豊次郎(重五郎の孫)ら古老達の話により「身長は十人並で、骨格はかつしりとしていた。顔は丸顔で上品、色は白く、性格は勝氣でいやしくもしなかった。晩年は腰がまがつてしまつたが死ぬまでしつかりしていた」と生前の様子が窺える。
重五郎の母が明治11年に亡くなった後、父五郎治の老後の世話をしていたようだ。

生前の関を知る一人であり『上総国請西藩主一文字大名林侯家関係資料集』をまとめた林勲氏によると関は市原郡牛久村の杉浦鐘太郎の養母。この鐘太郎が戊辰に従軍した請西藩士杉浦鐡太郎(銕太郎)と同一もしくは類縁かは不明。
同資料集引用の『林豊次郎日記』によると明治31年4月21日に林公が訪れ、関との再会を果たしている。

西上総文化会報第82号「請西藩士大野家について」掲載

創立70周年を迎える西上総文化会による『西上総文化会報第82号が出版され
5月10日の『新千葉新聞』にて紹介されました。

主な内容、会報の購入等の問合せ先は記事に掲載されています。
※記事画像は新聞社の転載了承済です

拙稿は長引くコロナ禍によるフィールドワーク調査の自粛のため、前号の続編を書き上げることができず
代わりとして「請西藩士大野家について」の題で大名林家の旗本時代からの譜代家臣である大野家から、同族と確認できる人物名をまとめました。

資料や碑文に書かれた名は、江戸時代の藩士、藩士でない村役人、旧藩士の息子や孫かを
区別せず一様に藩士として引用される混同が起こり得るため、まずは同姓の多い大野家を紹介しようと考えた次第です。


表紙は令和元年の房総半島台風の被害に遭い、今年復元された鹿野山神野寺の表門です。
また会員のご逝去の報に接し、心からお悔やみ申し上げます。

木更津「請西藩戊辰殉難者慰霊碑」

 
請西藩戊辰殉難者慰霊碑殉難者の霊に捧ぐ詩碑
明治30年鹿野山に請西藩殉難者招魂之碑が江戸城を見守る位置に建立され
そして近年、請西藩地にも慰霊碑が置かれました。

「戊辰殉難者の霊に捧ぐ」作詞 石井武敏
時の流れは   悲しくも
献兎賜杯の   誉れさえ
始祖光政と   土の中
無念の涙は   露となり
山の緑に    今光る

いざや大義の  道なれば
差し違えても  悔いはなし
忠崇出陣の   馬を蹴る
箱根の関所の  敗退は
小田原藩の   寝返りか

生き永らえる  その身こそ
死したる者より 辛かりき
ああ諸霊よ   安かれと
朝暮に祈る   法華経の
自我偈の声や  美しき

からす鳴き 十七代で戊辰かな
立つ瀬なくすも 時流か勝せり
永らえし くしき縁の 真武根台
菩薩に祈らん 親義の人々を
             東生
平成七年九月十八日吉日 宮野高美 建之

陣屋跡地周辺の新興住宅地開拓が進められる中で、永代の哀悼の場として静かに佇んでいます。

世古六太夫と幕府遊撃隊箱根の役前日譚

 ※画像は世古六太夫碑より

世古六太夫(せころくだゆう)
通称は六之助、諱は直道
天保9年(1838)1月15日、伊豆国君澤郡川原ヶ谷村(静岡県三島市川原ヶ谷)の栗原嘉右衛門正順の次男として生まれる。
栗原氏の祖は甲斐源氏流武田氏で、清和源氏流武田系図によると11代当主武田刑部大輔信成の子の十郎武続(甲斐守。七郎とも)が甲斐国山梨郡栗原邑(山梨県山梨市)に居住し栗原を称した。
嘉永2年(1849)4月に駿河国七間町(静岡市葵区)山形屋某に雇われ、翌年8月に帰郷。(山田万作『岳陽名士伝』)
14歳で伊豆国田方郡の三島宿(三島市)一ノ本陣・世古家に入り、家業を手伝う余暇に文武を磨き、学問は津藩士斎藤徳蔵正謙に学んだ。15歳で世古清道の嗣子となる。世古家を継ぐと、本陣主として六太夫を名乗った。
安政4年(1857)長男鑑之助(後に六太夫の名を継ぐ)が生まれる。
安政5年(1858)三島宿の問屋年寄役となる。

