▲保科正益と保科節子の墓
髙岳院殿徳雲惟馨大居士
明治二十一年正月二十三日卒
安住院殿深禅愛楽大姉
子爵保科正益室
明治三十八年十二月七日卒
保科正益子爵の妻、節子は伊達宗紀(伊予国宇和島藩10万石の第7代藩主)の娘。宗城の妹にあたる。
とても美しく、絵草紙などにもなったという。
▲保科正昭と保科武子の墓
正益公長男、保科正昭子爵の妻は北白川宮能久親王(奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された輪王寺宮)の第3王女、武子女王(香淳皇后の皇后女官長)
正興氏(光正の子)建立の保科家の墓石や飯野藩士献燈の石灯籠などが並ぶ。
家紋は並九曜。
墓誌に刻まれている保科光正氏は保科正昭子爵の子で大東亜省秘書官を務めた。
昭和20年4月1日午後11時、乗船していた赤十字の救援物資を運び届ける為の阿波丸が台湾海峡で米国潜水艦クイーンフィッシュにより撃沈され(阿波丸事件)戦没。享年31。妻は徳川宗家の德川家正公爵三女、保科順子(ゆきこ)
都立青山霊園サイト:http://www.tokyo-park.or.jp/reien/park/index072.html
東京都港区南青山
保科正益公の墓所:東1-1種ロ12号30