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史跡探訪や展示会観覧の覚書

本誓寺の林忠旭寛永寺奉納石燈籠

 
▲江東区有形文化財「石造燈籠 林忠旭奉納寛永寺旧蔵

奉献 石燈籠 一基
東叡山
文恭院殿 尊前
天保十二辛丑年 閏正月晦日
従五位下林播磨守源忠旭

天保12年(1841)閏正月に逝去した十一代将軍德川家斉(文恭院)の霊廟に奉納するため、東叡山寛永寺へ諸大名が寄進した葵御紋入り灯籠の一基。
林忠旭は文政2年(1819)従五位下に叙されている。
なお、天保12年の4月に父である貝渕藩初代藩主林忠英若年寄を免職され減封、7月に隠居し忠旭が家督を継いだ。
 
文政10年(1827)に忠英が一橋家の徳川治済(最樹院。家斉実父)尊前の石燈籠を寛永寺に奉献しており、払い下げを経て昭和25年に千葉県木更津市の貝渕日枝神社へ献納された。
この忠旭奉納石燈籠もまた、住職さんの話では檀家の庭に在ったもので、忠英奉納石燈籠と似た経緯で本誓寺に渡ったのだろう。
江東区HPにも昭和58年に檀家総代の方から奉納された旨が記載されている。4年後に区文化財に登録となった。
 

当知山重願院 本誓寺
江戸時代には浄土宗江戸四カ寺の一つといわれ朱印寺領30石を与えられた
文亀元年(1501)相州小田原で飯沼弘経寺第三世曜誉酉酉冏創建。本尊の阿弥陀如来は漁師が海でみつけ安置されたものという。
天正18年(1590)の戦災により江戸桜田に移る。
文禄4年(1595)八重洲海岸に移り寺地5773坪を領して再興し改めて開山とした。
慶長10年(1605)馬喰町へ移り水戸徳川頼房の養母英勝院が修築。朝鮮通信使の宿舎にもなった。
天和3年(1683)に現地に移転。関東大震災後に称名院を合併。
(参考『東京名所図絵』『江戸川区史』)
本誓寺所在地:東京都江東区清澄3丁目4-23

広徳寺開基保科正利の墓と会津藩による保科家譜査定

 

保科家紋の並九曜紋を掲げる広徳寺本堂保科正利公の墓と頌徳碑
創建時は西山根の上下村境付近(高下地区)に在ったとされ、現在の広徳寺は観音山南斜面の保科氏の館跡に建つ。
本堂は天明4年(1784)12月16日の火災で焼け、翌年再建された。

墓塔は本堂裏の弾正塚にあったもので、江戸時代の『保科村絵図』には広徳寺の裏手に「保科先祖塚」が描かれている。
天明4年(1784)の火災により墳墓は改葬され、その後墓域は竹が生い茂っていたが文政8年(1825)に頌徳碑が掘り出された。

円覚山広徳寺由緒
保科村の地頭保科氏の存在は断片的に諸史料に見られるが、大名保科家の先祖は戦乱で移住し館や菩提寺は焼けて当時の遺物は失われている。
文政の頃、広徳寺16世住職の楚賢は先代から語り継がれた寺伝を手がかりに保科家の歴史を調べ、保科村地頭の保科丹後守光利の嫡男正知(院号光善院)を正利と同一とみなし系譜をまとめた。

延徳元年(1489)に保科正利(まさとし)開基、越後州赤田荘洞福院の前住持松庵寿栄禅師を開祖として佛神山広徳寺を創建したとされる。
永正3年(1506)8月17日に正利が亡くなり正利の子の正則が跡を継ぐ。
永正10年(1513)3月、村上頼衡(よりひら)が高井郡に侵攻し広徳寺と須釜の保科氏の館が焼失。正則は子の正俊を連れて藤沢へ移ったとされる。
正則の弟左近将監正保は村上氏に降って保科の地に残る。保科郷五百貫の地頭となり、滝崎の館に居住した。
天文2年(1533)須釜の保科館跡に正保と3世住職の玉山春洞師により広徳寺が再建され、保科館の焼け残った裏門が現在の寺の総門として移築されたという。
江戸時代に山号を円覚山に改めた。

