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人見山青蓮寺「白井為吉碑」

 

白井為吉碑
吁嗟吾友白井為吉君逝矣君明治十二年五月生於南総人見父名元吉母平野
氏家世業農漁資性孝義郷党挙稱其篤行年十七喪母其疾也憂慮兢〃興兄太
喜蔵戮力慰勞無不盡及瞑哭泣哀戚至廃寝食既而父亦嬰患湯薬無験殆不省
人事於是家資一空君克護父助兄百難不撓日夜勤勉家道復興焉三十二年十
二月應徴入横須賀海兵團為五等水兵累進二等射手先是入團令下也奮然告
兄曰阿爺之事専委之君弟自今舎一身以答  聖恩身分手出矣三十三年六
月團匪之変従軍南清遠溯揚子江警戒沿岸時炎暑如燬艱不可言君志氣凛〃
屡率先隊伍冐危難不為少屈居六閲月而旋因功賜金三十圓無幾罹病入横須
賀海軍病院數旬遂歿寔三十五年六月二十一日也君臨終従容謂衆曰我幸生
聖世苟入軍籍期擲微謳並寸功而今也如乢鳴呼天矣夫聞者為流涕其義勇之
氣至死不衰享年二十有四歸埀於故園薬師堂先塋之次頃者郷人胥議欲樹石
傅不朽以余与君家親属余銘之銘曰
入則孝純 出則義烈 孝通鬼神 義貫金鐵 窮厄弗憂 艱難弗折
皎〃承誠 凛々厥節 獅山巍〃 千秋不缺 絲水溶〃 萬古不竭
精魂歸天 遺徳明徹 譽与山髙 名与水潔

海軍中將正二位勲一等子爵榎本武揚篆額   秋元源五郎謹撰
時明治三十六年六月二十一日     正四位勲三等巖谷修書
                      白井峯三郎刻

白井為吉の尽忠碑。
明治12年(1879)5月、周淮郡人見村で白井元吉の子として為吉が生まれる。
明治27年(1894)日清戦争勃発。富国強兵に伴い戦後も海軍の軍拡が促される。
17歳の頃に母(平野家から嫁ぐ)が病死。父もまた重病を患い家は傾くが兄太喜蔵と共に父を支えた。
明治32年(1899)12月に兵徴募に応じ、横須賀海兵団に入営し五等水兵となる。後に二等射手まで昇進。
明治33年(1900)義和団事件の影響により清国各地で緊張が高まる。
6月には護衛のため日本からも海兵団が派遣され、為吉も従軍し、酷暑の中で揚子江湾岸警備に就いた。
ほどなく病に倒れ横須賀海軍病院に暫く入院することとなる。
明治35年(1902)6月21日臨終。享年24。
翌年白井為吉碑が建立された。

防衛省史料によると32年度には千葉県出身者は455名にのぼる多くの志願者があった。
一方で『海軍省医務局報告』で確認できる横海団内の罹患病死者数は少なくない。
海軍医事報告撮要』によると明治35年の1月末から2月にかけ横須賀海兵団でインフルエンザが流行している。

 

篆額は明治22年建立小志駒「諏訪神社碑」明治30年建立鹿野山「招魂之碑」等と同じ榎本武揚
巖谷修は水口藩(滋賀県甲賀市)侍医の家に生まれ、維新後は明治政府の官僚となる。書家として名高い。
 

■人見山青蓮寺
人見山の麓、郷社人見神社の別当職。本尊阿弥陀如来。
真言宗豊山派。四国八十八ケ所摸上総国札順巡礼二十四番(東寺)。
明治まで山城国醍醐派報恩院の末寺であった。
嘉祥元年(848)宥恵上人が開祖とされる。
天文年間(1532~1555)の戦火で全焼。
万治年間(1658~1660)僧宥永伽藍を再建。
江戸時代に朱印寺領五石を拝領。
その後も幾度か火災や山崩れの災難に遭うが再建され檀家関係者の尽力で再建改修され今に至る。

青蓮寺所在地:千葉県君津市人見1-11-7

小志駒「諏訪神社碑」榎本武揚篆額

 

