史蹟・伝説」カテゴリーアーカイブ

安房・上総(千葉県南部)に残る古墳や史跡、伝説の地など

人見山青蓮寺「白井為吉碑」

 

白井為吉碑
吁嗟吾友白井為吉君逝矣君明治十二年五月生於南総人見父名元吉母平野
氏家世業農漁資性孝義郷党挙稱其篤行年十七喪母其疾也憂慮兢〃興兄太
喜蔵戮力慰勞無不盡及瞑哭泣哀戚至廃寝食既而父亦嬰患湯薬無験殆不省
人事於是家資一空君克護父助兄百難不撓日夜勤勉家道復興焉三十二年十
二月應徴入横須賀海兵團為五等水兵累進二等射手先是入團令下也奮然告
兄曰阿爺之事専委之君弟自今舎一身以答  聖恩身分手出矣三十三年六
月團匪之変従軍南清遠溯揚子江警戒沿岸時炎暑如燬艱不可言君志氣凛〃
屡率先隊伍冐危難不為少屈居六閲月而旋因功賜金三十圓無幾罹病入横須
賀海軍病院數旬遂歿寔三十五年六月二十一日也君臨終従容謂衆曰我幸生
聖世苟入軍籍期擲微謳並寸功而今也如乢鳴呼天矣夫聞者為流涕其義勇之
氣至死不衰享年二十有四歸埀於故園薬師堂先塋之次頃者郷人胥議欲樹石
傅不朽以余与君家親属余銘之銘曰
入則孝純 出則義烈 孝通鬼神 義貫金鐵 窮厄弗憂 艱難弗折
皎〃承誠 凛々厥節 獅山巍〃 千秋不缺 絲水溶〃 萬古不竭
精魂歸天 遺徳明徹 譽与山髙 名与水潔

海軍中將正二位勲一等子爵榎本武揚篆額   秋元源五郎謹撰
時明治三十六年六月二十一日     正四位勲三等巖谷修書
                      白井峯三郎刻

白井為吉の尽忠碑。
明治12年(1879)5月、周淮郡人見村で白井元吉の子として為吉が生まれる。
明治27年(1894)日清戦争勃発。富国強兵に伴い戦後も海軍の軍拡が促される。
17歳の頃に母(平野家から嫁ぐ)が病死。父もまた重病を患い家は傾くが兄太喜蔵と共に父を支えた。
明治32年(1899)12月に兵徴募に応じ、横須賀海兵団に入営し五等水兵となる。後に二等射手まで昇進。
明治33年(1900)義和団事件の影響により清国各地で緊張が高まる。
6月には護衛のため日本からも海兵団が派遣され、為吉も従軍し、酷暑の中で揚子江湾岸警備に就いた。
ほどなく病に倒れ横須賀海軍病院に暫く入院することとなる。
明治35年(1902)6月21日臨終。享年24。
翌年白井為吉碑が建立された。

防衛省史料によると32年度には千葉県出身者は455名にのぼる多くの志願者があった。
一方で『海軍省医務局報告』で確認できる横海団内の罹患病死者数は少なくない。
海軍医事報告撮要』によると明治35年の1月末から2月にかけ横須賀海兵団でインフルエンザが流行している。

 

篆額は明治22年建立小志駒「諏訪神社碑」明治30年建立鹿野山「招魂之碑」等と同じ榎本武揚
巖谷修は水口藩(滋賀県甲賀市)侍医の家に生まれ、維新後は明治政府の官僚となる。書家として名高い。
 

■人見山青蓮寺
人見山の麓、郷社人見神社の別当職。本尊阿弥陀如来。
真言宗豊山派。四国八十八ケ所摸上総国札順巡礼二十四番(東寺)。
明治まで山城国醍醐派報恩院の末寺であった。
嘉祥元年(848)宥恵上人が開祖とされる。
天文年間(1532~1555)の戦火で全焼。
万治年間(1658~1660)僧宥永伽藍を再建。
江戸時代に朱印寺領五石を拝領。
その後も幾度か火災や山崩れの災難に遭うが再建され檀家関係者の尽力で再建改修され今に至る。

青蓮寺所在地:千葉県君津市人見1-11-7

小志駒「諏訪神社碑」榎本武揚篆額

 

