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法蔵寺[2]松平家と有親の墓

松平一族と家臣の墓 亀姫と松平泰親の墓

法蔵寺松平一族と合戦討死者の墓。右写真の右から

亀姫(加納御前。家康の長女)の墓
永禄3年生。母は築山御前。天正4年7月奥平信昌に嫁ぐ。寛永2年(1625)5月27日に夫の領地の美濃加納(岐阜県岐阜市)で逝去。誠徳院。加納の光國寺に墓。

松平泰親(松平家2代)の墓
良祥院の法号と逝去を永享二年とするのは高月院や『新田松平家譜』等と同じ。
寺伝では泰親は法蔵寺の僧房を建て、子(教然良頓)を教空上人の弟子としたとする。

松平広忠の墓と東照宮 松平十郎三郎康孝と右馬佐と左馬佐の墓

朱いお社は東照宮。出陣前の家康を模した軍装像、源義家奉納の甲冑、松平親氏が彫った八幡宮木像を奉納したと伝わる。左写真の大きな五輪塔が松平広忠の墓。

松平広忠(松平家8代。家康の父)の墓
寺伝では分骨を瓶内に納めて葬ったという。慈光院の法号は系譜等に見られる。天文十八年巳酉三月の逝去と「應政道幹大居士」は大樹寺等と同じ。

右写真の右から

松平重郎三郎康孝(十郎三郎。6代信忠の三男。鵜殿城、水城城主)の墓
法号は松聲院とするが、没した居住地の浅井郷(西尾市)にある源空院では寶林(琳)院とする。

松平右馬佐(家俊。3代信光の子。造岡城主)の墓
太岳院。

松平左馬助(算次。3代信光の子。家俊の兄。舟山城主)の墓
休徴院。

於比佐の方・於久の方と松平忠政・碓井姫・矢田姫の墓 中川忠保の墓

左写真右から

於比佐の方(お久の方。広忠の先妻、忠政の母)の墓
大給の松平乗正の娘。法名妙琳。家康生母の於大の方の輿入れ後は忠政と共に桑谷村へ移る。広忠寺に墓。寺伝では広忠の死後に教翁上人の弟子となっている。

松平忠政(家康の異母兄とされる)の墓
幼名は勘六。於大の方の輿入れ後は岩津に移され、その後母の於久の方と共に桑谷村に住む。広忠寺に墓。薇足院。※忠政については諸説あるがここでは寺伝に拠る

薄井姫(碓井姫。7代清康の娘。長沢松平政忠室→酒井忠次室)の墓
先求院(京都府)に墓。光樹院。初めに嫁いだ政忠は桶狭間で戦死。

矢田姫(家康の異母妹、長沢松平康忠室)の墓
母は平原助之丞正次の娘。『徳川実紀』に法蔵寺の記載がある。長康院。

井田野・安祥・三方ヶ原・長篠等の戦忠死者の墳墓
右写真の中川忠保等、忠臣達の墳墓が松平家の墓地を囲むように並んでいる。

 

有親の五輪塔
松平親氏の父・有親(ありちか。長阿弥/ちょうあみ)の墓は、没した地とされる大浜の称名寺(碧南市)が有名だが、ここ法蔵寺にも墓塔が存在する(薄れた案内用の墓標にも有親公と書かれている)

得川有親の墓 有親の墓標

寺伝では親氏が有親の二十七回忌に、その遺骨をここに葬り、位牌を講堂に納めたという。
法号は「晋修院殿 増光長阿大居士」と刻まれており、逝去は慶安元年四月廿日とする。
※徳川氏略系の法名は「松樹院長阿泰雲」

晋修院の刻銘 法蔵寺墓地

請西藩正月の献兎のルーツである有親。墓には来訪時は新しい花が供えられていた。
傍に並ぶ古い墓は誰のものか判断できない。法蔵寺には他に松樹院(泰親夫人)、玄能尼(清康夫人)、市場姫(矢田姫の姉)の墓もあるとされる。
 

旅の僧の有親・親氏の出自については新田源氏の流れの世羅田(せらだ )・得川(とくがわ)氏、加茂氏、松平太郎左衛門の在原家をそのまま汲む等の異説があり、それぞれ系図に疑問が持たれ、はっきりしない。

