■大多喜出陣
慶長19年(1614)12月13日に本多忠朝の嫡男(本多政勝。内記)が生まれる。
元和元年(1615)大坂冬の陣の和睦直後大御所徳川家康は外堀のみ埋める約束を反故し内堀まで埋める等省みず、3月には遺恨を積もらせた豊臣家の再挙の報が駿府に届いた。
幕府より今まで1万石につき槍100本であった配備を、槍50本と鉄炮20挺とする通達があり、忠朝が3月23日付けで秋田実季らに写しを転送。
4月1日東軍諸将に将軍上洛の報を出し、近江国瀬田(滋賀県大津市)へ召集を命じる。
6日忠朝の大坂出陣が許される。忠朝は城下の明神社に参拝し、潔く大多喜を発った。
10日将軍秀忠が江戸を出発。忠朝らは東海道を進む。
◆余話◆忠朝と火縄銃
上記の幕府の通達からも察せられるよう、合戦で鉄炮が重視されるようになった。
忠朝は、豊後日出藩(ひじ。大分県速見郡日出町)藩主木下延俊(きのしたのぶとし。小早川秀秋の兄)と互いの江戸屋敷に出入りし合うほど親しかった。
そして延俊の国元から鉄炮が忠朝へと贈られたことがある。
※木下延俊は豊臣秀吉の正室寧々の甥で、初め秀吉の家臣であったが関ヶ原合戦で徳川方についた
◆余話◆保科正貞に兵を請われる
4月20日に土山(滋賀県甲賀市)に至り、その後瀬田の唐橋(草津とも)まで差し掛かると、編み笠を深く被った若党がひとり、従者2人を控えさせて大多喜勢の行軍のもとへ罷り出でた。
男は忠朝の前で笠を取り捨てて会釈し「我は保科甚四郎正貞。兄との不仲によりこのたびの役に満足に加勢できぬのが遺憾であり、忍んでここまで来ました。願わくば出雲殿の兵を借りて力を揮いたいのです」と打ち明けた。
正貞は信濃国(長野)高遠城主保科正直の三男で、母は徳川家康の異父妹の多劫姫である。
実兄の正光が保科家当主となるが嫡子がおらず小日向家(真田家御分とされる)から養子をとっていたものの、徳川天下において真田家の血筋は冷遇されがちであった。
そのためか、松平家の近親者である正貞を7歳の時に猶子(養子よりは弱い義理の親子関係)とした。
正貞は幼い頃から家康・秀忠に仕え戦時も保科勢でなく徳川本陣に従軍しており、若年の身では保科家の内でも曖昧な立場と、戦国乱世を生きてきた正光の家を護るための世渡りが肌に合わず、早くから兄弟(親子)間が不仲であっても不思議ではないが
時を同じくして、小笠原秀政(信濃松本藩主。正室登久姫は忠朝の兄忠政の正室の姉)の子忠脩(ただなが、ただのぶ。正室亀姫は忠政の娘)も松本城から無断で上洛し従軍を願っているように、国元の留守に耐えられず何としてでも参戦したかったのだろう。
今の忠朝には決戦を志願する念いが痛いほど分かる。
そして次男として生まれ幼くして徳川家康の側近くに仕え、一大名に立身してもなお、本多家では相続の件で宗家からの視線を感じながら常々次男の立場を弁えていた忠朝だからこそ、他家に頼るしかない正貞の思いを汲んだのだろうか。
忠朝は止むを得ずと、正貞に足軽10人に馬と武具を添えて貸し与えた。
※軍記物『難波戦記』『大坂軍記』等では勘当されての申し出とするが、大坂の陣の時点では正貞は高遠に居り、まだ正光は幸松(保科正之。徳川秀忠の隠し子として正光が保護し養子にとる)を預かってもいない。養子絡みの不和ならば左源太のことであろう。
兄の正光軍に属して先鋒を務めた説では、同一軍のため戦功が混同されており、ここでは省く
正貞と同じく、忠朝は浪人の疋田導師の参戦志願も叶えたという。(『九六騒動記』)
■大坂夏の陣開戦・河内口の戦い
22日に秀忠は京に至り、家康と密議の上、全軍は大和より迂回し河内道明寺(大阪府藤井寺)に集結し大坂城の南からの攻略を決めた。忠朝は河内口二番手右備となる。
24日河内口(大阪府八尾市)【河内口東軍総数約12万】の右先鋒藤堂高虎(伊勢津藩主)兵5千が淀を発つ。