諏訪神社碑 従二位勲一等子爵榎本武揚篆額
上總峰上郷諏訪神社祭建御名方命嘉應二年所創立
也治承四年源頼朝敗於石橋山航自真鶴崎遁安房尋
至上總途過此社使別當快源祈興復快源懇祷曰若使
源氏再興則生水以兆之一夜泉忽湧頼朝感喜名曰源
氏水乃檄四方八州豪族響應遂成覇業因献祀田弐段
餘歩風霜経久社宇頽壊天文九年里見義弘重修之雕
桶飛甍煥然照眼十一年十一月里見氏与北条之兵戦
于三船山時掬此水以祷戦捷獲勝乃建華表納金幣明
治廿二年祠官毛利元継恐霊蹟将湮滅欲建碑伝後世
謀之郷豪諸氏争損貲属予記之乃繋以詞曰
檻泉觱沸 地顕其竒 戎馬奔騰 人開覇基
油油胦田 以供馨栥 巍巍華表 以致鴻釐
威霊千載 建斯豊碑
明治廿二年十一月
              従七位 重城保撰
          従四位勲四等 金井之恭書
              白井半右エ衛門刻

建碑時の榎本武揚は文部大臣。戊辰年に海軍副総裁として旧幕府艦隊を率いて館山沖に停泊請西藩林忠崇らの渡航を支援。東北、蝦夷へ渡って官軍に抗い、箱館の降伏後は明治政府に出仕し中核をなした。

重城保は当時は望陀・周准・天羽郡長。高柳(現木更津市)の名主で維新後は行政官や実業家として土木・教育等多方面で郷里の発展に尽くした。重城家の祖先は里見氏一族であったという。

金井之恭は明治の三筆に数えられる書家で、当時は元老院議官。上州の画家金井烏洲の子で勤皇家であり、戊辰戦争では新政府側につき新田官軍の重鎮として転戦した。

白井半右衛門は志駒村の名主で、惣代人。

碑文中の祠官毛利元継は隣に建つ「毛利元継碑」に功績が刻まれている。

 
 

■郷社諏訪神社
 

社伝では嘉応2年(1170)11月5日創建。
治承4年(1180)源頼朝が別当普賢寺快源に戦勝祈願の祈祷させると清泉が湧き、地元では源氏水と呼ばれている。後に頼朝は神田寄付をした。
永享3年(1431)太夫五郎が薬師三尊を寄付し御神体として神殿に安置。
(後に普賢寺所蔵。銘大貫峯上師子馬薬師堂敬白法眼永亨三年庚戌八月廿五日敬白法眼旦那大夫五山作者道観
天文8年9月3日真里谷入道全芳が鰐口一個寄付。
天文9年里見義弘(里見系図によると若年)が大旦那となり7年社殿落成。
永禄10年北条氏との三船山合戦に際し里見義弘が必勝祈願。
天保8年社殿・拝殿を修繕。
万延元年(1860)本殿造設。

明治の神仏分離で諏訪大明神から諏訪神社に神号を改め普賢寺別当職をやめ、御神体を普普賢寺へ移す。
明治6年(1873)2月に郷社となる。
明治22年(1889)諏訪神社碑建立。
 

普賢寺
新義真言宗智山派真福寺末。榮源が開基という。行基作とされる薬師如来(不動明王とも)を安置。
里見義弘の家臣加藤有補軒が記したとされる『智明山縁起』は富津市市指定有形文化財で、諏訪神社碑の碑文と同様の内容が認められる。
 

 

毛利元継碑
昭和6年建立の諏訪神社祠官の毛利元継の公徳碑。
社寺兵事課長の広橋真光伯爵の題、和田和の書、八剱神社社司の八剱功の撰。
 
社前の馬場の両側の松林は「諏訪の森」という。
正面の氷室山は、文明年間に里見義実が真里谷道環を環城を攻めた際に本陣としたとされる。
山頂の雨乞塚の近くにかつて源頼朝が母衣を掛けて「我軍利あらば永く枯死すること莫れ」と願掛けをした「母衣懸松」があり巨木となったが慶応年中に落雷により倒れてしまったという。(『總國誌』)