世羅田系の由来は源義重(よししげ。新田氏の祖)の子の世良田義季(よしすえ。得川を名乗ったともされる)の出とする。
加茂系の由来は、3代信光が岩津妙心寺を建立した際に仏像の腹に込めた記録に、信光の長男の親則(長沢松平家の祖)と、信光の弟の益親の名に「加茂朝臣」とあり、妙心寺にも信光が旗に「三河源氏加茂朝臣」と書いた伝承が伝わっている。
これは岩津に移る前の根拠地松平郷の加茂郡(かものこおり)の地名から名乗り、既存の加茂氏の出の意味ではないと推測されている。
7代清康(家康の祖父)が「世羅田次郎三郎」と称し、松平家の由緒として新田源氏系の系譜が作られ、徳川家康の死後に3代信光の頃は加茂朝臣を名乗っていた(真偽は不明)ことが分かり、初代親氏の実父有親を「加茂右京亮有親」とする系図や賀茂神社の氏子(葵紋の由来)という説が作られたのだろうか。

法蔵寺[1]家康修学の地・近藤勇の首塚伝承

法蔵寺山門 法蔵寺講寺本堂

二村山法蔵寺(にそんざん ほうぞうじ)山門と本堂
浄土宗西山深草派の三河三壇林のひとつ。本尊は阿弥陀如来。竹千代(徳川家康の幼名)がこの寺で手習いや漢籍(かんせき)を学んだとされ、家康の所持品や松平家ゆかりの宝物が多く残されている。境内に東照宮や松平家の墓がある。

大宝元年(701)伝承では行脚中の法相宗の僧行基はこの地に輝く杉の大木を見つける。すると突然現れた童子に「ここは釈迦如来降臨度生の霊山で、この杉は日本武尊が諸神を勧請した際に一夜で生まれた霊木です。この木で観音像をつくりなさい」と啓示を授かり、行基は童子(実は救世菩薩の化身)と共に長さ三尺三寸の正観音(聖観世音)像を彫刻し、山上に六角堂を建てて(後に大風で倒壊し移転)安置したという。
寺伝では天武天皇の后の出産の際に行基に祈願させた所、王子を出産したため、天武天皇の勅願所となり出生寺(しゅっしょうじ)の号を賜ったとされる。
後に空海により真言宗になったとも伝わる。

至徳2年(1375)9月、説法に赴いていた教空龍芸(りゅうげい)に松平家初代親氏が深く帰依して講堂を建てて浄土宗に改宗し法蔵寺と名を変えた。(または京都円福寺から教譽上人が来て浄土壇林を開いたともされる)
松平2代泰親は、親氏の菩提として僧房を建て、子(後の教然良頓/きょうぜんりょうとん)を教空上人の弟子とした。3代信光も本堂を再建。
宝徳3年(1451)3月18日(4月とも)に後花園天皇の勅額を賜い、大神光二村山と称す。
大永元年(1521)松平6代信忠の寄進により本堂を修造。

天文18年(1549)正月に8歳の竹千代(家康)が岡崎城から入学し、住職の教翁上人に手習読書を学んだという。3月(6日に父の広忠が急死)まで滞在。
※竹千代は天文16年8月に人質として駿府へ送られる際に織田方に奪われ熱田に居り、天文18年11月に岡崎に10日程帰ることが出来たが、寺伝の時期とは異なる。
修学については竹千代が駿府宮ヶ崎に居た頃に手習いを受けた僧が、後に法蔵寺の住職になった経緯で生まれた伝承とみる異見もある。法蔵寺は他にも源義家や西行法師等、伝説が多い。

永禄3年(1560)家康により守護不入の特権を与えられ7月9日に松平氏の以前からの82石余の判物を寄付される(明治元年11月30日に朝廷へ奉還)
江戸時代には、東海道に接していることから参詣者も多く、幕府の庇護も厚かったため栄えた。

法蔵寺の御草紙掛松 法蔵寺の賀勝水

御草紙掛松(おんそうしかけのまつ)
竹千代の手植えで、手習いの草紙を掛けて乾かしたという。年が経ち繁殖した松は門前に移されて、成長した家康が参詣する際にこの松の下で休憩し茶を飲んだことから「御茶屋の松」「御腰掛の松」とも呼ばれた。
周囲の石柵は文化12年(1815)旗本木造清左衛門俊往(としゆき)の寄進。平成17年8月に虫害で枯れてしまい、翌年4代目の松が植樹された。