25日には大和路【大和口東軍総数約3万4千】先鋒の伊達政宗(四番だが先行)兵約1万・二番本多忠政(忠朝の兄)約2千・三番松平忠明(ただあきら。伊勢亀山藩主。冬の陣後に大坂城の堀の埋立奉行を担当)約千らが発ち、河内口の松平忠直、酒井家次等諸将も相踵いで河内へ向かう。
28日に河内口右備え一番手榊原康勝2100と二番手忠朝1千の兵らは伏見より、左先鋒井伊直孝(近江彦根藩主)3200の兵は山城深草山(京都府京都市伏見)から共に河内に向かい、翌日奈良付近に舎営。
5月5日徳川父子が京を発ち、明日の道明寺進軍を所将に命じた。
6日河内口では、明け方に豊臣方の長曾我部盛親(ちょうそかべもりちか)5千・益田盛次300の兵が道明寺の北の八尾村(大阪府八尾市)に達し、徳川方先鋒藤堂勢の先行隊と交戦。
午前5時に豊臣方の木村重成(しげなり)6千の兵が若江村(八尾村の北)に達し、高野街道から迫る徳川方先鋒井伊勢の先行隊へ山口弘定・内藤長秋合わせて1千の兵を差し向け、南の八尾方面に長屋平太・佐久間正頼等右翼隊、北の暗峠越方面に叔父木村宗明300の左翼隊を分けた。
暗峠越の道上には、一番手右備の榊原隊・忠朝隊・小笠原秀政1600・仙石忠政1千・諏訪忠澄540・保科正光600・藤田重信300・丹羽長重200の兵らが徳川本隊からの指示通り控えている。
先鋒井伊隊が激闘の末に木村勢を打ち破るのを好機として榊原先行隊・丹羽隊らが徳川本隊の指示を待たずに宗明を攻撃し、豊臣方(若江八尾方面総数1万1300)を壊走させた。
◆道明寺口の戦いに兄忠政参戦◆
6日午前0時に豊臣方の後藤基次が2800の兵を率いて平野(大阪市平野区)から大和街道を進み道明寺に出るが、後続の真田信繁(のぶしげ。幸村)・毛利豊前守勝永(かつなが)ら1万数千の軍は遅れを取った。
午前4時に豊臣方の篝火を発見した奥田忠次60・板倉重政200の兵らは先鋒水野勝成600の兵を待たずに銃撃戦開始。小松山に駐屯していた徳川方諸隊が大軍で前・側面を攻め、正午まで耐えるも後藤軍は潰え、後続の豊臣勢の追撃にかかる。
河内口、道明寺口両方面の徳川方諸将が追撃し、午後には真田・毛利隊を撤退させた。
戦が終わると、徳川本陣の秀忠より明日の決戦はニ番手の忠朝を天王寺口先鋒とする指示が届き、忠朝は喜んで拝命する。
道明寺に甥の平八郎忠刻、甲斐守政朝、能登守忠義を呼び出し「このたびの、我が兄……そのほう達の父(忠政)の働きは立派であった。しかし我こそは抑えに回らず決死の先駆けを致そう」と告げ、芝堤の上で最後の盃を交わした。
忠朝はその夜、細川越中守忠興(ただおき)の陣所へ赴き、自分が討死した後の、まだ赤子の政勝の行く末を托した。
主の覚悟に共鳴した譜第の家臣加藤忠左衛門、大屋作左衛門、藤平治右衛門、臼杵七兵衛らも討死を誓う起請文に血判を押して差し、忠朝は彼らの本望をしかと汲み押戴く。
※軍記物では小笠原秀政(小笠原家は本多宗家と婚戚関係にある)が忠朝の陣営を訪れている。若江の戦で言いつけ通りに徳川本陣の指示を待ち、攻撃が遅れたことを戦後に叱咤された秀政が、同じように鴫野で家康の機嫌を損ねた忠朝と、明日の討死の覚悟を語り合った。
▲現在の四天王寺南大門と五重塔
豊臣方の猛将毛利勝永本隊が布陣。天王寺口配備の西軍総数は1万2千・外4800人
■天王寺表の戦い
5月7日早天、二度と外さぬ覚悟で兜の結び緒の端を切りった忠朝が先鋒の諸将、浅野長重・秋田実季・松下重綱・真田信吉と真田信政兄弟(共に真田信繁の兄信之の子で信政は忠朝の甥にあたる)・植村泰勝・六郷政乗・須賀勝政らを率いて天王寺口の先手を進む。
忠朝は他隊よりやや前方、右に沼池、左に小丘のある地に布陣。
正午、天王寺南門前に布陣した豊臣方の毛利勝永の先行兵が先走り、物見に来ていた本多隊を銃撃し開戦となった。
豊臣方は、当初の徳川方を誘い入れる予定が狂い、茶臼山に布陣した真田信繁(幸村)が毛利隊へ中止を求めたが、もはや逸る先行隊を抑えることは出来なかった。
