この『大坂夏の陣図屏風』や軍記物での本多忠朝は「黒色威(くろいとおどし)胴丸具足、鹿角の立物の黒漆冑、蜻蛉切の大身槍」と、父忠勝の姿を継承したいでたちで死闘の場面が描かれている
※本多忠勝の鹿角甲は実際には長男の忠政に贈られているので戦図屏風の誇張演出と思われる
◆物語に描かれた忠朝の姿◆
忠朝独自の姿は様々な軍記物に共通して、愛馬「百里」に乗り、手元より先を八角にした長さ八尺(約2.4m)重さ十六貫目(約60Kg)の鉄の棒を軽々と引提げ、敵を薙ぎ倒す怪力ぶりを描写されている。
夏の陣での忠朝のいでたちは、深紅の緋縅(ひおどし)の鎧、父から譲られた忠信の兜(天正18年7月16日忠勝が宇都宮で豊臣秀吉から拝領した源義経家臣の佐藤忠信の兜)を着け、馬は浅野永重から贈られた名馬「江戸三寸」。
前年の冬の陣では講談『真田三代記』で穢多ヶ崎の要塞見積に赴く際に、黄糸縅の鎧に鬼面を戴き、馬は名馬「中黒(なかぐろ)」等。
▼記事リンク
●本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
●本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
●本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
●本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
●本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
●本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」とその後のあらまし
※戦国武将として創作色が強い軍記物からの逸話も、地域史に採用されている類は取り入れています