賀勝水
寺伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で天照大神ら諸神を勧請して東夷征伐を祈願し、その效験(霊験の徴)を見せ給えと念じて巌を突くと冷泉が湧き出したので勝利の祥瑞として日本武尊は「賀勝ゝ」と三度唱えたと伝わる。
竹千代が手習いに使う硯の水として使ったともされる。

法蔵寺の鐘楼 法蔵寺のイヌマキ

▲鐘楼と伝行基手植えのイヌマキ(岡崎市指定天然記念物)

 

近藤勇の首塚 近藤勇の首塚案内板

近藤勇の首塚
近藤勇の首を埋葬した場所とされ、首塚の台石には土方歳三らの名が刻まれている。

新撰組隊長の近藤勇は慶応4年(1868)4月25日、35歳で板橋刑場の馬捨場(東京都北区滝野川)で斬首された。首は塩漬にして京都に送られ、埋められた遺体は近親者が密かに人夫に掘り起こさせて、東京都三鷹の竜源寺に埋葬した。
京都の三条河原で晒された後の近藤の首の行方の諸説ある一つがこの三河法蔵寺の首塚である。
首が晒されて三晩目に、近藤が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に埋葬を依頼しようと同志が持出したが、和尚は法蔵寺の三十九代貫主として転任していたので三河国まで運んだという。
時が経ち昭和33年、戊辰の当時に世間を憚って石碑を土で覆い隠し無縁仏のように装っていた埋葬の由来が総本山の記録等から明らかとなり、石碑を覆っていた土砂を取り除き、新たに胸像を建てて供養した旨が案内板に書かれている。

所在地:愛知県岡崎市本宿町寺山1

松平郷[3]高月院-松平氏祖先の廟所

高月院山門 高月院

本松山高月院(こうげついん)
浄土宗鎮西派白旗流。境内の「松平氏遺跡」は国指定文化財で、収蔵展示室には市指定文化財の高月院文書、弁財天の図、野風呂等が展示されている。

貞治6年(1367)7月に松平郷主在原信重が亡父信盛のために、足助次郎重宗の次男、見誉寛立上人(重政)を開山として「寂静寺」を号して創建、
永和3年(1377)信重の婿養子の松平親氏(ちかうじ)が寛立に帰依して本尊の阿弥陀如来像(安阿弥定朝の作という)や山門堂塔全て寄進し「高月院」と改め、菩提寺としたとされる。

天文年間に松平4代親忠(ちかただ)の5男(4子とも)超誉存牛上人(ちょうよぞんぎゅうしょうにん。京都の知恩院25代住職をつとめた)が隠居の形で7代住職となり、3男の長親(松平5代)が土地を寄付して廟を改装した。

慶長7年(1602)寺領100石を松平9代徳川家康より下賜され、以後幕末まで厚遇された。
寛永3年(1626)12月廟所・本堂修復料として1500両下賜され石垣等が新規積立られる。
寛永18年(1641)に江戸幕府3代将軍徳川家光により山門や本堂が建てられたという。

松平氏墓所 松平氏墓廟

松平氏祖先の墓所
歴代住職の墓地の一段高い石垣上にあり、墓域は50㎡。室町時末期の形式を備える。
墓塔は花崗岩製の宝篋印塔で、いずれも塔身や屋蓋の突起等が欠損している。

文政元年(1818)に11代将軍徳川家斉(いえなり)が修繕。
明治21年(1888)に元大和郡山藩主柳沢保申の500余円の寄進で石門と石塀を築造、木柵の玉垣を花崗岩の塀に改築した。
明治23年(1890)3月にも保申は墓地永久保存のための土地を寄付した。

松平太郎左衛門尉源親氏公墓(中央の墓塔、松平氏の始祖)
芳樹院殿俊山徳翁大禅定門 應永元申戌年四月二十四日逝去 年六十三

従五位下三河目代三河守松平太郎左衛門尉源泰親(右、松平2代泰親/やすちか)
良祥院殿秀岸祐金大禅定門 永享二庚戌年九月二十日逝去 年七十五

蔵人源親忠公室(向かって左、松平5代長親の母)
閑照院殿皎月珠光大禅尼 出雲守長親公母堂 永正三丙寅年八月二十二日逝去
……松平親忠の子が住職になった関係で、母の親忠夫人を祖先の陵墓に葬ったと思われる。