諏訪神社所在地:千葉県富津市小志駒(こじこま)字南188

大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

(前の記事→大河内三千太郎[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍

北海道空知監獄署に奉職(前半続)
明治22年(1889)5月空知監獄署の看守長代理となる。
この年の8月奈良縣吉野郡十津川郷の大洪水で被災し依る所のない住民600戸は官費での集団渡道を決め、最初の十津川移民789人が小樽港に上陸、10月31日に市来知に到着し、空知監附属の撃剣場等を移民の宿泊所に充て囚人が炊出しを行った。移民達は天長節の祝賀を願い出て11月3日まで滞在する。
この天長節について川村たかし(ドラマ化された『新十津川物語』作者)の新聞連載『十津川出国記』に、空知監の看守と十津川移民とで剣術試合を行ったことが書かれている。
幕末剣士達が看守となっているため腕自慢の郷士達でも歯が立たなかったが、中でも「看守長の大河原は鎖鎌の妙技を披露して驚かせた」という。三千太郎は剣術と共に鎖鎌術にも優れ度々披露していることから、この「大河原」という看守長は「大河内」のことであろう。
※この後、老人や子供は囚人の手で運ばれ空知太に入植し新十津川村(現在の新十津川町)が開かれる

 

上川郡道路開削従事囚徒の引率
明治23年(1890)4月に三千太郎は石狩国上川郡(現旭川市)の忠別太(ちゅうべつぶと。忠別/チュップペツ)から伊香牛までの北見道路開鑿のため囚徒270名を引率する。(鈴木規矩男『上川発達史』の三千太郎本人談)
永山屯田兵地の開拓も進められ、永山屯田本部と官舎や授業場等の建築が行われる。兵屋400戸のうち、樺戸・空知監は300戸を請け負い(監獄署は二中隊の200戸、札幌の北海商会が一中隊の200戸を担当したが頓挫し100戸を監獄署が引継ぐ)永山本部の後方に囚徒小屋を建てた。
山で木材を伐採するために監獄署出張所が牛朱別川畔と宇園別(当麻町)に置かれ、石狩川や牛朱別川に流して永山で製材した。
三千太郎は永山に居て、時々忠別太に置かれた空知監派出所へ赴いたという。
7月22日に監獄署は集治監に名称を戻す。9月20日に神居(かむい)村・永山村・旭川村の三村が置かれる。

 
空知監獄署出張所の跡碑と出張所があったとされる付近
明治22年6月に神居村に中央道路開削と屯田兵屋建設のため出張所が置かれた。
『明治ニ十三年旭川地図』美瑛川端に空知出張所が書かれている。現在は当時と川筋が変わり中洲にあたるという

『神居村神楽村村史』に明治32年に榎本武揚が旭川を訪れ、かつて箱館戦争に加わっていた三千太郎も神居から駆けつけ謁見し土地の価格について等に答えたと書かれているが、その頃は政界を引退し個人で学会等の会長を兼任し公的な記録が乏しく真偽不明。
『旭川史誌』等に明治23年9月に樞密顧問官榎本武揚が上川を視察とあり、再会が事実ならこの年であろうか。

 

明治24年(1891)永山村の樺戸出張所第一外役所の炊所勤務であった樺戸看守白石林武(しげたけ。明治19年9月1日樺戸監職員に採用)の勤務記(『北海道集治監勤務日記』)4月3日に「空知出張所看守大河内氏ヘ過日押送相成候囚七拾弐名、朝飯壱度分相渡置候事、拙者囚弐名引率ノ上渡済…」とあり「空知看守大河内 氏太刀鎌能シ」と、日々撃剣稽古に励んでいた白石らしい付記を加えている。

 
屯田歩兵第三大隊本部跡碑永山屯田兵屋(旭川市博物館展示)
三千太郎の引率した囚人達は裏に小屋を建てて本部や兵屋建設に従事した

5月に永山屯田兵舎落成。
6月屯田兵歩兵第三大隊本部が置かれる。7月2日に永山屯田兵の入地が完了。
7月25日に月形から永山・神居・旭川3村の戸長役場が永山に移り、屯田兵本部官舎に仮住して開庁。