 
世古本陣表門を移設したとされる長円寺「赤門」と世古本陣址
本陣は大名・公家・幕府役人などの宿場施設で大名宿とも呼ばれた。世古本陣は参勤交代では尾張侯の御定宿であった。

 
問屋場址と世古本陣付近の三島宿復元模型模型画像は樋口本陣址パネルより
江戸時代の運輸は人馬を使って宿場から次の宿場へ送り継がれ、この公用の宿継(しゅくつぎ)は問屋場を中心に行われた。問屋場には問屋年寄、御次飛脚、賄人、帳付、馬指人足送迎役などあり、問屋場の北側の人足屋敷には雲助と呼ばれた駕籠かき人夫が詰めていた。

文久2年(1862)駿河国駿東郡愛鷹山麓の長窪村(長泉村)の牧士(牧の管理者)見習となる。(明治には牧士として「瀬古六太夫」の名がある)
文久3年(1863)韮山農兵調練所が設けられ、江川太郎左衛門代官管内の農民子弟凡そ70名を集めて軍隊調練を行った。六太夫は韮山農兵の世話役を勤めた。
慶応3年(1867)箱根関所を破り逃走した薩摩の浪士脇田一郎ほか2名を、六太夫は代官手代と協力して原宿一本松で召し捕る。

 
農兵調練場址三島代官所跡
宝暦9年(1759)韮山代官所と併合し治所を韮山に移した。
三島陣屋の空き地は江川坦庵の創意で農兵調練場とした。維新後は小学校の敷地となる。

慶応4年(1868)倒幕を遂げた明治新政府と旧幕府の抗戦派による戊辰戦争が開戦した。
3月24日、新政府が大総督府を置き東征させる折、三島宮神主矢田部盛治(もりはる)は矢田部親子と社家等70余人を沼津~箱根両駅間の嚮導(先導警護)兵として奉仕する願書を先鋒総督に送る。(『東海道戦記』)伊豆伊吹隊(息吹隊)と名づけて25日に嚮導して三島宿は難なく官軍を休憩・通過させることが出来た。
閏4月上総国(千葉県)から出陣した旧幕府遊撃隊と請西藩藩主林忠崇ら緒藩兵による旧幕府隊が沼津に向かい、兵を引くよう江戸から遣わされた旧幕府重臣(既に新政府に恭順)との交渉上沼津藩監視下の香貫村に駐屯し、返事の約束の日を過ぎても音沙汰ないまま足止めされていた。
5月18日、上野山の彰義隊蜂起の報が届き、やむなく旧幕府遊撃隊人見勝太郎が抜け駆けの形で自軍(第一軍)を率いて加勢に向かうことを決意する。
夕方に三島宿へ「澤六郎・木村好太郎」の名で、翌日夜の宿割と人足(宿場町が提供する運送者)を問屋役人の六太夫らに命じに来た。軍目(憲兵兼監察役)澤六三郎らによる林忠崇を筆頭に全軍が通過する準備とみられ、人見の行動は切迫した状況打破のために林忠崇公らと示し合わせた(おそらく沼津藩主水野出羽守の温情もあっての)策であったことを窺わせる。

19日朝、連日の大雨で氾濫した川を渡り脱した人見隊が三島にたどり着く。
しかし明神前に新政府によって俄作りの新関門が置かれていた。
旅籠松葉屋に居た関門長の旧幕府寄合松下加兵衛重光(嘉兵衛、嘉平次。下大夫。4月25日から三島駅周辺警守にあたる)が駆けつけ、通過を阻まれた人見隊は、大鳥居に木砲2砲構え、白地に日の丸の旗を翻して関門を威嚇する。
一触即発の危機に、問屋役の六太夫や三島宮神主矢田部が取成して、矢田部が松下を佐野陣屋(現裾野)に報告に行かせる機転で、事なきを得たという。