 
▲石祠に納められた位牌の「廣徳院…」「廣林院…」が見える
廣善院殿鈍牛芳鐵大居士」永正3年8月17日薨「保科正知
廣林院殿揩妥芳級大姉」 明応5年3月12日薨「保科正知 室
先に述べた通り楚賢は正知=正利とし、後述の経緯で位牌を作るにあたり院号の光善院を広善院とし、広徳寺開基者として広徳院殿を正利の院殿号にしたのであろう。
他の保科氏諸系図に正利の名は見られず、外部の記録では広徳寺開基者「保科弾正忠の弟の保科兵部」の法名とする古史料もある。
なお寺伝では弾正忠正則の弟で広徳寺を再建した左近将監正保とその妻の法名は「豪山院殿義雄居士」「劫外殿梅林芳蘂大姉」である。

開基頌徳碑文
公惟信東巨家當時英雄也延徳巳酉創廣
徳禪林請先師松菴壽永和尚爲始祖公咨
詢禪要師示石霜七去話公晝夜提撕一朝
聞過牛吼聲脱然契悟乃呈師於所見師曰
鐵牛不喫三春草吼破寒潭月一輪公與師
於一掌師曰如蒿枝拂著相似公曰尾巳己
露師曰鈍鐵放光公欣然曰謝師印可乃襗
拜覓法名於是號鈍牛放鐵大居士後永正
丙寅八月十七日公以病卒世子正則君遵
遣命使住持春永記其事時九月十二日也

大名保科家の祖として諸系譜に記される保科正則の父君の顕彰碑である。磨耗か故意的に削られたのか題字が判読できず、残る本文中には正利の名は刻まれていない。

 

『保科世家畧』刊行顛末
大名保科家の系図は複数の書簡や記録が残る高遠城主「保科正直」とその父「保科筑前守(正俊)」の代より前は伝説の域である。
楚賢は広徳寺開基が保科家の先祖であることを会津松平家(德川秀忠落胤保科正之から続く大名家)に伝えた。

江戸当時の保科家譜に、武田晴信(信玄)配下となった「正俊・正直親子」が藤沢に移る以前は保科郷に居り、移住の際の保科家当主は「保科正則」であると散見している。
ここに広徳寺開基を加えると、開基は正俊の祖父として移住の数年前まで保科家当主であったこととなる。
保科正知(=正利)──正則──正俊──正直─…

しかし会津藩役所から系図の矛盾点を指摘されてしまう。正則と正俊の年齢差が縮まり、親子では有り得ない。
楚賢は従来の保科家譜に正利を綜合するため、正則と正俊を年代近い正知と正利のように同一人物視はせず、保科縁の方々から史料を取り寄せて系図の整合性を探求し続けた。
文政4年(1822)江戸で会津藩7代藩主松平容衆との謁見が叶い、文政5年には奥方から戸帖と水引を拝領した。
楚賢提唱の保科氏系図は不採用で終わったが、既存家譜の内の保科郷保科氏所縁の寺としての待遇を得ることが叶ったといえる。

住職である務めとして楚賢は開基正利をまつる御霊屋(霊廟)建立を立案する。
広徳寺の位牌や過去帳は焼失しており、新たに御霊屋の位牌を作るにあたり、保科村保科氏の菩提寺として保科家の先祖を遡りそれぞれ法名をつけた。
そして幾度か飯野藩保科家・会津松平家に許可を願い出たが、両家とも正式な法名として認めなかった。

楚賢は隠居後も御霊屋建立の資金集めに奔走し、20町程離れた積石塚(古墳)の巨石を寺まで運ばせ石垣にして御霊屋建立の準備を進めた。
文政11年(1828)6月楚賢は広徳寺の由緒と保科氏祖先の頌徳を石に刻み形にする願いを込めて、保科郷保科氏から繋がる大名保科家の系譜を『保科世家畧』に記す。