 
樺戸監獄署出張所の跡碑(事務所等跡地)と初め事務所があった農作物試験事務所棟
明治20年5月、上川仮新道の改修に囚徒を従事させるため農作物試験所建物(現神居1条1丁目忠別太駅逓第一美瑛舎)に樺戸監獄署出張所が置かれた。ただし、獄舎、看守詰所等監獄署としての施設はこの一帯に置かれ、後には事務所もここに移った。囚徒は、新道工事のほか屯田兵屋の建築にあたるなど、陰ながら上川開拓に大きな足跡を残した。
上川郡農作物試験所は明治19年に建ち20年に樺戸監に移管され忠別派出所事務所となり、22年に貸下げられ官設駅逓(人馬車継立兼休泊所)となり、8月15日に忠別太驛逓第一美英舎が開駅した。

白石林武の勤務記にみられる通り、空知出張所の三千太郎は樺戸監とのやり取りもあった。

 

大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生へ続く
(前の記事→[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍

■■不二心流と木更津「島屋」■■
[2018.6/3 第三大隊本部跡碑追加。長いので記事を分けました]

甲源一刀流逸見愛作寿碑

甲源一刀流逸見愛作寿碑 請西藩士檜山省吾や小鹿野町長田嶋小弥太の名

逸見愛作寿碑(へんみあいさく じゅひ)
発起人に請西藩檜山省吾やその息子田嶋小彌太の名もある

江戸時代から続く剣術甲源一刀流(こうげんいっとうりゅう)は逸見太四郎義年(1747~1828)が甲源(逸見家の祖甲斐源氏に由る)を名付け創始した一刀流の一派。
薄村小沢口(こさわぐち。小鹿野町両神薄)に道場「燿武館」を建て、隆盛時は全国から多くの門弟が集い、様々な時代小説に甲源一刀流の剣豪が登場している。

逸見家29世の逸見愛作は、村民から「小沢口の先生」と呼ばれ慕われた。
明治33年(1900)に門弟らが逸見愛作の還暦を記念して寿碑を建立した。篆額は文部大臣榎本武揚(えのもとたけあき)の筆、書と撰文は雨宮春譚(しゅんたん。寄居町の医師・教育者)。
4月26日の建碑式では門人約330名による記念試合も行われた。

逸見愛作の肖像写真 逸見愛作寿碑案内板

■逸見愛作源英敦(へんみあいさくみなもとのひであつ)
天保12年(1841)4月21日に剣世五代太四郎長英の嫡男として生まれる。
江戸へ出て、逸見道場門下であった強矢良輔の道場等で修業を積んだ。
文久年間(1861~3)領主の上州岩鼻陣屋(高崎市岩鼻町)代官所の剣術指南役に若くして抜擢され、激動の時代に見合う厳しい指導をした。

明治9年の廃刀令後も小沢口で修練と教導に励み、薄村の戸長も務めた。
甲源一刀流は郷里の様々な神社に奉額を奉納し、明治28年には三千余人もの門人の名が書かれた巨大な奉納額を東京の靖国神社に納め盛大な奉納試合が行われた。
この奉納額は大きさもさることながら豪華な彫刻が施され、数千の門弟の確認も手間がかかり奉納日が延期したほどだった。

大正13年10月2日没。享年84歳。甲源院敦武雄居士。

甲源一刀流逸見愛作寿碑(小鹿野町指定史跡)
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄

参考
・逸見光治『甲斐源氏 甲源一刀流逸見家』
他、甲源一刀流資料館でのお話や展示物

鹿野山の請西藩殉難者「招魂之碑」

鹿野山の招魂之碑 招魂之碑裏面

招䰟之碑の文字は榎本武揚(えのもとたけあき)の書。
明治30年(1897)4月3日と4日に上総一の霊場といわれる鹿野山(かのうざん)で、旧請西藩林忠崇公を祭主として旧請西藩戦病死者祭典が営まれました。
旧請西藩の縁故者で委員会を設け、祭典に合わせて祭典場にこの招魂碑が建てられ、戦没した従軍者も併祭されました。