後発の旧幕臣本隊が、伊庭八郎率いる第ニ軍を先頭に東海道を真っ直ぐ進み昼過ぎに三島に到着。
宿場には徳川家康以来幕府に恩がある者が多く、六太夫ら問屋役人一同は千貫樋(せんがいどい。豆駿国境にある灌漑用水路の樋)まで出迎えたという。
世古本陣の西に在る脇本陣・綿屋鈴木伊兵衛に林忠崇を総督とする本営を置き休憩。
人見らの救援として前田隊を急行させてから、本隊も山中村へ向かった。
こうして三島宿を戦禍の危機から救った六太夫だが、新政府軍に幕府方内通者との嫌疑がかかり、これまで新政府に尽くしていた矢田部らの嘆願も聞き入れられず捕えられてしまう。佐野の獄舎にて詰責を受けたという。病のため矢田部家に預かりになり縛後31日目に釈放。
7月18日三島関門が撤廃される。

 
▲三嶋大社鳥居前と矢田部式部盛治像大人銅像(澤田政廣氏作)
矢田部盛治は掛川藩家老の橋爪家からの養子で、安政の大地震で倒壊した社殿の復興を果たし、祇園山隧道を開鑿し新田開発を行うなどで三島宿の民から慕われた。

明治3年(1870)明治政府により本陣が廃止される。
明治5年(1872)六太夫が戸長となる。
明治7年(1874)に第四大区一小区副区長となる。
明治12年(1879)三島に小学校の前進になる新築校舎建設に協力。
明治17年(1884)7月24日三男の松郎誕生。(後に兄の六太夫廣道の後を継ぎ、大正10年に市会議員となる)
明治20年(1887)沼津に移住。
明治28年(1895)に沼津・牛臥に海水浴場旅館「三島館」を建て、三島の旧宅を修築し「岳陽倶楽部」とし、各界著名人と交遊を深めた。
明治36年(1903)に妻のナツが61歳で死去し、長円(ちょうえん)寺に葬。法名本修院妙道日真大姉。
大正4年(1915)12月31日78歳で死去し、妻と共に長円寺に眠る。法名本行院直道日壽居士。

 
正覚山大善院長圓寺・世古六太夫夫妻の墓
維新後の六太夫は教育の推進者として伝馬所跡に私立学校開心庠舎(かいしんしょうしゃ)を開設し、実業家として沼津停車場前に通信運輸事業を展開して郵便事業の基礎を築く等、郷土に貢献した。

三島宿 歌川広重「東海道五十三次之内 三島 朝霧」(沼津市設置の路上パネルより)
東海道五十三次の三島
慶長6年(1601)德川家康によって東海道五十三次の11番目の宿場に指定され、古くからの交通の要所であり伊豆一宮の三島明神(現在の三嶋大社)もあり隆盛した。
一ノ本陣・世古六太夫、二ノ本陣・樋口伝左衛門
脇本陣3、他旅籠74軒(天保年間)

・「長円寺」所在地:静岡県三島市芝本町7-7
・「三嶋大社」所在地:静岡県三島市大宮町2丁目1-5

参考資料
当記事と請西藩関連記事中明記の文献の他、案内板(三島市教育委員会、本町・小中島商栄会設置)、郷土資料館展示・収蔵史料等。閲覧許可ありがとうございました。

忠孝の士・請西藩士諏訪数馬

 

▲請西藩士諏訪数馬の墓
数馬が館山で没し埋葬された来福寺から諏訪家の墓所に移した墓碑。郷里で諏訪家が建てたであろう奥の古い先祖の墓石にも数馬の戒名(恵光院善忠元鑑居士)がみえる。
※本家の親戚の方に伺いを立て墓参しました。現在は個人管理下のため詳細を求める問合せはご遠慮下さい。

『諏訪数馬肖像并略伝』『忠考』(林忠崇の筆・明治30年)


