▲北町奉行所跡(東京都指定旧跡)案内板
この案内板がある大丸百貨店脇の出口を出てすぐの、丸の内トラストタワー本館の車寄せあたりが北町奉行所の南端です。
北町奉行所は慶長9年(1604)から置かれ、一時期呉服橋の北の常盤橋内に移り、文化9年(1812)に呉服橋内に造営されて幕末まで至ります。
東向きで、屋敷地は間口48間・奥行40間の方形に近く、総敷地は2400余坪ありました。
徳川幕府の職制の一つの江戸町奉行は老中の支配に属し、寺社奉行・勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていました。
定員は2名(元禄15年~享保4年は鍛冶橋内に中町奉行所も設置され3名)で配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄りを統轄して、数奇屋橋内(現有楽町駅前)の南町奉行所と、ここ呉服橋内の北町奉行所の二か所に分かれて月番で交代して府内の町人地の行政・司法警察の職務を担います。
原則として旗本が任命され役料は三千石芙蓉間詰で勘定奉行の上座輩下に与力、同心などがいます。
「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保11年(1840)3月から三年の間、ここ北町奉行に勤務していました。南町奉行は「大岡越前」こと大岡忠相が有名ですね。
▲丸の内トラストタワーの案内板
案内板からトラストタワーガレリアを撮影。30m奥、N館内の西南が奉行所の北東の角で、本館の南端まであたりが北町奉行所の南北の範囲です。西は東京駅構内までが敷地とみられます。
平成12年からの八重洲北口遺跡発掘調査では、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見されました。ここに復元した石組みの溝は、ここから約30mの地点で発見された、屋敷北東角の道路と境を巡る下水溝の一部です。
この遺構は本来3~4段の石積みであったものと思われますが、発見された時は最下段を残すのみでした。溝の角石が切り取ってあるのが、邪気が侵入する鬼門である艮(うしとら:丑寅)の方角を防護するための呪術的な意味を示すものとされています。
この辺りは明治の町名(1872~1929)で東京市麹町区永楽町二丁目で、跡地には地陸軍歩兵営が建ち、その後逓信省厩舎、鉄道員庁舎に移り変わりました。
▲江戸城外堀の石垣
写真右寄りの2段になっている4列の部分が、当時の石垣だそうです。上段中央の細い石の表面に当時の石を割った「矢穴」が見られます。
トラストタワーの歩道はかつての外堀をイメージした石積みが並び、その一部に鍛冶橋門周辺で発見された掘石垣がほぼ当時の形で積直され使用されています。
日本橋川の分流・外濠川の江戸城外堀の東側は寛永13年(1636)に築かれました。
常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残りますが、1948年(昭和23年)に東京駅拡張工事とともに濠は埋めたてられ八重洲中央口前交差点を起点に「外堀通り」になりました。
東京都道405号外濠環状線として、かつての江戸城…現在の皇居をぐるりと囲っています。
所在地:東京都千代田区丸の内一丁目
参考図書
・大熊喜邦『江戸建築叢話』
・東京市『東京市史稿』
・服部喜太郎『日用宝鑑』
・大日本地誌大系刊行会『大日本地誌大系』
他、東京都教育委員会の案内板や報告書に拠る