本多隊の隊長窪田伝十郎らは、左に布陣する越前少将(松平忠直)軍と共に鉄砲を撃ち掛け押し進んだ。
勝永は毛利勢を二手に分け、本多隊を左右から囲う。
有卦に入る毛利隊左翼が徳川方の真田隊を、毛利隊右翼が浅野・秋田・松下・植村・六郷・須賀隊を猛攻し、越前隊の右手にまで突入する。
先手を取った毛利勢78人が本多勢に押し寄せるも忠朝は勢いを削がれることなく百里(ひゃくり)と名付けた馬に乗り、勝永の本陣めがけ、真一文字に衝き入った。
合わせ備えの諸将が次々と敗走し、本多勢への攻撃は熾烈を極めた。
小野解勘由(かげゆ)ら決死の本多勢70余人を左右に、忠朝は大声で本多出雲守忠朝なるぞと名乗りを上げて槍が折れるまで敵を縦横無尽に突き伏せる。
20余りの傷を負った忠朝の前に、毛利の紺羽織を着た足軽が二間ばかりの所に詰め寄った。
至近距離から放たれた銃弾が、忠朝の臍の上を貫いた。
よろめいた忠朝は、関東勢が崩れていく無残な視界の中で、後方から突き進む熟練の武将小笠原秀政と子の忠脩、忠朝が兵を貸し与えた若武者保科正貞が傷つき血まみれになりながら槍を合わせ、勇猛果敢に先鋒隊を援ける姿が見えた。
馬上で倒れかけた忠朝は気合で堪え、馬を飛び降り、銃創から鮮血が滴るのも物とせず、自分を撃った足軽を薙ぎ倒し、折れた槍を捨て太刀で敵数人を斬り伏せる。
しかし集中砲火に曝され、敵を追って踏み入れた小溝で力尽き、累々の屍骸の間に倒れ伏せた。
大屋作左衛門は主の遺体の上に取り付いて、散々に斬られ、事切れても離さずにいた。
他家臣達も次々に主の傍で討死した。
忠朝の首級は秀頼の御家人雨森傳左衛門が取り、指物は中川彌次右衛門が捕ったと伝わっている。
家臣により百里に乗せて運ばれる忠朝の亡骸が、家康の馬の前を通った時、家康は涙を流して見送ったという。
家康は冬の陣では厳しくあたったが、忠朝を幼い頃から側近くに近侍させ、次男の身でありながら分家を許して城持ちの藩主とする好遇を与えた程だから、思い入れがないはずがない。
この戦いで忠朝軍は74の首級を挙げ、家臣の窪田伝十郎、大原物右衛門、柳田平兵衛、山本唯右衛門、小鹿主馬助の五人に感状が与えられた。
武将として最期まで戦い抜き34歳で大坂に散った忠朝は、大坂一心寺(大阪市天王寺区)に葬られ、後に上総良玄寺(千葉県大多喜町新丁)に分骨し両親と共に眠る。
戒名、三光院殿前雲州岸譽良玄大居士。
天王寺村、阿部野村に忠朝の塚があったと伝える書もある。
▲時移ろい、忠朝の合わせ備えの諸将達が布陣した地には天王寺から大阪城を望むべく、あべのハルカス(写真奥の高層ビル)が聳えている。
大坂陣図屏風の天王寺周辺、右に忠朝。中央下が真田信繁(幸村)隊、左上が毛利勝永隊。
●本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
●本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
●本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
○本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
●本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
●本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」
参考史料
・『富津市史』
他、大坂役関連古地図・合戦図、記事中に明記の史料や忠朝[1]参考図書等に同じ
大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)画像は一心寺南会所案内パネルより