「韮山反射炉」構造と歴史

現在の韮山反射炉 明治の補修前の反射炉

▲現在の韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)と補修直前の反射炉
韮山反射炉は幕府の許可により大砲鋳造の目的で、韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)らにより、安政元年(1854に着工、3年後英敏の代に完成した、銑鉄(せんてつ。鉄鉱石から還元した鉄で不純物が多い)を溶かして良質な鉄を得るための洋式の金属溶解炉。
反射炉と呼ばれるのは、燃料(石炭)を燃焼させる炎や熱を、炉のドーム状の天井に反射させ、一点に集中させた反射熱を利用して金属を溶解する方式による。
創立当時は漆喰塗の白亜の塔だった。明治41年1月に煙突部分を鉄帯で補強し周囲に鉄柵を巡らせ、昭和年代に構造用形鋼と鉄筋で耐震補強されている。

連双二基4炉の韮山反射炉 連双二基シャチ台

連双二基の炉、当初あったシャチ台
反射炉は銑鉄を溶解する炉体と煙突から構成され、連双二基(溶解炉を2つ備える)南炉・北炉の計4炉を同時に稼動させることができる。
かつては北東側(上の写真)には鋳型を出し入れするための「シャチ台」があった。

・敷地面積は南北約59m、東西約52mの3,068㎡
・炉と煙突の部分を合わせた高さは約15.7m
・南炉・北炉は各5.9m×5.1m、炉床形で容量2~3t級

煙突が高いのは燃焼時に、ふいご等の人力に頼らない自然送風を確保するため。
上部に行くほど細くなっているが、内部はの穴は上から下まで同じ大きさ。

・炉体部(低層部分)外部伊豆石構造、炉内は耐火煉瓦のアーチ積
・煙突部(高層部分)煉瓦組構造(創立当時は漆喰塗り)

耐火煉瓦(焼石/やきいし)は賀茂郡梨本村(現河津町)に設けられた登り窯で生産され
賀茂郡中村・梨本村で採掘した白土を使用し、1700度まで耐えられる。

韮山反射炉と坦庵像 明治42年補修時の反射炉

▲反射炉を背にする江川坦庵公像。右は反射炉補修時の周囲の様子
天保11年(1840)のアヘン戦争で2年後に清が大敗しイギリスの半植民地化したことで、日本でも欧米諸国の進出に対する危機感が強まり、薩摩・佐賀・水戸など開明的な藩主のいた藩や、幕府でも蘭学に通じた先覚者達により、西洋の先進的な技術の導入が積極的に行われるようになる。
嘉永3年(1850)6月に佐賀藩主鍋島直正は佐賀城西の築地に大砲製造方を置きオランダのヒュゲーニン著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳させ工夫を加え7月に反射炉の建造着手し1基竣工。以降2年間で4基を完成させ操業に成功。
嘉永6年(1853)夏に薩摩藩主島津斉彬による集成館事業(洋式産業群)の一環で磯邸内で試作炉を、完全な2号炉は安政4年(1857)夏に完成させた。

幕府でも、江川英龍が海防の必要性と江戸湾防備の具体策──台場を構築し異国船に備える等──を幕府に建言し、嘉永6年のペリー艦隊の来航等を受けて聞き入れられる。
台場に設置する大砲は、従来のものより長射程で堅牢、かつ低コストの条件を満たすためには、鉄製で口径長大な砲の製作が必要であるが、それを想定していた英龍は『ライク~鋳造法』を石井修三と矢田部卿運に『和蘭国製鉄炉法』として翻訳させる等しており、幕府の許可が下りてすぐに、反射炉建造に着手。
はじめ建設場所を伊豆賀茂郡本郷村(現在の下田高馬付近)とした。

嘉永6年(1853)12月に本郷村で建設準備。
安政元年(1854)3月27日、伊豆本郷村の工事中の反射炉に、近くにある下田港に入港していたペリー艦隊の水兵が侵入する事件が起きたため、建設地を急遽、韮山代官所に近い田方郡韮山中村村に変更することとなった。
5月29日本郷村から資材を運び出し、沼津香貫村に荷揚げ。
6月に現在の場所、田方郡中村で着工。翌月1日から土台、閏7月18日に耐火煉瓦を積み始め22日板鉄鋳造。
安政2年(1855)1月16日に英龍が江戸屋敷で病没。子の英敏が意志を継いで工事は続行される。
2月21日に1番反射炉半双。8月に幕府を通じて佐賀藩の協力を要請し、12月に承諾を得る。
安政3年 (1856)4月11日タール製造所で完成。この年発行の『鉄煩鋳鑑図』入手。
※この年3月に水戸藩で反射炉完成
安政4年 (1857)2月5日佐賀藩より技師の杉谷雍助(翌年3月9日帰国)・田代孫三郎および職人達(翌年3月22日帰国)が到着。
7月1日南炉試鋳。9月9日に最初の18ポンド砲の鋳込みが行われる。
安政5年(1858)3月連双2基が完成。
製造した18ポンド砲は良好だったが、その後度々の天災や粗悪な銑鉄使用の弊害等が重なり、鋳砲の困難が記録に見られる。安政6年から銅製砲を鋳造。

