三宝寺[1]-勝山藩士福井小左衛門と楯石作之丞の墓

三宝寺山門 三宝寺

瑞龍山三寶寺山門と本堂
三宝寺は貞譽祖閑が永禄年間に開山、天正6年(1578)5月20日にに戦国大名の里見義弘が没し、嫡男義賴が菩提のため義弘の法名「瑞龍山」を号して創建したとされます。
現在の富津市佐貫にあり、本寺は千葉市の浄土宗鎮西派竜沢山大巌寺(だいがんじ)です。

境内に、幕末の戊辰戦争の際に三宝寺に新政府軍の屯所が置かれており、林忠崇請西藩兵・旧幕府遊撃隊にと共に箱根で戦って生還した勝山藩の19名が差し出され、地蔵堂に監禁されています。
加担した首謀者として、勝山藩の罪を贖うために慶応4年(1868)6月12日に三宝寺で切腹した福井小左衛門と楯石作之丞の墓が有ります。

福井小左衛門と楯石作之丞墓

福井小左衛門と楯石作之丞の墓
左が福井「超善院忠覺理傳居士」・右が楯石「月崇院忠岳清慧居士」
共に「慶応四辰年六月十二日」と側面に刻まれています。
加知山藩(勝山藩から改称)は、永代月牌料としてそれぞれに金五円ずつ供えました。

勝山藩大目付の福井は禄高五十石の上級藩士で、この時27才、独身でした。
楯石は禄高六石吟味役から指令司となった下級将校で、この時35才、志うという4才の娘がいました。
介錯人は平井国宝といわれています。

 

三宝寺は明治31年(1898)から無住でしたが45年(1912)に第十八世晃譽大仙上人が就き、大正10年(1921)1月13日に花香谷の勝隆寺を合併、寺号を「三宝山 勝隆寺」と改称して、現在の三宝寺の地に本堂を再建(震災後にも建直し)しました。

花香谷の勝隆寺は浄土宗鎮西派に属し京都知恩院の末派で、天正18年(1590)に佐貫城主の内藤家長が甥の三州松応寺の演譽馨香を招いて開山しました。
慶長5年(1600)8月1日、関ヶ原の戦いの前に伏見で家長が戦死し、遺髪を持ち帰った家臣達がこの寺で殉死しました。子の正長が父の菩提のため家永の法名をとって花香山慶相「善昌寺」としたようです。
寛永16年(1639)に能見松平氏の松平勝隆が佐貫藩主となり善昌寺を菩提寺として覺雲山本誓院「勝隆寺」としました。

昭和28年(1953)には、勝隆寺の末寺の薬王山光源寺(佐貫町亀田)も併合しました。
現在の山門は元の「瑞龍山 三宝寺」になっています。

※三宝寺には戊辰戦争の最中に佐倉藩が佐貫藩を預かっていた折に戦死した佐倉藩士2名の墓があり、佐貫城主の墓は元の勝隆寺(富津市花香谷、染川を渡った先)にあります。

瑞龍山三寶寺
所在地:千葉県富津市佐貫106

参考サイト
鋸南町:http://www.town.kyonan.chiba.jp/