諏訪神社碑 従二位勲一等子爵榎本武揚篆額
上總峰上郷諏訪神社祭建御名方命嘉應二年所創立
也治承四年源頼朝敗於石橋山航自真鶴崎遁安房尋
至上總途過此社使別當快源祈興復快源懇祷曰若使
源氏再興則生水以兆之一夜泉忽湧頼朝感喜名曰源
氏水乃檄四方八州豪族響應遂成覇業因献祀田弐段
餘歩風霜経久社宇頽壊天文九年里見義弘重修之雕
桶飛甍煥然照眼十一年十一月里見氏与北条之兵戦
于三船山時掬此水以祷戦捷獲勝乃建華表納金幣明
治廿二年祠官毛利元継恐霊蹟将湮滅欲建碑伝後世
謀之郷豪諸氏争損貲属予記之乃繋以詞曰
檻泉觱沸 地顕其竒 戎馬奔騰 人開覇基
油油胦田 以供馨栥 巍巍華表 以致鴻釐
威霊千載 建斯豊碑
明治廿二年十一月
              従七位 重城保撰
          従四位勲四等 金井之恭書
              白井半右エ衛門刻

建碑時の榎本武揚は文部大臣。戊辰年に海軍副総裁として旧幕府艦隊を率いて館山沖に停泊請西藩林忠崇らの渡航を支援。東北、蝦夷へ渡って官軍に抗い、箱館の降伏後は明治政府に出仕し中核をなした。

重城保は当時は望陀・周准・天羽郡長。高柳(現木更津市)の名主で維新後は行政官や実業家として土木・教育等多方面で郷里の発展に尽くした。重城家の祖先は里見氏一族であったという。

金井之恭は明治の三筆に数えられる書家で、当時は元老院議官。上州の画家金井烏洲の子で勤皇家であり、戊辰戦争では新政府側につき新田官軍の重鎮として転戦した。

白井半右衛門は志駒村の名主で、惣代人。

碑文中の祠官毛利元継は隣に建つ「毛利元継碑」に功績が刻まれている。

 
 

■郷社諏訪神社
 

社伝では嘉応2年(1170)11月5日創建。
治承4年(1180)源頼朝が別当普賢寺快源に戦勝祈願の祈祷させると清泉が湧き、地元では源氏水と呼ばれている。後に頼朝は神田寄付をした。
永享3年(1431)太夫五郎が薬師三尊を寄付し御神体として神殿に安置。
(後に普賢寺所蔵。銘大貫峯上師子馬薬師堂敬白法眼永亨三年庚戌八月廿五日敬白法眼旦那大夫五山作者道観
天文8年9月3日真里谷入道全芳が鰐口一個寄付。
天文9年里見義弘(里見系図によると若年)が大旦那となり7年社殿落成。
永禄10年北条氏との三船山合戦に際し里見義弘が必勝祈願。
天保8年社殿・拝殿を修繕。
万延元年(1860)本殿造設。

明治の神仏分離で諏訪大明神から諏訪神社に神号を改め普賢寺別当職をやめ、御神体を普普賢寺へ移す。
明治6年(1873)2月に郷社となる。
明治22年(1889)諏訪神社碑建立。
 

普賢寺
新義真言宗智山派真福寺末。榮源が開基という。行基作とされる薬師如来(不動明王とも)を安置。
里見義弘の家臣加藤有補軒が記したとされる『智明山縁起』は富津市市指定有形文化財で、諏訪神社碑の碑文と同様の内容が認められる。
 

 

毛利元継碑
昭和6年建立の諏訪神社祠官の毛利元継の公徳碑。
社寺兵事課長の広橋真光伯爵の題、和田和の書、八剱神社社司の八剱功の撰。
 
社前の馬場の両側の松林は「諏訪の森」という。
正面の氷室山は、文明年間に里見義実が真里谷道環を環城を攻めた際に本陣としたとされる。
山頂の雨乞塚の近くにかつて源頼朝が母衣を掛けて「我軍利あらば永く枯死すること莫れ」と願掛けをした「母衣懸松」があり巨木となったが慶応年中に落雷により倒れてしまったという。(『總國誌』)

諏訪神社所在地:千葉県富津市小志駒(こじこま)字南188

【不二心流四代目】大河内正道と戊辰戦争義勇隊


大河内正道藤原安吉(おおこうちまさみち)
天保14年(1843)12月25日に上総国望陀郡木更津村で大河内縫殿三郎の三男として生まれ、阿三郎と名付けられる。
嘉永3年(1850)正月には8歳にして父や兄総三郎から不二心流の剣を学んでいた。
安政2年(1855)6月に13歳江戸にて神道無念流斉藤弥九郎に入門。
安政2年(1859)2月17歳で去り、3月に木更津村と西小笹村の大河内道場で初めて門人を取り立てて剣を教える。その後関東を遊歴し更に剣の腕を磨いた。
慶応2年(1866)2月に甲州甲府郭内旗本菅沼米吉邸(山梨県甲府市)で道場を開き、江戸に随行もしたが、病で辞して木更津で静養する。