完成した大砲の28門が品川台場に据付られたという。
幕末期から国内で幕府直轄4、藩営6、民間3箇所の反射炉が作られ、8箇所が完成したといわれる(幕府直轄は韮山のみ)が、現存するのは山口県萩(試験炉とみられる)と韮山のみ、実際に稼動運用し当時の姿をほぼ完全な形として残すものは韮山のみとなった。

古絵図文久3年9月 古絵図

▲古絵図(文久3年9月)
古地図によると韮山反射炉は現存している反射炉本体のまわりに砲身をくり抜く錐台小屋など敷地内は一連の作業小屋を含めた製砲工場であった。
これらの小屋を見ると、本錐台小屋、御筒仕上小屋、鍛冶小屋、板倉、詰所、門番所などがあり、他に古川の上流に仮小屋、タタラ炉が配置されている。

炉の構造案内 炉と鋳台の位置

▲位置と構造
鋳台下に約30cm角の松の角材が碁盤の目のように敷き詰められ、炉の下には松杭が打ち込まれている。
高レベルな基礎工事により、安政元年(1854)11月14日の安政の大地震でも工事中の反射炉に大きな損害は無かった。

韮山反射炉東側 韮山反射炉南側

▲東側と南側
東側写真、右に北炉と出湯口、左が南炉で横に焚口鋳口が見える。
南側写真、右が南炉で下に灰穴、左が北炉で横に焚口と鋳口、手前は源材料置場。

灰穴内部 炉の構造

▲炉のしくみ。写真の穴は灰穴

反射炉焚口 焚口解説

△[工程1]焚口(たきぐち)
小さい四角が焚所(燃焼室)に石炭(筑後・常盤等)などの燃料を入れる焚口。
最初、木炭(天城炭)の弱火でロストル(火格子/ひごうし。固体燃料を載せる格子状の装置)を温め、この上に木屑と薪を置き
石炭を堰(えん。燃焼室と溶解室を区切る煉瓦積みの仕切り)よりやや高くなる程度に入れ、数千百度まで温度を上げる。

反射炉鋳口 反射炉鋳口解説

△[工程2]鋳口(いぐち)
焚口より大きいドーム型が、溶解室に銑鉄等を入れる鋳口。燃焼ガスの集合により最も高温になる所。
炉床面は出湯口に向かってゆるやかな下り勾配になっていて、不純物を含んだ銑鉄が溶けると傾斜に従い出湯口に向かう。出湯口の手前で上に煙道が伸びる。

反射炉出湯口と鋳台場所 反射炉出湯口側説明

△[工程3]出湯口(しゅっとうこう)
出湯口から溶解した鉄が流れ、鋳台(いだい。鋳型を置く台)に設置された大砲の鋳型(いがた)へと注がれる。
南北の炉が出湯口側で直交する(直角に位置する)のは、多量の鉄湯を必要とする時に、合わせ湯を便利にさせるため。
手前のコンクリート枠(補修時の目印のためにある)の位置が鋳台場所。鋳台は縦横4.6m角で深さ2.7mの箱型。

反射炉灰穴 反射炉灰穴案内

焚所風入口灰穴
灰穴は焚口のある焚所(燃焼室)の下に位置し、焚所への自然送風口と共に、焚所で燃えた燃料の灰を落とす所。
上部の鉄桁の上にロストルを敷き、この上に燃料を置いていた。

水車 22水力三連錐台の図

水車(みずぐるま)と三連錐台の図
当時の大砲は砲身の内部にあらかじめ芯の鋳型を挿入する中子法から、鋳造後に砲身をくり抜く工法に移っている。
鉄を溶かして鋳型で固めた、鉄の塊でしかない砲身を、水車で回転させ削孔(さっこう)させる工作機械「三連錐台」で行われた。昼夜休みなく回る水車によって約1ヶ月かけて穴が開けられたのだ。
反射炉が古川沿いに築造されたのも、水力を必要とするためである。
図は『鉄煩鋳鑑図』より。

韮山古川

今も古川はそばに流れている。
その後の韮山反射炉は…
慶応2年(1866)4月に幕府直営から江川家私営となるが、維新後は明治6年(1873)3月に陸軍省に移管、設備・付属品等を造兵司に引き渡し決定。
大正11年(1922)3月8日に内務省に移管し、国史跡に指定される。
平成19年(2007)11月30日に経済産業省より近代化産業遺産群33に指定される。

国指定史蹟 韮山反射炉
所在地:静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268の1

参考資料
・山田寿々六『韮山反射炉 構造の概要と写真集』『反射炉に学ぶ』
・日本耐火物協会『耐火物年鑑4』
ほか反射炉の案内パネル・リーフレット等
関連サイト
・伊豆の国市HP:http://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/

■■韮山代官江川家と担庵■■