松平氏墓所の門 松平太郎左衛門尚栄の墓所

▲現在扉は新しく付け替えられ、柳沢保申寄進の葵紋の石扉は脇に置かれている。
松平氏の墓の下段には歴代住職の墓地と、松平太郎左衛門尚栄・重和二代と尚栄夫人等一族の墓地がある。
松平太郎左衛門9代尚栄(なおよし。松平太郎左衛門家中興の祖)
  観誉晴暗 承応3年(1654)2月24日没 84歳
松平太郎左衛門10代重和(しげふさ)
  善誉祐源 寛文4年(1664)正月15日没 58歳

所在地:愛知県豊田市松平町寒ヶ入44

松平郷[2]松平家・家康公産湯の井戸

産湯井戸の神木 家康公産湯の井戸

石塁で囲い石段を下りて水を汲むようにつくられ、当時には珍しく石板の蓋がある。

産湯の井戸についての伝承は多く、松平郷では松平家館(現在の松平東照宮境内地)の鬼門(艮/うしとら。北東)の方位に祀られている氏神・八幡宮(今の奥宮)の前庭にある井戸が、7つ存在した井戸のうち最も古く、在原信盛によって掘られ松平親氏の子の信広・信光(泰親の子とも)の頃から男子出産時の産湯に使った井戸と言われる。
天文11年(1542)12月26日に岡崎城で松平元康(竹千代。後の徳川家康)が誕生した時には、松平太郎左衛門家7代親長がこの井戸の清水を竹筒に汲んで早馬で岡崎城へ届け、元康の産湯に用いたという記録がある。
江戸時代には将軍御代替の際に諸国巡検使の巡検地として貴重な扱いをされた。

産湯井戸の門 産八幡宮

▲産(うぶの)八幡の宮(水神八幡)
この地は井戸の洞とも呼ばれ、在原信盛が井戸を掘った際に尊体(石)を得て祀り松平親氏が氏神として若宮八幡宮と称したとされる。
井戸は産湯の井戸・沙汰なしの井戸・奥の井戸と異名が多く、井戸水が濁ると異常事態の前兆とされた。
現在も4月の松平東照宮例祭の前夜の試楽祭で、産湯の井戸で浄水を御神水として神前へ供える「御水取り神事」が執り行われている。

二の井戸三の井戸 産湯井戸の由来

▲境内の二の井戸・三の井戸と産湯井戸の案内板

松平郷[1]德川家康の祖・松平氏発祥の地

松平親氏の銅像 松平氏遺跡案内

松平太郎左衛門親氏像
松平郷は江戸幕府創始者德川家康の祖、松平氏の発祥の地とされ、松平氏館・松平城・大給城跡(大内町)と高月院の「松平氏遺跡」は国指定史蹟に指定されている。
館跡地に松平家代々の産湯の井戸高月院に親氏・泰親の墓所がある。

松平氏は新田源氏の流れの世良田(せらた)氏の末裔という系譜は、徳川家の権威を高めるための後付と憶測もされているが、松平郷では「時宗の遊行僧・徳阿弥(とくあみ)が松平郷に入り、還俗して婿入りし松平太郎左衛門親氏を名乗った」とし、流浪前の経歴には殆ど触れていない。
松平郷園地には、領内の巡視をしている日常姿の親氏像が平成5年に建てられてシンボルとなっており、資料館の松平郷館には僧形の木像松平親氏座像(豊田市指定文化財)が展示されている。

■松平郷と松平親氏
松平の地は、後宇多天皇に仕えた公家の武士の在原信盛(ありわらののぶもり)・信重(のぶしげ)父子が足助庄「外下山郷」と呼ばれるこの地を領有し、京都から移って館を構えた時、周辺の野辺に松の木が生い茂る様子から家門の繁栄を思い「松平郷」に改称したという。※信盛は在原業平(なりひら)の19代後裔等、諸説ある。

遊行僧の徳阿弥は、父の長阿弥(ながあみ。有親/ありちか)、弟の祐阿弥(ゆうあみ。泰親/やすちか。息子とも)と共に信州を経て三河国に至り大浜の称名寺に住み、後に松平郷に入ったとされる。
初め西三河の坂井郷の五郎左衛門(後に酒井氏)の婿となるが嫁は子を生んで亡くなってしまったという話(『三河物語』等)もある。
永享元年(1429)徳阿弥は五郎左衛門との連歌の縁で松平郷の太郎左衛門信重と親しくなり、次女の水女姫と結ばれて信重の婿養子となった。
還俗し「松平太郎左衛門親氏」と名乗り、松平城(郷敷城)を本拠とし松平氏の初代となったという。