 

戊辰戦争、撒兵隊に協力し義勇隊を結成

慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦が勃発し德川慶喜が恭順の意を示すが、処遇に抗おうとする佐幕派の者達は方方で協力を求め、2月下旬に幕府撒兵(さんぺい)頭の福田八郎右衛門道直の使者が大河内家を訪ねてきた。
大河内兄弟は徳川のために立ち上がりたいと希望するが、縫殿三郎は79歳の老齢であり事態を静観した。
3月に福田の使者が再び訪れたのを機に、阿三郎は覚悟を決め、妻を実家に帰した。
老父縫殿三郎が詠んだ「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」を以って決別し、江戸へ福田との面会に発つ。

4月9日に江戸を脱走した撒兵隊(さんぺいたい。さっぺいたいと呼ばれていた)が、寒川(千葉市)を経て木更津村に入った。
──房総には徳川恩顧の大名や旗本が多く、大多喜藩主大河内正質(島屋大河内家とは無関係)は老中格で鳥羽伏見の戦いの幕府軍総督を務めた。飯野藩は会津藩松平家の親族筋で藩主保科正益は第二次長州征伐の石州総督を務め德川慶喜の助命嘆願所にも連名している。
彰義隊が江戸に在り、歩兵奉行大鳥圭介ら伝習隊・新撰組が下総に、榎本武揚の艦隊は安房館山湾に向かっている。その間にあって江戸への海路となり阿三郎のように熱意のある剣士もいる上総方面を目指したのであろう。
実際は時勢に合わせて大多喜・飯野藩をはじめ殆どの藩主が恭順の意思を示していたが、隠居中の先代藩主や土地の者にとって幕府の影響は薄れていなかった。

撒兵隊は「徳川義軍府」を名乗り選擇寺に本営を置いたとされ、「義」の字を染めた小切れを肩につけた隊士達が付近に分宿し、福田は島屋を宿所とした。
撒兵隊の後に木更津へ上陸した人見勝太郎伊庭八郎ら遊撃隊も島屋の側の成就寺に陣営を設けたという。大河内一郎(島屋当主幸左衛門。3年前に死去している)の息子大河内三千太郎は過去に江戸で伊庭道場に入門していたとされ知己であったのだろう。

義勇隊頭に選抜された阿三郎は島屋門を中心に参戦意思がある者を義勇兵として纏め、八劔八幡神社の拝殿を義勇隊の陣営とした。
境内には神主の八劔氏が大河内家に提供した町道場があり、当時は三千太郎と神官八劔勝秀の息子勝壽が剣を教えていた。若い三千太郎も義勇隊頭取として島屋門の者たちを率いた。

 

五井戦争敗退

4月下旬に撒兵隊は本営を砦に適した山間の真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)天寧山真如寺(しんにょじ)に移し福田が第四・第五大隊を率いて移動。第一隊長の江原鋳三郎は国府台進出を作戦とし、第一~第三大隊を北上させた。そして新政府軍は幕府脱走兵の掃討のため総州へ兵を向けた。
閏4月3日に市川・船橋方面で撒兵隊第一・第ニ大隊が敗退し、薩摩・佐土原・備前・大村・津・長州各藩兵が北姉崎に北上中の第三大隊を討つため南下する。
7日早朝、五井(市原市)根山(ねやま)で再集結した撒兵隊他義軍が養老川を背に新政府軍を迎え撃つも11時過ぎには敗退。

養老川を渡り真里谷へ向け押し寄せる新政府軍を食い止めんとし、中村一心斎の薫陶のもと幼い頃から剣の腕を磨いてきた大河内一族からは少年剣士も義勇隊に加わり19人斬りで敵味方を圧巻させた勇猛さが伝わっている。
…木更津の里に年頃剣術の道場を開き数夛門弟を集めて指南を業とし大河内某といふ者父子あり、閏四月七日五位、姉ヶ﨑辺の戦争中に門弟八十人を引連 横合より宦軍へ打て出て、花々しく血戦し、子某は歯纔(齢わず)か十五才なりしか、眼前敵兵十九人を斬伏せて、其身も討死し、父某も数十人と戦ひて、終に討蓮(れ)たり、此一手の目覚しき働き、敵も味方も皆肝をつぶし、只茫然と静まり…」(『日〃新聞』慶応四年「閏四月」記事。新聞なので誇張はあろう)