天保11年(1840)楚賢示寂。御霊屋計画は18世住職の全光が引き継いだ。
天保12年(1841)3月、住職代替わり挨拶を機に、江戸芝新堀飯野藩邸飯野藩主のお目見えが許された。楚賢が数十年かけて叶えられなかった会津藩主・飯野藩主・旗本保科氏の謁見が全光の代で実現された。

 

──以上が広徳寺所蔵の書簡と記録、飯野藩主子孫所蔵の『御霊屋造営絵図面并御門絵図面仕様帳』等から辿れる概略である。
その後も御霊屋造営は会津・飯野両藩共に正式な許可が得られず、計画は潰えた。
寺伝では高遠保科家(高遠地域に在った保科氏支族か詳細不明)からの反対にあい、寺社奉行の命令で工事途中の御霊屋も取壊しとなったという。

高遠発祥の大名家という系譜を他地域に遡ることに反感があったとも憶測されている事件であるが、大規模な御霊屋の建立に問題があったのではなかろうか。
当時の大名家は細かな作法に則って法事を営んでおり、新たに菩提寺を増やすような願書は聞き入れ難いだろう。徳川将軍家との繋がりが深い保科家の祖霊と謳っては尚更である。

また、享保5年(1720)幕府は御霊屋建立禁止令を出している。世に言う享保の改革の倹約政策だが、全光の代もまた天保の改革の倹約令下で、藩が多額の造営許可と出資に応じる訳にはいかなかっただろう。
そして天保の改革では松代藩主真田幸貫が幕府老中に登用され手腕を振るい、名家臣の山寺常山が松代藩の寺社奉行となっている。保科村は松代藩領である。
弘化4年(1847)3月24日に善光寺地震と呼ばれる北信大震災に見舞われ、嘉永2年(1849)松代藩主の領内巡視しており、嘉永の御霊屋取壊しの頃の時代要因も関係するのかもしれない。

封建の世は過ぎ 長らく埋もれていた開基の墓と頌徳碑が建て直され、拝むことができるようになった。

 
▲楚賢の識語(文化13年)と積石

曹洞宗圓覚山廣徳寺 所在地:長野県長野市若穂保科1752

※無断転載を禁じます

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本件は御霊屋計画にのみ注目されがちだが、江戸時代の当時から大名家直々に保科家の系図の矛盾点について討論されていたことも興味深い。
追補として系図に関する所見は次の更新記事にて。

請西藩林家由来の江戸本所林町

▲元禄六年『江戸大絵図』に林信濃の名。「二之橋通り」に面し、北に堅川(たてかわ)、南に彌勒寺(みろくじ)や五間堀が在ります。

本所林町(ほんじょはやしちょう)
貞享2年(1685)収公された代地として元禄元年(1688)に浅草瓦町等の商戸を移し始めて林町とし、明治44年まで「本所林町」の地名で呼ばれていました。
この「林」の町名は一丁目南裏通りの幕臣林藤四郎の居住地から採ったことが『町方書上』等に記されています。

請西藩林家の祖である小笠原光政から数えて9代目の林信濃守忠隆は、大番頭に出世して貞享3年(1686)には3千石の大身旗本となりました。
西ノ久保(港区虎ノ門)に屋敷があり、ほど近くの青松寺(港区愛宕)を忠隆の代から菩提寺としています。
そして貞享5年(1688)5月19日、本所へ屋敷を移しました。(『寛政呈譜』)この直後から浅草の一部の住人が移転し、林信濃守邸から名をとって「林町」が起立したのです。

林邸は南・北側55間(約100m)、道に面した東・西側は42間3尺6寸(約77.5m)、坪数2340坪の大名並の広大な敷地で、北は土手になっていました。
その後も林家代々の屋敷として江戸絵図で年代ごとの当主の名前が確認できます。

文化2年(1805)1月12日、14代目の林忠英が大名小路と呼ばれる呉服橋御門内に屋敷を授受され2月5日に移り、文政8年(1825)一万石の大名へと登り詰めました。忠英は請西藩最後の藩主林忠崇の祖父にあたります。

