伝習隊と新撰組

慶応4年(1868)4月から旧幕府軍伝習隊(でんしゅうたい)と共に戦った新撰組の戦歴を
まずは会津戦まで追います  土方歳三 ◆斎藤一
※説が多様につき、改めてまとめるため一時中断しています

 

・3/12 甲州で甲陽鎮撫隊敗走(3/6)後、新撰組伍長粂部正親に負傷隊士二十数名を会津に直行させる
・4/3 流山で近藤勇投降。土方歳三は夜に隊長付相馬主計を連れ江戸へ
◆4/4 斎藤一・安富才助ら新撰組本隊百数十名は土方歳三の指示で流山から会津へ向かう(利根川を船で下り銚子港から常陸へ渡り猪苗代へ)
★4/5 土方、江戸に登城し勝海舟・大久保一翁を訪ね近藤解放を嘆願。相馬に勝の新書を届けさせる

★4/11 土方、島田魁・中島登・沢忠助ら残存隊士6名と下総鴻の台(千葉県市川市国府台)で旧歩兵奉行大鳥圭介総督の旧幕府軍2千余の兵に合流
★4/12 土方は元会津藩士の秋月登之助率いる先鋒部隊(伝習隊第一大隊・砲兵隊・回天隊・桑名士官隊等1000人)参謀として北関東に出陣、下妻陣屋・下館城を降伏させ宇都宮城を目指す。後に永倉新八「靖共隊」(3/11離脱し結成)も大鳥が統括し日光を目指す後軍(中軍に伝習第二大隊400人、後軍に七聯隊・御料兵・別伝習隊・土工兵等600人)に編入

★4/19 秋月・土方ら宇都宮城を奪取するが4/23に新政府軍に奪還され土方と秋月は負傷し今市へ移動。翌日会津へ向かう
・4/25 近藤、板橋で斬首
★26日会津領内の田島陣屋に到着し秋月と別れる。
★4/29 土方は清水屋旅館に入り、会津城下で新撰組約130名余集結

◆閏4/5 登城。松平容保、山口次郎(二郎、斎藤一。負傷した土方に代わる隊長)に白河出撃を命じる
◆閏4/22 山口率いる新撰組130人余が白河小峰城下に着き白坂口関門に配属
◆閏4/25 新撰組ら東軍が新政府軍による小峰城攻撃を撃退
◆閏4/29 新撰組、脇本陣柳屋に宿陣
◆5/1 小峰城落城、新撰組敗走。その後も奪還戦が続く

・5/2 会津軍・伝習隊・飯野藩兵ら大田原城襲撃
・5/15 上野彰義隊へ新政府軍が総攻撃。新撰組助勤原田左之助戦死
・5/30 沖田総司病死
★土方、7月頃まで天寧の湯(東山温泉)で湯治。その間に愛宕神社へ戦傷祈願、天寧寺に近藤勇の墓を建てる
・6/24 一時戦線復帰するも病の秋月に対し歩兵達の不満が起きたとして、元幕府若年寄並陸軍奉行の竹中重固(しげかた。7/1より輪王寺宮を奉じる奥羽越列藩同盟勢の主力)が伝習隊第一大隊総督となる。

◆7/1 山口、飯野藩兵と出撃するが敗れ撤退
・7/10 竹中の後任として土方が伝習隊第一大隊総督、元七聯隊で書記の大嶋寅雄が分隊長に任命される
・8/17 土方部隊、大鳥圭介らと合流し猪苗代城下に移動(土方は同行せず)
◆8/21 母成峠の戦い、母成口配置の諸兵と伝習隊・新撰組およそ800人が守備するも大敗
★◆8/22 土方ら鶴ヶ城に戦況報告。松平容保は救援のため残存兵を率いて滝沢本陣に入る
★◆8/23 戸ノ口原の戦い後白虎隊士が飯盛山で自刃新政府軍が鶴ヶ城包囲。大塩宿に土方ら新撰組・桑名藩・旧幕府軍集結。
★8/25 土方、会津救援を求めるため米沢庄内へ

◆9/2 山口ら、長岡藩兵と共に陣ヶ峰峠(喜多方市)付近で戦闘
★9/3 庄内藩が新政府軍に恭順したため、土方ら仙台へ入る
◆9/4 山口ら、木曾(喜多方市)で戦闘。旧幕府軍衝鋒隊と合流すべく如来堂に向かう
◆9/5 山口率いる新撰組一隊、如来堂で新政府軍の大軍に襲撃される

その後9/8大鳥率いる伝習隊・衝鋒隊ら旧幕府は小田付代官所(喜多方市)で会津からの退却を決定。9/22会津藩降伏、以降も山口は一ノ瀬伝八・藤田五郎と名を変え旧会津藩士達と共に歩む。
仙台藩が新政府に恭順したため土方らは榎本武揚の軍艦で仙台より蝦夷地箱館に渡航、翌明治2年(1869)5/11箱館戦争で土方戦死。5/18五稜郭降伏。

いずれ仙台以降も制作したいと思います。
※脱藩士も参考図書の通りに藩士で統一しています

各記事参考図書(一般に流通している書籍)
・『歴史REAL新選組最後の戦士 土方歳三と斎藤一
・『全国版 幕末維新人物事典
・穂積忠『落城―戊辰戦争の勝敗を分けた白河口の戦い
・『カメラが撮らえた会津戊辰戦争
・野口武彦『幕府歩兵隊
・星亮一『奥羽越列藩同盟』『大鳥圭介
・『会津藩と新選組
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・『会津戊辰戦史
・荒井忠秋『戊辰の墓標』『続・戊辰の墓標』
・金子誠三『新撰組 戊辰戦争奥州白河口』
他、日野の記事に同じ
※古書等は郷土資料と共に別途リスト化する予定です