林忠崇筆『諏訪一馬肖像並略伝』
 諏訪頼母ノ孫ナリ。幼ニシテ父ヲ喪ヒ祖父頼母ニ養ハル。性従順ニシテ謹直ナリ。幼ニシテ先藩主の側ニアリ。長シテ近侍トナル。身多病ニシテ武技ニ耐ヘズ。一藩擯斥シテ遊行ノ士トナス。戊辰ノ年久シク病床ニアリ。余出陣スルにアタリ、ソノ病躰ヲ思ヒ随行ヲ許サズ。数馬従軍ヲ請フコト再三終ニ強ルヲ以テ之ヲ許ス。従テ、房州館山ニ至る。身躰疲労シテ行歩最モ艱ナリ。自ラ思ヘラク、身躰斯ノ如シ。終ニ素志ヲ達スル能ハジト剱ニ伏シテ自殺ス。今ニ至ルマテ墓前ニ参詣スルモノ不絶。抑々其大和魂ニ感動スルカ故ナリ。嗚呼始アリ終アルモノ少シ。世人ソレ之ヲ亀鑑トセヨ。
 明治三十年十月偶数馬遺族ノ家に寓シ感慨ニ耐ヘズ依テソノ行為ヲ略記シ、併テ当時ノ像ヲ画シ以テ記念トス。
「散りてのみふかき香りのいまもなほ のこるや花のなさけなるらむ」
旧請西藩主従五位林昌之助忠崇入道一夢

(画は木更市津郷土資料館フライヤー・略伝文章は林勲『林侯家関係資料集』より引用)

 

■諏訪数馬
天保6年(1835)貝渕藩諏訪幸右衛門(兵平。地曳家から養子。林忠英忠旭の二代に仕える)と母りか(当時34歳)の間に生まれる。
嘉永2年(1849)9月4日に父を亡くし、祖父頼母(林忠英に仕え貝渕陣屋の陣代を務めた)に養われる。
幼くして請西藩主林忠交の近侍となる。
江戸浜町の請西藩邸の対岸、本所松井町(現千歳町)の中西福太郎の娘せい(数馬より4歳上)を妻とした。
文久元年(1861)頃に息子の篤太郎誕生。
慶応3年(1867)6月に忠交が伏見で亡くなると忠崇に仕えるが、数馬は生まれつき病弱で満足に仕えられないことを憂いていた。

慶応4年(1868)戊辰閏4月の忠崇決起の際、数馬は病床(労咳とされる)にあり従軍を認められなかったが、再三請いた末に同行を許された。
8日に房州館山に着き長須賀の来福寺付近に宿陣。伊庭八郎が雨中に小船で軍艦大江丸に漕ぎ着け伊豆真鶴への出航を依頼し、豪雨のため一泊し乗船を10日とした。
宿所で考え耽る時間を過ごしたのだろう数馬は、歩行すらままならず、これ以上は主に迷惑をかけるとして、その命を以って徳川と林家にかける忠義の覚悟を表明しようと決意する。
9日朝6時台、数馬は遺状を懐に入れ、剣に伏して自害した。33歳。
来福寺に埋葬された。恵光院善忠元鑑居士。

長須賀村宿陣中卯ノ下刻家来諏訪数馬自殺ス 近来多病ニシテ久ク勤役セス空シク録ヲ食ムコトヲ嘆キ請ヒテ随従シ此處マテ到リシモ歩行難儀ニシテ従行難ヲ憂ヒ死シテ素志ヲ表セント此ニ及フ
時三十歳同地長須賀来福寺ニ埋ム 『林昌之助戊辰出陣記』
 ※年齢は誤りか

 

長須賀薬師 海富山医王院来福寺
かつては来福寺の境内に数馬の墓があった。
数馬の子の篤太郎は明治6年(1873)2月22日に13歳で早世したため大井村の伊丹家から嶋治を諏訪家の養女さくの婿に迎え、明治32年(1899)に千葉県士族に編入認許される。
三代の孫にあたり市原市議会議員を務めた諏訪孝(たかし)氏が郷里の諏訪家の墓所を整える際に来福寺より数馬の墓を移し迎えた。没した館山の地で忠孝の士として拝まれていた長い年月を経ての帰郷となった。
来福寺所在地:千葉県館山市長須賀46-1

また数馬の父親の実父、大田村の惣名地曳新兵衛の家から大河内三千太郎なおが嫁いでいる。