招魂之碑説明板 鹿野山の石祠
招魂之碑案内板========================================================
【表】招魂之碑 明治三十年二月 日
        正二位勲一等 子爵 榎本武揚書
【裏】
慶応戊辰之変大勢既革焉然旧夢未醒之徒奔走於国事者数十名皆多戦死病没三十年来
未嘗一慰英魂毅魄抑開港攘夷其論雖異佐東援西其業雖殊至於性命供犠牲以計国利民
福何有所撰藩主林君前既蒙   恩命又授栄爵則      天意所在瞭然可知矣
死者冀小安頃同志相謀建招魂碑乃録其姓名以伝不朽云爾
 北爪 貢  大野禧十郎 廣部與惣治 政田 謙蔵 吉田 柳助 木村嘉七郎
 高橋 護  秋山 宗蔵 小倉鍨三太 篠原九寸太 重田信次郎 西森與助
 清水 半七 小倉由次郎 諏訪 數馬 大野 静
明治三十年四月三日 前陸軍経理学校教官従六位勲五等 廣部 精識
          陸軍経理学校嘱託教授   癸山 劉 雨田書  井龜泉刻
【左】
三十年祭典薫事者
  祭主     林 忠崇
  副祭主 男爵 林 忠弘
  委員長    広部 精
    各委員姓名別刻
【右】
廣部周助 大野尚貞 長谷川源右衛門 北爪善橘 中村三十郎 加藤雄之助
篠原愛之助 篠原竹四郎 磯部克介 酒井定之進 丸山悦太郎 友部雄蔵 淺生雄仙
小倉左門 小幡輪右衛門 逸見庫司 織本新助 滑川彦質 以上病没
大野友彌 伊能矢柄 檜山省吾 岩瀬銓之助 小幡直次郎 安藤信三郎 中野秀太郎
橋本松蔵 加納佐太郎 小林清太郎 水田萬吉 木村隼人 宮崎龜之助 逸見静馬
渡邊勝造 杉浦銕太郎 岩田弘 吉田収作 岩垂謙輔 外山源之丞 高浦新平
以上皆従軍者
□□□右衛門 □□兵左衛門 野口登作 山口曹参 廣部軍司 以上五名病没
□□精 國吉惣兵衛 大野喜六 田中彦三郎 松崎蔵之介 廣部文助 善場雄次郎
善場雄次郎 大野春貞 □□□光 大竹徳國 西尾斧吉 國吉龜次郎

To Kazusa
 招魂之碑は、戊辰戦争の際、旧幕府軍について敗れた上総国請西藩藩士の英霊の少安を願い、明治30年に建てられたもので、招魂之碑という文字は幕府海軍副総裁であった榎本武揚の書。江戸城のあった方角を向いており、明治大正時代の詩人、評論家、随筆家として有名な大町桂つきは、鹿野山二十詠の中で「臺(台)ノ畑高く聳(そび)ゆる招魂面するは皇城にして」と詠っています。
 戊辰戦争当時の上総国請西藩の藩主は「林忠崇」(はやしただたか)。若くして家督を相続し、文武両道で、将来老中になりうる器であると評価されていたそうです。
 なお、碑文は概ね次のような内容となっています。
 戊辰戦争の関係で多くの者が戦・病死したが、30年来、未だかつて一度も英霊の猛々しい魂をしずめていない。そもそも、開港派、攘夷派、その考えや行ったことは異なるが、国や民のことを考え、命を懸けて戦ったことに違いはなく、分け隔てる必要はないはずである。林家は既に情けある処置により家格再興を果たしたが、これはつまり、天皇の意志がそうであることを示している。
 ゆえに、死者の少安を願い、招魂碑を建て、後世に伝える。
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碑は案内板にあるように、大町桂月の鹿野山二十咏「臺ノ畑高く聳ゆる招魂碑面する方は皇城にして」と詠まれ、皇城(皇居)すなわちかつての江戸城に向けて建っています。
臺ノ畑は、碑の在る場所の土地の名前(旧君津郡秋元村鹿野山字臺畑)でしょうか。

富津岬と富士山 鹿野山九十九谷

左写真は碑が向かう方角を、分かりやすいようにマザー牧場(富津市田倉)前の鬼泪山(きなだやま。江戸時代は佐貫藩領)辺から撮影。
左手に富士山、右手に富津岬とその向こうに東京湾を挟んで江戸城跡があるわけです。
天気の良い日は浦賀水道や請西藩主・藩士達が渡った箱根の役の地までぐるりと見渡せます。
碑の背は鹿野山の南面、房総の山々が望める九十九谷(くじゅうくたに)に向いています。右写真は九十九谷展望公園で撮影。

招魂之碑所在地:千葉県君津市鹿野山