 
▲竪川に架かる二ツ目橋(二之橋)から旧林町一丁目(現立川一丁目)を望む
明治4年 昇齋一景作『東京名所四十八景』本所三ツ目橋より一ツ目遠景(案内板より)
江戸に近い側から一之橋から五之橋が架けられた二つ目の橋で長さ10間(18m)幅3間(4.5m)程ありました。

 
萬徳山聖實院弥勒寺と葛飾北斎『冨嶽三十六景本所立川』
現在、林邸の在った場所は立川(たてかわ)一丁目にあたります。堅川(たてかわ)を分かりやすく「立川」としたのが新しい土地名に採用されました。
林邸の隣に在った弥勒寺(真言宗山城三寶院末派。御府内八十八ヶ所霊場第46番礼所。川上薬師如来)は慶長15年柳原に開山し天和2年(1682)移転。杉山検校こと杉山和一(わいち。綱吉の時代の総検校1610~1694)の墓所として知られています。

 
▲五間堀公園。五間堀は幅五間(約9m)の堀で、かつて弥勒寺の脇から弥勒寺橋が架かっていました。

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林町の呼称がすっかり消えたこの地に建つ「喫茶店ハヤシヤ」さんが唯一といっていい林邸の名残ではないでしょうか。マスターに店名の由来を伺ったところ偶然ではなく、林町に因んてハヤシヤの店名をつけられたそうです。

 
軽いカフェメニューの他にフードセットもあり、どの時間に行っても淹れたて出来たての美味しい飲食物と落ち着ける空間が堪能できる純喫茶です。江戸本所散策の折にはぜひ。

・「喫茶店ハヤシヤ」所在地:東京都墨田区立川1丁目11-1
・「弥勒寺」所在地:東京都墨田区立川1丁目4-13
・「二之橋跡」所在地: 東京都墨田区両国4丁目1
・「五間堀公園(五間堀跡)」所在地:東京都江東区森下2丁目30-7

林家の江戸屋敷
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考資料
・『柳営日次記』
・『戸田茂睡全集』『御當代記
・『寛政重修諸家譜』
・『江戸町方書上』
・東京市市史編纂係『東京案内
・『江戸名所図会
・角川書店『日本地名大辞典
・『江戸大繪圖』『江戸全圖』『本所大繪図』等江戸絵図
他、案内板、リンク先ページ記載の史料等

木更津「請西藩戊辰殉難者慰霊碑」

 
請西藩戊辰殉難者慰霊碑殉難者の霊に捧ぐ詩碑
明治30年鹿野山に請西藩殉難者招魂之碑が江戸城を見守る位置に建立され
そして近年、請西藩地にも慰霊碑が置かれました。

「戊辰殉難者の霊に捧ぐ」作詞 石井武敏
時の流れは   悲しくも
献兎賜杯の   誉れさえ
始祖光政と   土の中
無念の涙は   露となり
山の緑に    今光る

いざや大義の  道なれば
差し違えても  悔いはなし
忠崇出陣の   馬を蹴る
箱根の関所の  敗退は
小田原藩の   寝返りか

生き永らえる  その身こそ
死したる者より 辛かりき
ああ諸霊よ   安かれと
朝暮に祈る   法華経の
自我偈の声や  美しき

からす鳴き 十七代で戊辰かな
立つ瀬なくすも 時流か勝せり
永らえし くしき縁の 真武根台
菩薩に祈らん 親義の人々を
             東生
平成七年九月十八日吉日 宮野高美 建之

