飯野藩の藩校「明新館」

飯野藩「明新館」跡地 木漏れ日の差す藩校跡地

 江戸時代末期に飯野陣屋内の三の丸、三条塚古墳の前方部から東側くびれ部にかけて飯野藩の藩校「明新館」が設立され、士族の子弟を対象に支那学(漢学)中心に教育した。

 2年を一期として六等級、入学は8歳で(素読生の六等)、12年間就学し19歳(講習生の一等)で卒業。卒業後は専門の学問を研究させる。
 正月17日から12月25日まで開校され、1、6の日が素読生と質問生の休みであるが、6の日は詩文会が催されるので余力のある者は参加しなければならなかった。試験は春・秋2回。

 職員としては学問教授、副教授が置かれたが、明治3年12月改正して学校教長、副教長、助教とした。教長1、副教長3、助教似2人がおり、当時生徒は83人居たという。
 後年下飯野北小学校となった。

 

明新館学則 [●専力(主たる教科書) ▲兼力(副読本) ■余力(準副読本)]

・素読生(漢文を音読する)授業:午前7時~9時
[六等]
●孝経、四経 ■三字経、千字文
[五等]
●詩経、書経、礼記 ■春秋、易経

・質問生(解読し質問する)授業:午前9時~11時
[四等]
●論語、孟子 ▲十八史略、国史略、蒙求 ■孝経、元明史略
[三等]
●左伝、学庸 ▲史記、日本外史、地球略説 ■漢書、作詩、文書規範

・講習生(教師から講習を受ける)
[二等]
●詩経、書経 ▲歴史網鑑、大日本史、瀛寰史略 ■資治通鑑、八大家文、作文
[一等]
●礼記、易経 ▲論衡、貞観政要、万国公法 ■博物新論、武経開宗、令義解

 

 学者の織本東岳(履道)が明治2年に飯野藩主保科侯に招かれて明新館の教授となり、更に校長を務め、同年10月に権大参事(幕藩体制での家老や現在の副知事に相当)に任ぜられた。
 通称は徳輔。明治初年に現在の富津仲町に学塾「始愛舎」開塾。
 小林一茶と交流のあった女流俳人織本花嬌の曾孫にあたる。

 

 また、嘉永年間(1848~1854年)頃から飯野村内に庶民にも読書・習字を教える寺子屋が多く在ったが、明治5年(1872)の学制発布によって廃業となる。

参考図書・サイト
・富津市史編さん委員会『富津市史
・千葉県教育会『千葉県教育史 第1巻』第五節 明新館
・富津市ホームページ http://www.city.futtsu.lg.jp/