飯野藩「浜屋敷」

飯野藩浜屋敷跡 飯野藩浜屋敷案内板

上総国(千葉県)飯野藩は慶安元年(1648)飯野陣屋に藩庁を置いたが、同じ頃に上方所領の代官所を摂津国豊島郡浜村(大阪府豊中市浜)の天竺(てんじく)川東岸に置き、豊島・能勢・河辺・有田の四郡、丹波国天田郡、近江国伊香郡の租を輸した。
土地の者は浜屋敷と呼んだ。
安政年間に発行された飯野藩の藩札(藩が発行する紙幣)の銀札摂津飛地札に「攝州濱村 預り切手・摂州濱屋舗(摂州豊嶋郡濱屋舗・摂刕濱屋舗)引替會所」等、浜屋舗(屋敷)の文字がある。

東西約35間(約64m)、南北約51間(約93m)の長方形の屋敷で、東側中央に門があり、その正面に役所、北に接して牢屋敷もあったとされる。

浜村陣屋推定位置

▲古地図からの浜屋敷推定位置(2013年現在の地図、上が北)
文化7年制作と言われる『小曽根郷六箇村絵図之写』に描かれた「御屋敷(やしき)」と、名神高速道路が通る前の航空写真、今西氏屋敷の史料・絵図と比較すると現在の浜3丁目5番地辺りに重なります(絵図が元なのでおおよその位置です)

浜屋敷の北東の今西屋敷は中世の荘官(目代)屋敷で、春日社の社家出身の目代今西氏36代目である今西春房は明智光秀の娘を娶り、弟の今西春光が山崎の戦いにで明智方についたため豊臣秀吉に所領を没収されてしまったと伝承されています。
その後、浜の領主となった飯野藩保科氏の庇護で復興を許されたそうです。
明治時代に再び廃されましたが府指定史跡として屋敷が残されており、現在も今西家の方が住まわれています。

 

浜屋敷東側 浜屋敷西側中央

▲浜屋敷の東側と、西側中央
左写真の白い老人ホーム建物向かいのアパート付近に浜屋敷正門、天竺川を背にして撮った右写真の小道の先の付近に役所が在ったと思われます。

名神高速道路の高架下 浜屋敷西側

▲浜屋敷跡の碑遠景と天竺川堤
碑の背後の草地には石や溝がありますが、道路や名神高速の高架工事時のものでしょうか。
浜屋敷西沿いにあたる天竺川の堤も高架の高さに積まれた岩が露出しています。

新天竺橋 天竺川

▲新天竺橋と天竺川
古地図には橋は無いですが、この新天竺橋辺りが浜屋敷敷地南西の角であったと思われます。
右の写真は橋から高架に向かって流れを撮影。現在は岸・川底共にコンクリートで固められています。

光久桂治氏の敷地 旧浜村集落の古民家

旧浜村の集落は今も民家がたち並んでいます(右写真)
左写真、地主さんの蔵と奥の家宅は近年建替のようですが、手前二棟の場所には昭和初期から建物が在りました。

 

飯野藩浜屋敷跡案内板
飯野藩上総国飯野二万石保科氏は 大坂夏の陣で天王寺表に功あり
よく大坂定番をつとめ 慶応四年鳥羽伏見の戦いの前の動乱時
藩主正益が京橋口定番であったので 領民も大坂城につとめたという。
慶安年中当地に代官所をおき浜屋敷と称し 藩札を発行し 天田郡一揆を解決する。

所在地:大阪府豊中市浜3丁目

参考図書
・佐野英山『藩札図録
・豊中市史編さん委員会『新修豊中市史』(付録「小曽根郷六箇村絵図之写」)
・豊中市教育委員会『春日大社南郷目代今西氏屋敷総合調査報告書』
・橘田正徳『大阪府指定史跡春日大社南郷目代今西氏屋敷』