陣屋跡地周辺の新興住宅地開拓が進められる中で、永代の哀悼の場として静かに佇んでいます。

世古六太夫と幕府遊撃隊箱根の役前日譚

 ※画像は世古六太夫碑より

世古六太夫(せころくだゆう)
通称は六之助、諱は直道
天保9年(1838)1月15日、伊豆国君澤郡川原ヶ谷村(静岡県三島市川原ヶ谷)の栗原嘉右衛門正順の次男として生まれる。
栗原氏の祖は甲斐源氏流武田氏で、清和源氏流武田系図によると11代当主武田刑部大輔信成の子の十郎武続(甲斐守。七郎とも)が甲斐国山梨郡栗原邑(山梨県山梨市)に居住し栗原を称した。
嘉永2年(1849)4月に駿河国七間町(静岡市葵区)山形屋某に雇われ、翌年8月に帰郷。(山田万作『岳陽名士伝』)
14歳で伊豆国田方郡の三島宿(三島市)一ノ本陣・世古家に入り、家業を手伝う余暇に文武を磨き、学問は津藩士斎藤徳蔵正謙に学んだ。15歳で世古清道の嗣子となる。世古家を継ぐと、本陣主として六太夫を名乗った。
安政4年(1857)長男鑑之助(後に六太夫の名を継ぐ)が生まれる。
安政5年(1858)三島宿の問屋年寄役となる。

 
世古本陣表門を移設したとされる長円寺「赤門」と世古本陣址
本陣は大名・公家・幕府役人などの宿場施設で大名宿とも呼ばれた。世古本陣は参勤交代では尾張侯の御定宿であった。

 
問屋場址と世古本陣付近の三島宿復元模型模型画像は樋口本陣址パネルより
江戸時代の運輸は人馬を使って宿場から次の宿場へ送り継がれ、この公用の宿継(しゅくつぎ)は問屋場を中心に行われた。問屋場には問屋年寄、御次飛脚、賄人、帳付、馬指人足送迎役などあり、問屋場の北側の人足屋敷には雲助と呼ばれた駕籠かき人夫が詰めていた。

文久2年(1862)駿河国駿東郡愛鷹山麓の長窪村(長泉村)の牧士(牧の管理者)見習となる。(明治には牧士として「瀬古六太夫」の名がある)
文久3年(1863)韮山農兵調練所が設けられ、江川太郎左衛門代官管内の農民子弟凡そ70名を集めて軍隊調練を行った。六太夫は韮山農兵の世話役を勤めた。
慶応3年(1867)箱根関所を破り逃走した薩摩の浪士脇田一郎ほか2名を、六太夫は代官手代と協力して原宿一本松で召し捕る。

 
農兵調練場址三島代官所跡
宝暦9年(1759)韮山代官所と併合し治所を韮山に移した。
三島陣屋の空き地は江川坦庵の創意で農兵調練場とした。維新後は小学校の敷地となる。

慶応4年(1868)倒幕を遂げた明治新政府と旧幕府の抗戦派による戊辰戦争が開戦した。
3月24日、新政府が大総督府を置き東征させる折、三島宮神主矢田部盛治(もりはる)は矢田部親子と社家等70余人を沼津~箱根両駅間の嚮導(先導警護)兵として奉仕する願書を先鋒総督に送る。(『東海道戦記』)伊豆伊吹隊(息吹隊)と名づけて25日に嚮導して三島宿は難なく官軍を休憩・通過させることが出来た。
閏4月上総国(千葉県)から出陣した旧幕府遊撃隊と請西藩藩主林忠崇ら緒藩兵による旧幕府隊が沼津に向かい、兵を引くよう江戸から遣わされた旧幕府重臣(既に新政府に恭順)との交渉上沼津藩監視下の香貫村に駐屯し、返事の約束の日を過ぎても音沙汰ないまま足止めされていた。
5月18日、上野山の彰義隊蜂起の報が届き、やむなく旧幕府遊撃隊人見勝太郎が抜け駆けの形で自軍(第一軍)を率いて加勢に向かうことを決意する。
夕方に三島宿へ「澤六郎・木村好太郎」の名で、翌日夜の宿割と人足(宿場町が提供する運送者)を問屋役人の六太夫らに命じに来た。軍目(憲兵兼監察役)澤六三郎らによる林忠崇を筆頭に全軍が通過する準備とみられ、人見の行動は切迫した状況打破のために林忠崇公らと示し合わせた(おそらく沼津藩主水野出羽守の温情もあっての)策であったことを窺わせる。

