「日墨友好発祥の地」御宿

約400年前の1609年9月30日新スペイン船サンフランシスコ号海難者救出をきっかけに現在の御宿は「日墨友好発祥の地」と呼ばれている(※墨西哥=メキシコ)

日西墨国交通発祥記念碑 日西墨国交通発祥記念碑

■昭和3年(1928)10月1日岩和田轟台に日西墨三国交通発祥記念之碑建立
にっせいぼくさんごくこうつうはっしょうきねんのひ。
高さ17.5m鉄筋コンクリート造りで白鳳石(はくほうせき)が張られた白亜の塔。通称メキシコ塔。
敷地の轟台は寛永年間に黒船が浦賀に来航した際に、幕府の命令で大多喜城主大河内松平領主が砲台を設置した「猫のつら」という場所。
報知新聞記者藤平権一郎が建設を進言し、森矗昶(もりのぶてる。夷隅郡出身の衆議院議員)らが発起人となった。

大東亜戦争では標的になるとして黒く塗りつぶされたが、戦後の昭和33年(1958)11月27日に再び白い姿に改修し、スペイン大使・メキシコ副領事の参列で竣工式が行われた。
昭和63年1月に日西墨国交通発祥記念碑が「房総の魅力500選」に選定。

日西墨国交通発祥記念碑題字 日西墨国交通発祥記念碑 日西墨国交通発祥記念碑建立由来
▲塔前面には青銅製の徳川公爵の題字、側面にスペイン国王の御親筆、メキシコ大統領メッセージ

日西墨国交通発祥記念碑日本語案内板 日西墨国交通発祥記念碑英語とスペイン語案内板
案内板:千葉県指定重要史跡 ドン・ロドリコ上陸の地
日(日本)・西(西班牙/スペイン)・墨(墨西哥/メキシコ)国交通発祥記念碑由来記
1609年(慶長14年)スペイン領フィリピン総監ドン・ロドリゴを乗せた帆船サンフランシスコ号はフィリピンからメキシコに向け航海中台風に遭遇し漂流、この岩和田海岸に座礁した。秋9月30日未明のことである。
乗組員373人中56人は溺死、残る317人は岩和田村民により救出された。この時海女たちは、飢えと寒さと不安にうちふるえる異国の遭難者たちを、素肌で暖め蘇生させたと伝えられている。大多喜城主本多忠朝の判断により遭難者たちは37日間岩和田大宮寺に滞在、村民の手厚い保護を受けた後、江戸城に至り将軍秀忠に謁し、更に駿府に至り家康に謁し、翌1611年聘礼使ビスカイーノの来日、そして1613年支倉常長のメキシコ。スペイン・ローマ特派など、一連の史実はすべてこの岩和田村民の心意気に発するものである。
我らの祖先の美挙を後世に永く伝えるため、また永遠なる国際親交を祈念して、昭和3年10月1日森矗昶、浅野重雄等発起人となり、この日西墨交通発祥記念碑が建立された。

 

■昭和53年(1978)8月7日国際姉妹都市会議で御宿町とアカプルコ市、大多喜町とクエルナバカ市との間に姉妹都市協定が結ばれる。
ロペス・メキシコ大統領来訪記念碑 ロペス通り記念碑

▲「ロペス・メキシコ大統領来訪記念碑」「ロペス通り記念碑
昭和53年11月1日。国賓として来日されたホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領は、この日、日西墨国交通発祥の地である、我が御宿町を訪問された・大統領は、若者たちのかつぐ、みこしに乗り、日の丸の扇を高くかざし「エルマーノ!」(兄弟よ!)えお連呼し、町民の歓呼に応えた。
ロペス大統領の来町を記念して平成8年(1996)6月御宿駅前通りを「ロペス通り」と名づけた。

メキシコ塔抱擁の像 メキシコ塔抱擁の像由来 メキシコ塔抱擁の像の額
▲メキシコ塔の抱擁の像
平成21年(2009)に日本、翌年メキシコで400周年の記念行事が行われ、メキシコ国から人類愛の象徴としてブロンズ像の「抱擁」が寄贈された。

御宿町は平成22年(2010)9月30日に「日墨友好の絆記念日」の条例を制定。
現在も御宿では昭和54年から開催された大多喜~御宿間約19kmのロドリゴ駅伝は毎年2月に行われており、日墨間で友好交流が続いている。

月の砂漠像 御宿の海網代湾 御宿の海網代湾の岩和田漁港
▲月の砂漠像で賑わう御宿海岸と、メキシコ塔から見える網代湾・岩和田漁港
メキシコ塔(メキシコ公園)所在地:千葉県夷隅郡御宿町岩和田702

 

大多喜メキシコ通り メキシコ通りの由来

大多喜のメキシコ通り(メキシコ大統領来町記念)
ロペス・メキシコ大統領の大多喜町訪問を記念して大多喜字三の丸から総南博物館(大多喜城)までの道を「メキシコ通り」と命名した。
所在地:千葉県夷隅郡大多喜町大多喜