親氏の子の信広、信光(泰親の子とも)は泰親と共に三河平野に進出する為に岩津城を攻略したが、兄の信広は足に重傷を負い松平郷に留まり松平太郎左衛門家の祖となった。
信光は岩津城主となって西三河に勢力を拡大し、松平家は大給・安城・岡崎城へ侵攻し約180年の歳月を経て9代目の元康(家康)が德川に改め天下統一を果たした。

松平太郎左衛門家は石高442石の寄合旗本の身分であったが、徳川幕府からは将軍家と同じ「葵の紋所」を許され大名(万石以上)と同格の江戸城への登城と将軍御目見得を許された。

笠掛の楓と見初井戸跡 復元した見初めの井戸

笠掛のかえで見初めの井戸(七つ井戸)跡地
在原家の屋敷にあった七つの井戸の一つで、徳阿弥が寂静寺(今の高月院)を訪ねる道すがらこの楓に笠をかけてアヤメの花に見入っていた時、アヤメを摘んでいた水女姫が井戸の水に花を一輪を添えて差し出したことが二人の出会いであった。
井戸は昭和7年の水害の土砂で埋まってしまい、右は観光用に場所を移して再現したもの。

 

松平東照宮拝殿 松平東照宮本殿

八幡神社松平東照宮拝殿と本殿
祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと。八幡様と習合)・德川家康公・松平親氏公・天照大御神・須佐之男命他四神、屋敷神に市杵嶋姫命(いちきしまひめ。弁財天と習合)。
松平家の氏神として若宮八幡を奉り八幡宮と称し慶長16年(1613)に殿社(現在の奥宮)が造営された。
元和5年(1619)に松平太郎左衛門9代目の尚栄が駿河の久能山東照宮より家康公の御分霊を勧請して合祀して以降「松平の権現様」「松平の東照宮」と呼ばれるようになった。昭和40年に親氏公を合祀。
※古くは松平氏が屋敷の鬼門に祀っていたのを新たに大手口を正面として社殿を造営。本殿は山地を削平して建てられたが、渡廊、拝殿、饌所、篝火台、手洗水槽等は宅地内に建設された

松平東照宮水濠 松平信博氏の歌碑

▲手前に水濠、鳥居右手に松平館、作曲家松平信博氏の碑
鳥居前の道は領民が領主の在原氏・松平氏を地につく程頭を下げて拝み敬った様子から額擦り(ぬかずり)の道と呼ばれる。
かつての松平氏宅址は中桐と呼ばれる地に建てられ、八幡神社の西南に接近する東西80m、南北53mの広い宅地で南面西寄りに大手口があり、西と南の上と北側に土塀の名残がある。
慶長5年(1600)関ヶ原役後に松平太郎左衛門9代尚栄が塀や石垣を整備したという。

歌碑は松平太郎左衛門家の第20代目にあたる松平信博氏の代表作「侍ニッポン」の最初の一節が刻まれている。文は作詞の西條八十氏による。昭和33年7月建立。

天下池 氷池跡

天下池(龍池)、氷池
親氏が助けた小蛇が龍となって雨を降らせ、旱魃で干からびた天下の畑を潤したので、その蛇を神龍と崇めてた伝説のある「龍池」がこの天下池の辺りにあったとされる。
氷池は明治20年(1887)から製氷が始められ、池に氷を張らせて切り取り、山かげの氷室に保存し夏に岡崎方面に運んだが、昭和16年(1941)の太平洋戦争で中止となった。

松平郷桜馬場跡地の駐車場 松平郷桜馬場

桜馬場

松平郷遊歩道に造られた室町塀 冠木門 松平城跡への入口

桜馬場跡から高月院までは「松平郷園地」として整備され、遊歩道には歴史をイメージした室町塀や冠木門が設けられている。松平館の東南500mの三斗蒔にお城山(写真右手)がある。

所在地:愛知県豊田市松平町

参考資料
・松平親氏公顕彰会『松平氏とその史蹟』
・平野明夫『三河松平一族~徳川将軍家のルーツ
・司馬遼太郎『街道を行く43 濃尾参州記
・『松平村誌』
・鈴木健『東三河の史蹟めぐり』西三河の項
その他案内板・調査報告書・松平東照宮の由緒書等

関連サイト
松平郷:http://matsudairagou.jp/
松平観光協会:http://www.matudaira-sato.com/