19日朝、連日の大雨で氾濫した川を渡り脱した人見隊が三島にたどり着く。
しかし明神前に新政府によって俄作りの新関門が置かれていた。
旅籠松葉屋に居た関門長の旧幕府寄合松下加兵衛重光(嘉兵衛、嘉平次。下大夫。4月25日から三島駅周辺警守にあたる)が駆けつけ、通過を阻まれた人見隊は、大鳥居に木砲2砲構え、白地に日の丸の旗を翻して関門を威嚇する。
一触即発の危機に、問屋役の六太夫や三島宮神主矢田部が取成して、矢田部が松下を佐野陣屋(現裾野)に報告に行かせる機転で、事なきを得たという。

後発の旧幕臣本隊が、伊庭八郎率いる第ニ軍を先頭に東海道を真っ直ぐ進み昼過ぎに三島に到着。
宿場には徳川家康以来幕府に恩がある者が多く、六太夫ら問屋役人一同は千貫樋(せんがいどい。豆駿国境にある灌漑用水路の樋)まで出迎えたという。
世古本陣の西に在る脇本陣・綿屋鈴木伊兵衛に林忠崇を総督とする本営を置き休憩。
人見らの救援として前田隊を急行させてから、本隊も山中村へ向かった。
こうして三島宿を戦禍の危機から救った六太夫だが、新政府軍に幕府方内通者との嫌疑がかかり、これまで新政府に尽くしていた矢田部らの嘆願も聞き入れられず捕えられてしまう。佐野の獄舎にて詰責を受けたという。病のため矢田部家に預かりになり縛後31日目に釈放。
7月18日三島関門が撤廃される。

 
▲三嶋大社鳥居前と矢田部式部盛治像大人銅像(澤田政廣氏作)
矢田部盛治は掛川藩家老の橋爪家からの養子で、安政の大地震で倒壊した社殿の復興を果たし、祇園山隧道を開鑿し新田開発を行うなどで三島宿の民から慕われた。

明治3年(1870)明治政府により本陣が廃止される。
明治5年(1872)六太夫が戸長となる。
明治7年(1874)に第四大区一小区副区長となる。
明治12年(1879)三島に小学校の前進になる新築校舎建設に協力。
明治17年(1884)7月24日三男の松郎誕生。(後に兄の六太夫廣道の後を継ぎ、大正10年に市会議員となる)
明治20年(1887)沼津に移住。
明治28年(1895)に沼津・牛臥に海水浴場旅館「三島館」を建て、三島の旧宅を修築し「岳陽倶楽部」とし、各界著名人と交遊を深めた。
明治36年(1903)に妻のナツが61歳で死去し、長円(ちょうえん)寺に葬。法名本修院妙道日真大姉。
大正4年(1915)12月31日78歳で死去し、妻と共に長円寺に眠る。法名本行院直道日壽居士。

 
正覚山大善院長圓寺・世古六太夫夫妻の墓
維新後の六太夫は教育の推進者として伝馬所跡に私立学校開心庠舎(かいしんしょうしゃ)を開設し、実業家として沼津停車場前に通信運輸事業を展開して郵便事業の基礎を築く等、郷土に貢献した。

三島宿 歌川広重「東海道五十三次之内 三島 朝霧」(沼津市設置の路上パネルより)
東海道五十三次の三島
慶長6年(1601)德川家康によって東海道五十三次の11番目の宿場に指定され、古くからの交通の要所であり伊豆一宮の三島明神(現在の三嶋大社)もあり隆盛した。
一ノ本陣・世古六太夫、二ノ本陣・樋口伝左衛門
脇本陣3、他旅籠74軒(天保年間)

・「長円寺」所在地:静岡県三島市芝本町7-7
・「三嶋大社」所在地:静岡県三島市大宮町2丁目1-5

参考資料
当記事と請西藩関連記事中明記の文献の他、案内板(三島市教育委員会、本町・小中島商栄会設置)、郷土資料館展示・収蔵史料等。閲覧許可ありがとうございました。