▲平等院と浅野作造頼房供養墓
平等院(びょうどういん)の墓は英霊供養として大正時代に作られた。裏には「慶応四年辰年六月四日」
慶応4年(1868)4月、戊辰の役の際に江戸を脱走した撒兵隊(さっぺい・さんぺいたい)が徳川義軍を名乗り、久留里・大多喜・請西藩等の上総諸藩に協力を要請するため真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)真如寺(しんにょじ)に駐屯していたが、その後本隊が市川~姉ヶ崎方面で官軍に破れて四散し、5月8日に再び木更津に入る。
直ちに岡山・津藩の官軍が真如寺に迫ったため残兵は遁走し、官軍は寺を焼いて久留里を経て、佐貫に向かっていた薩摩・大村・藤堂藩らと合流し江戸へ引き上げた。
その頃、25歳前後の武士浅野作造頼房が吾妻村(あづま。木更津市吾妻)の南の名主鈴木市郎右衛門のもとを訪れていた。
浅野はこの徳川恩顧の地である木更津を中心に同志を募って義軍の旗をあげ、箱根へ出陣した請西藩主林忠崇らを助け官軍と戦うため、豪農の市郎右衛門に援助を求めたのだ。
浅野達は散り散りになった残兵を集め、成就寺に居た染谷勘八郎(そめやかんはちろう)、紺屋(こんや)島屋大河内四郎兄弟ら村人から義勇兵を募り、貫義隊(かんぎたい)を名乗った。
※逆に大河内四郎兄弟らは貫義隊の襲撃から村を防衛したという伝えもある
5月16日の夜に、貫義隊は小高い天然要害の地請西村(木更津市請西)祥雲山にある祥雲寺(しょううんじ)を新政府側として警護していた飯野藩兵を急襲。死傷者7名を出したという。
17日の夜には一晩一両で雇った傭兵を加えた30余名で、新政府に城を明け渡していた佐貫藩の城(さぬき。富津市佐貫)の裏手の牛蒡谷(ごぼうやつ)に潜んだ。横穴が多い絶壁で死角となり、城の地形に詳しく官軍に不満を持つ佐貫の者が手引きしたともされる。
18日未明、佐貫城の正面に回り、厩と役人宿舎を放火。攻め入って警護していた下総国佐倉藩兵2名を討った。他30名余りを負傷させ軍馬に損害を与えたという。
佐倉藩の砲兵隊が発砲すると撤退し再び木更津へ戻った。
22日に佐倉藩(さくら。佐倉市)が木更津村包囲のため国許から兵500名(250名とも)が海路で南下。
これを江川の漁師が浅野へ事前に知らせ、前日夜半から貫義隊は久留里街道から横田村(袖ヶ浦市横田)まで移動し、交戦を回避できた。
義軍は横田の村人に温かく受け入れられ、小坪(おつぼ)の泉瀧寺に陣を置いた。
▲横田神社。北側から拝殿(焼かれたため明治4年に再建)を撮影。
真言宗智山派泉瀧寺は妙見様(現横田神社)の北側にあった。貫義隊は泉瀧寺のお堂とこの妙見堂を宿所としたようだ。
6月2日、木更津村北片町の船宿三河屋の仁呑喜平次が前橋藩(群馬県前橋市。富津陣屋を守備)藩主松平大和守克(なおかつ。川越藩から移封)の依頼で間諜として義軍を捜索し、富津陣屋へ報告に戻ろうとした際に喜平次を捕縛。
3日午前、喜平次が捕われたことを知った松平大和守は選擇寺に陣を置き三本松陣屋(君津市大戸見。川越藩の陣屋)からも富津陣屋と共に泉瀧寺を挟み込むように兵を出させた。本隊は夜半に北から迂回。併せて北・東西の3方からの包囲となる。
4日の朝に村人から官軍の急襲を知らされた貫義隊は寺の門を出て迎えうつ。
小坪に進入した官軍は西から泉瀧寺の正面に向けて銃で撃ちかかった。刀や槍が武器の貫義隊は、樹木の陰で銃撃をやり過ごしながら歩兵の接近を待った。
ついに泉瀧寺の西の観音堂で白兵戦となったが、官軍は剣の腕の立つ浅野を討つ策として熟練の猟師を雇っていた。
浅野は猟師七右衛門(現君津市小糸大谷に住み1日5両で雇われたともいう)に火縄銃で狙撃され、下半身に弾を受けた。
最期には諸説あるが、浅野が撃たれると義軍は総崩れとなった。
▲浅野の戦死地辺りと西から見た主戦場の風景 【5/9追記】付近の方に声をかけて観音堂跡の場所に通らせて貰いました
浅野は瘤のある大銀杏の近辺で撃たれたと伝わっている。この瘤のあるひときわ大きな切り株辺りか。
戦場となった観音像は村人が火の中から持ち運んで保護し、戦が終わると観音堂付近に戦死者が多く転がっていたと、後に住人が語っている。
浅野の首級は見せしめのため吾妻村へ持ち去られ、残された胴は村人が東の地蔵堂へ運んで手厚く埋葬し墓を建てた。
やがて安房上総知県事(房・総・常州の旧幕府領を管轄)となった監察の柴山典(しばやまてん。文平。久留米藩士)が横田での経緯を知り、役人の佐藤信照に命じて村人が建てた義軍の墓を打ち壊させ、浅野の墓石を小櫃川に投げ入れた。
間諜喜平次は戦のさなかに義軍に殺されおり、浅野の墓に替えて義商の墓を建てた。
▲吾妻神社と東側の小道
かつて吾妻(あづま)神社の東の道端に小さなお堂があり、そこに釘で浅野の首級が晒された。
義軍贔屓であった村人達は浅野の死を哀れみ、小堂の前の茂みに首を埋めて、小さな石を立ててささやかに供養をし、やがてはやり神「浅野さま」として信仰された。
その後、「浅野さま」は今の浅野の祠に移され、大正時代には、慰霊のため平等院に供養墓が建てられた。戒名は「頼房院殿諦心義生居士」と刻まれている。
▲昭和11年の木更津鳥瞰図の吾妻神社脇「浅野神社」と東巖寺「喜平治之墓」 ※観光パネルより
浅野は背は高くなく恰幅が良いが、高飛びのように槍を突いて選擇寺の屋根に上がれるほど凄まじい脚力を持ち、剣と槍と乗馬の達人で村人達に心服されていたという。
・真言宗豊山派 海上山平等院(旧東光院) 所在地:千葉県木更津市吾妻1-1-14
・横田神社 所在地:千葉県袖ヶ浦市横田2470
・吾妻神社 所在地:木更津市吾妻2-7-55
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浅野作造の首は「浅野さま」に、胴は横田に埋まっていますが、横田では墓石を捨てられたために浅野の墓標は無く、この記事を書いている現在吾妻の浅野の祠は倒壊しています。
人任せで心苦しくも早く祠が修繕されることを願っています。
以下、補足として。
▲現在の横田小路(しょうじ)にあるこの「観音堂」は、戦となった観音堂の場所ではありません。
※上総関連の記事全体の参考資料として郷土史料リストを後でまとめる予定です。