しかし剣の腕では新政府軍の砲撃に敵わず、退きながら抗戦または撤退し散り散りになった。
参戦した大河原一門は戦死した者、郷里の小笹村に身を寄せる者、箱館まで従軍する者と様々であった。

阿三郎は危機を掻い潜って真里谷村に帰還するが、馬上で敵に囲まれていた福田を見失ってしまった。
阿三郎は已む無く300人程で決死隊を結成し、新政府軍が捜索を続ける木更津村方面に押し出て江戸に渡る。

江戸に至ると福田も出府していた。
8月上旬、福田の出廷に阿三郎も同道し、尋問の上で放免となった。

 

結城藩成東陣屋の撃剣教授となる

明治2年(1869)6月に阿三郎は両親を訪ねて成東村に逗留した後、南房総へ発った。
その後、結城藩の水野日向守により成東陣屋へ撃剣教授として招致の知らせが届き承諾。
>※常陸国行方(なめがた)郡大生原村(おうはら。現茨城県潮来市)より成東に移住したともされる元倡寺の興譲館道場の師範役となり、弟の四郎信明と共に指導。
報国社を結成し社長として維新の廃刀令で衰退していく撃剣の再興に努め、直心影流榊原健吉らと撃剣会を開催した。明治12年(1879)8月25日上野公園で催された明治天皇の上野行幸における槍剣天覧試合に一族の大河内三千太郎が剣術で出場している。

 

富津村で旧忍藩士田代家に養子に入る

明治13年(1880)陸軍工兵第一方面(東日本の軍用建築を担当)派出所出仕。
周准郡富津村で阿三郎の親族の旧忍藩士田代兵七郎氏方の養子となり、苗字が田代となった。
明治14年(1881)9月6日に兄の宗三(総三郎)が亡くなり嫡流が途絶えた(宗三の実娘が入婿と離縁し子がなく、養子家族は紺屋を継ぐ)ため、阿三郎が不二心流4世を継承

明治15年(1882)11月3日元洲堡塁砲台建築所勤務中に成東で弟の四郎が37歳の若さで亡くなり、道場維持のため辞職を申し出るが聞き入れられなかった。

富津元洲堡塁砲台跡 富津元洲堡塁砲台跡通気口 富津元洲堡塁砲台跡

富津元洲堡塁砲台跡(富津公園「中の島」)と地下掩蔽部
砲座6門を東西に配置し両端に観測所を設けたという。大正4年除籍。中の島の他に富津岬の各所に現存するコンクリート製の観測所、警戒哨、隠顕式銃塔等はほぼ大正11年設置の第一陸軍富津射場(試験場)のもの。

 

復籍し正道と名を改め町会議員、成東中学校の撃剣教師となる

明治16年(1883)初夏に許可を得て成東へ帰省。自宅敷地内に道場を新築する。
明治17年(1884)原籍に復帰。田代家は息子の精一郎を相続人とした。
明治21年(1888)名前を正道と改める
明治22年(1889)4月25日成東町町会議員となる(明治25年4月24日退任)
明治24年(1891)10月望陀郡根形村飽富神社に振武社が献じた不二心流奉額に連名。
明治26年(1891)12月26日正道の練武場で一本町物産比較会を開く。
明治31年(1898)4月25日成東町町会議員となる(17点で補欠議員当選。明治40年4月24日まで)
6月9日午後8時20分に正道の宅地内の椎名三乕の保有地から発火し近隣に類焼、11時30分に鎮火した。
明治33年(1900)2月6日に佐倉中学校成東分校教諭田中玄黄が出張事務所開設の相談をし、正道の宅地から借受けて仮事務所を開始(『田中哲三家文書』※6月に法宣寺に移る
4月佐倉中学校成東分校(翌年成東中学校に改称。現在の県立成東高等学校)が開校し正道が学事世話掛(学務委員)となる。撃剣教師として剣を教授した。
大正2年(1913)5月に病を発症。
大正4年(1915)10月に中学校教師を辞職。
大正12年(1923)3月25日に東京府目黒町千番地にある嫡子の田代精一郎宅で没。享年81。
麻布山善福寺に葬る。超證院襗正道居士。

