土津神社・保科正之公墳墓

土津神社 土津神社拝殿

土津(はにつ)神社鳥居と拝殿

保科正之(ほしなまさゆき)は徳川二代将軍秀忠の庶子として慶長16年(1611)に生まれ、高遠藩藩主保科正光の養子となり、寛永20年(1643)会津に封ぜられ会津松平家の始祖となった。
四代将軍家綱の後見役として20年間幕政の実権を握ると共に、会津藩の好学・尚武の藩風を築いた名君と言われる。

正之は神道を尊信し、吉川惟足(きっかわこれたる)を師として卜部(うらべ)家神道の奥義を極め、寛文11年(1671)惟足から霊号「土津」を奉られた。
死後は磐梯山の神、磐椅(いわはし)明神を祀った古社・磐椅神社の末社として奉仕しようと、自分を祀るよう遺言を残した。

寛文12年(1672)8月21日正之は見禰山に登り墓地を定め「万代と祝ひ来にけり会津山高天の原にすみかもとめて」と詠み、惟足は「君ここに千歳の後のすみところ二葉の松は雲をしのがん」と詠じた。
江戸に戻ったのち12月18日に死去。享年63歳。

没後にに造営され、延宝3年(1675)8月19日竣工の荘厳華麗な社や回廊は日光東照宮にも比されたという。

戊辰戦争時、慶応4年(1868)8月21日に母成峠の戦いに勝利した西軍が22日に一斉に猪苗代へ進軍する前に、猪苗代城代高橋権太輔は土津神社の御神体を社司桜井豊記に奉持させて鶴ヶ城に走らせ、神社と分城の亀ヶ城に火を放ち退却した。
鶴ヶ城開城後、御神体は斗南藩へ渡り、廃藩置県後は磐椅神社に祀られ、明治13年(1880)7月に再建された。

土津神社回廊 土津神社境内案内板

奉神:土津霊神・保科正之公
相殿客神:高良玉垂大明神(たからたまたれ、武内宿祢)
相殿合祀:三~九代藩主

土津神社奥の院(保科正之の墳墓)、会津若松市の松平家院内御廟と共に会津藩主松平家墓所として国指定史跡。

土津神社霊神の碑 土津霊神の碑案内板

土津靈神之碑
垂加神道を開いた学者の山崎闇斎(あんさい。正之の賓師に迎えられる)が保科正之の事績を綴った大文章は字数1943文字で日本最大。
高さ5.45m、幅1.82m、重量30t余。亀石(台石)は土町、碑石は河東村八田野より採掘。

保科正之公墓地 保科正之公墳墓

保科正之公墳墓
二代藩主正経(まさつね)は正之が埋葬地を指定した遺言通り、墳墓の造営にあたる。
最初南北60間東西50間を整地した中央に小屋を建てて棺を安置し、周囲南北30間東西32間に柵をつくり四方に鳥居を立てて、3月26・27日両日に渡って葬儀をとり行った。
その後棺の所に円墳を築き、頂上に土津神鎮石と刻んだ八角形の鎮石をたてた。

所在地:福島県耶麻郡猪苗代町字見祢山

 

会津磐梯山 土田堰の水

▲猪苗代駅から見た磐梯山と、神社の橋を流れる土田堰(はにたせき)
土津神社は磐梯山南東の麓、今から20万~30万年前の磐梯火山噴火の噴出物が堆積した斜面上に建っており、境内の石造物はほとんど磐梯火山や猫魔火山を形成している安山岩溶岩が使われている。
土田堰用水路は神社落成の翌年、延宝2年(1674)に会津藩家老友松勘十郎氏興が開墾。