麻布山善福寺勅使門 麻布山善福寺本堂

麻布山善福寺勅使門と本堂
所在地:東京都港区元麻布1丁目6-21

* * *
※善福寺は墓地の写真撮影不可。
大河内友蔵(嘉永元年1月10日生。無刀流。剣道教士。総州出身で福島県へ移る)が正道の養子となったという話があるようだが、友蔵とは5歳しか年齢が違わないため誤記か?(調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流三代目】大河内総三郎と寺町「志摩屋」

大河内総三郎藤原幸経
文政7年(1824)下総国匝瑳郡西小笹村縫殿三郎と恵以子(のち喜佐子)の間に生まれ、幼少より中村一心斎に不二心流の剣を学ぶ。
長じて水戸藩剣術指南役宮田助太郎清喜(千葉周作門下。宮田一刀流)に随身し水戸と江戸水戸藩邸を往来した。総三郎は剣の腕を認められ、塾頭となる。
後に常陸国で不二心流の流れを継ぐ大河内家は、ここから繋がりが出来たのかもしれない。

天保13年(1842)9月22日、江戸で結ばれた鶴(砲術家の幕臣桜井啓介の次女)との間に娘豊子が生まれる。
安政2年(1855)上総国木更津村で4月建立の中村一心斎供養塔に連名。

慶応4年(1868)4月に江戸を脱して木更津を本営に定めた幕府撒兵隊南町の島屋大河内道場の者達が義勇隊として協力。
五井・養老川の敗戦後に皆北総へ逃げる中、総三郎は危険な木更津方面へ戻り、大寺(おおてら)村の商家「こうや・彌太べえ」に身を寄せ、乞食などに変装して義軍の支援活動を続けていたという。(宮本栄一郎著『上総義軍』より要約)

戦後は伊藤姓に戻し、伊藤宗三郎(後に宗三/そうぞう)と改名し再び染物屋を始めた。
明治4年(1871)6月24日に縫殿三郎が死去。
9月6日に不二心流正統三世を継承し、祇園村・大寺村に道場を開く。
一族で剣の腕も見込める新太郎を娘婿に迎え道場の継承者として考えていたが、不仲であったらしい。
そこで甥伊太郎の娘うたを養女として婿(福太郎)をとり孫の宗太郎が誕生する。

明治14年(1881)9月6日に木更津で死去。57歳。三晃院幸経日宗居士。
一心斎供養塔のある成就寺にかつては夫妻の墓があり、現在は他所に改葬されている。

 

■木更津寺町の志摩屋(しまや)

昭和4年千葉縣木更津町鳥瞰圖 千葉県木更津市中央の田面通り志摩屋跡付近

▲昭和4年鳥瞰図の田面通り(たもどおり)と志摩屋跡付近 ※鳥瞰図・下の古写真共に観光案内パネルより
鳥瞰図西(右下)の伊藤染店が「志摩屋」、東(左上)の伊藤染店が「紺茂」

木更津村寺町(現木更津市中央)の伊藤宅は明治の寺町家事で類焼してしまったようだ。
その後、昭和初期に総三郎の孫の宗太郎伊藤染店を経営しており当時の『大日本商工録』に流行・染物・印物一式を扱う「志摩屋」として屋号紋(の右上に┓)と共に記載されている。

木更津古写真田面通り紺茂跡地 紺茂跡から志摩屋を望む田面通り

▲昭和中期の田面通りの古写真と、紺茂跡から志摩屋跡に向けて撮影
古写真の若竹筆店(一番左の文具店)の場所に紺茂があった。
現在は平戸理髪店の建物のみ残り中村洋服店は私有地通路、紺茂の場所は月極駐車場になっている。

●大河内孫左衛門
孫左衛門の息子の茂三郎が天保11年(1840)生まれなので総三郎より年上であろう。
一心斎供養塔には総三郎の前(島屋当主幸左衛門の次)に名前が刻まれている。
戊辰の総州騒乱時に孫左衛門も義勇軍として出陣したが、五井・養老川の戦いで銃弾が右眼かすめ、下総に逃れた後に亡くなったという。
茂三郎が新しく出店した紺屋は彼の名前から「紺茂」と呼ばれた。
茂三郎の次男の伊藤竹次郎は海外で医学を研究し伊藤病院の院長となる。
孫の伊藤勇吉も剣道を嗜み日露戦争で戦功をたて大正8年から昭和8年まで木更津町長に連続就任し木更津町の発展に貢献した。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

大河内喜左衛門・幸左衛門の墓所

西小笹村の藍商喜左衛門・木更津村の島屋幸左衛門ら、縫殿三郎の主な親族の墓。

大河内喜左衛門安吉・豊子夫妻の墓
縫殿三郎・幸左衛門(幸芳)の両親。

伊藤喜左衛門安吉と母豊子の墓 大河内喜左衛門の墓

寶林院慈灮覺應居士
宝暦10年(1760)生。弘化4年(1847)10月30日、87歳で没。大河内喜左衛門安吉。
紫玉院悲峰貞應大姉
安政4年(1857)3月23日、88歳で没。豊子。

大河内喜左衛門 大河内喜左衛門明治二年伊藤ト改ム

江戸時代の大河内家の墓に「喜左衛門
近年の伊藤家の墓に「大河内喜左衛門 明治二年伊藤ト改ム
元々伊藤姓であったが領主から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)を名乗る。徳川義軍府(旧幕府脱走軍)に協力した木更津の大河内家について、西小笹村の喜左衛門宅にも佐倉藩の捜索があった。そのような騒動があってか再び伊藤に復姓した。

 

幕末の島屋当主大河内幸左衛門一郎
三千太郎の父親。木更津と、北海道の神居村に墓。

▼木更津の持宝院(現愛染院)
諦厳院大河内一郎の墓 芳讃湛義妙貞信

諦嚴院喜山明鏡居士
文久3年(1863)7月17日没。大河内一郎の墓。
芳讃湛義妙貞信女
慶応2年(1866)3月28日没。家族の女性。三千太郎の実母だろうか。

美香保丸難破後に伊庭八郎が頼ったとされる伊庭軍兵衛の門弟「大河内一郎」は官軍に抗って捕縛されていたとするが、三千太郎の父親の一郎は伊庭が最初に木更津村に上陸した時には既に亡くなっている。
尚、江戸の伊庭道場には三千太郎が入門したと伝わっている。※三千太郎については別記事で後日紹介

▼旭川の神居墓地 【2017年4月追記】
 
諦嚴院喜山明鏡居士 文久三年七月十七日亡」 俗名 大河内一郎
貞壽院夏光妙善大姉 大正二年八月四日亡」 俗名 伊藤くに

墓所の神居墓地(現旭川市神居町神岡)は明治40年に開設された。
大正2年(1913)8月に伊藤くにが亡くなった後、9月に大河内三千太郎が建立。

 

大河内三千太郎の妻なお
大田村の惣名主地曳新兵衛の娘で、17歳の若さで亡くなったとされる。

大河内道太郎の妻なをの墓 大河内道太郎の妻大田村地曳新兵衛娘

栄樹院直心妙了信女
慶応2年(1866)5月9日没。

因みに、地曳新兵衛の家から男子が下烏田村(木更津市下烏田)の諏訪家に養子に入り、その子が慶応4年戊辰の林忠崇の出陣時に病身で付き従い館山で命尽きた請西藩諏訪数馬

 

南町島屋で最後に生きた幸左衛門

最後の木更津島屋当主の幸左衛門墓 伊藤幸左衛門

盛光院三執願應居士
慶応4年(明治元年)8月24日没。家族と思われる伊藤幸左衛門の墓に共に眠る。

木更津村の明王山持宝院(現在愛染院に合併)の過去帳にも記載されている。
殿三郎の弟(幸芳)と家族の墓か。もしくは一郎が亡くなった後で義勇軍を率いて北行してしまった嫡子三千太郎の代りに、急遽幸左衛門の名を継いだ者かもしれない。すると伊庭八郎が頼ろうとし官軍に捕縛された大河内一郎がこの幸左衛門(新しい代の一郎)という見方もできる。

三千太郎は箱館戦争まで従軍し、放免後東京を経て北海道へ渡った。
大河内一郎(三千太郎の父)の後妻きたと、幸左衛門の次男(妻帯し分家)である常盤之助の一家は木更津村寺町に残ったが、明治8年3月の寺町大火で類焼してしまい、北海道へ転居した。

西小笹に移り伊藤に復姓した代の幸左衛門は、明治の合併で共興村となった際に助役となった。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

※現在関係者個人の管理のものもあるため、当ブログへの問合せはご遠慮願います