享保の打ちこわしに遭った高間伝兵衛

高間橋西向き 高間屋敷方面

▲周淮郡常代村(君津市常代)に屋敷を構えた高間傳兵衛(伝兵衛)に因む高間橋
高間橋がかかる宮下川の西、右写真方面に12町歩(発掘調査では屋敷全体は1586坪)もある高間屋敷があった。
俗謡「あんば常代高間どんすぎなりお笠で紙鳶揚げるお雪さんに見せよと紙鳶揚げる」は敷地内の4反歩もの大きな池に屋根船を浮かべて愛妻(もしくは妾)を乗せ、舟から紙鳶(たこ)を揚げて喜ばせたという豪勢な様子を歌ったものと伝わる。
※上総国(かずさ、千葉県)周淮(すえ)郡周南(すなみ)村は明治22年の町村制施行で常代(とこしろ)村等周辺の村々が合併。その後周淮郡は君津(きみつ)郡となる

 

高間伝兵衛は、米将軍と呼ばれ享保の改革を行った第8代将軍徳川吉宗、将軍を支え江戸の町から米価引下げの懇願を引受ける町奉行大岡越前守忠相らのもとで米方役に任命され米価調整を担った豪商である。
※米方は御蔵渡り米を領査し、札旦那御入米拂米を定め、請取方賈方に取り扱わせ指図し、米代金を領収する。
米価が上がれば手持ちの米を安く売り、米価が下がれば大量に買い入れることで相場を安定させた。
武士の役人だけでは捌けず、伝兵衛のような商才ある町人を抜擢したのだろう

元禄16年(1703)6月付けで周淮郡(君津市)の猪原村と市場村の名主が伝兵衛に宛てた請求書が残されていることから、初代から数代の間の伝兵衛(代々「伝兵衛」を名乗っていた)は周淮で米穀を扱い、年貢・俸禄米を担保にした貸付やを行っていたと推測されている。
享保(1716~)初期には江戸に出店し、日本橋伊勢町(東京都中央区日本橋本町1丁目。橋の日本橋の東)に24棟の米蔵(出入口が1棟に2つ有り、いろはの48組の符号がついていたためか48棟の記述も多い)を持ち、側の本船町に「高間河岸」を設け、て大いに繁盛した。

江戸橋 木更津河岸と高間河岸

高間河岸の位置と現在の江戸橋
日本橋と下手の本船町にかかる江戸橋との間の南岸の土手倉(防火のため東西二町半に、石を畳揚げて屋根で覆った封疆蔵が置かれていた)が並ぶ四日市の西側に幕府に認められた木更津河岸があり、廻船の五大力船(ごだいりき。木更津船)が行き交っていた。上総との運送が盛んな所である。
※現在の江戸橋は昭和2年の昭和通り開設で90m程上流に移っている

 

享保15年(1730)9月12日、豊年が続き米価の下落を止めるため幕府は伝兵衛他8人の米殻商に上方米(かみがたまい)の独占取引権を与え買入れされる。

享保16年(1731)に幕府は米殻商へ安売りを禁じる。
7月に幕府は米方役の伝兵衛を大坂に派遣し買米(かいまい。幕府の買い上げ)、二付銀子を被下。

享保17年(1732)享保の大飢饉。夏に西日本が冷害に見舞われ蝗が大発生し、翌年まで餓死者が相次ぐ。
幕府が昨年買入れた米や東国産の米を西国に送り救援したため江戸でも米不足となって米価が上がり、庶民が困窮した。

享保18年(1733)1月23日、伝兵衛は高騰した米価を下げるため幕府に安価で備蓄米二万石を府下に売りに出すことを願い出て、許される。

しかし江戸市人は「米価が昂騰したのは、幕府と癒着した米商の高間傳兵衛が府内の米を大量に買占めて蓄えているせいだ」と噂を立てた。

世相を伝兵衛と大岡越前にかけた狂歌

「米高間 壱升貮合で粥にたき
 大岡食はぬ たった越前」

米が高く(高間)て銭百文では一升二合しか買えないのでお粥にしたが
多く(大岡)食べられず、たった一膳(越前)だけだ

実際は伝兵衛の備蓄は米価調整のためであり、23日の行動からすると私欲で溜め込んでいたわけではなかったが、米方役として米価を左右し江戸吉原を3日間貸切るという豪遊も伝わる富んだ伝兵衛に対して庶民は「私欲で米穀を買占め高値で売っている」と疑っていたようだ。

そして26日の夜、町民達が1700人あまり(4千人と記すものもある)集まり党を結び、伝兵衛の本船町の店(たな)を襲撃して打ちこわしを決行。家財は砕かれて前の川へ捨てられた。

町奉行が属吏等を出動させてようやく騒動を鎮め、打ちこわしを先導した首魁を捕らえた。
首魁4人のうち1人を重遠島、3人を重追放とした。

この日、高間一家は母の住む上総周南の高間屋敷に居たため暴動に直面するのを免れた。
伝兵衛は打ち壊しに遭いながらも翌月には、米二万石を五升安で売却することを上申している。

…この高間騒動は江戸で初めての打ちこわしともいわれる。打ちこわしは幕府権力への反抗と悪徳商人の摘発を目的にしたため、現代の時代劇などでは伝兵衛が噂通りの悪い商人として描かれることが多い。
また講談「姐妃の於百」歌舞伎「善悪両面児手柏」等で毒婦として着色されたお百は『秋田杉直物語』で、お百=おりつは宝暦7年(1758)の秋田騒動で夫が仕置きとなった後に、高間伝兵衛の甥の高間磯右衛門の妾になったとする。

 

享保20年(1735)7月19に伝兵衛が病死。代替わり上申。
11月に新しい代の高間伝兵衛が米方役に任命される。※以降の記事は跡を継いだ伝兵衛の事

延享元年(1744)米価が下落し、米価引上げのため107人の米殻商に買米を10等級に分けて割り当てた。伝兵衛は最高等級の5万石である。

延享4年(1747)播磨明石藩蔵元となる。

この頃財政難の播磨姫路藩の松平家は「姫路藩の大坂廻米の売却を許す」条件で伝兵衛に融資させていたが、松平家が条件を一方的に破り、伝兵衛の姫路藩蔵元役を罷免し蔵元制度(専売制度)そのものを廃止するに至ったとされる。

寛延2年(1749)11月12日、伝兵衛は米方役辞任。

その後、天保3年(1832)から嘉永(1848~)頃、伝兵衛と分家の伝右衛門(江戸小網町一丁目に店を構えていた。小網町の河岸も房州への海運が盛んだった)は武州川越藩松平家の御用高として仕えた。伝兵衛は20人扶持があてがわれた。

 

しかし明治になって諸大名へ貸付けていた分が回収できなくなり経営不振に陥り、高間屋敷は親族の松本氏の名義となり母屋は青堀(富津市)方面の人に売却。
表の平治門は大正3年頃に周南村(君津市大山野)の渡辺由太郎氏に払い下げ、長屋門も改築となった。

 

高間家の菩提寺は貞元字八幡所の豊山派満隆寺(過去帳に伝右衛門等記載)
墓は常代の共同墓地。墓には丸に葉柏の家紋が刻まれている。

参考図書
・『享保撰要類集』
・『東京市史稿 産業篇第17
・『国史大辞典7』土肥鑑高「江戸の米屋」「正米商」
・『君津郡誌
・『コンサイス日本人名事典
・幸田成友『日本経済史研究
・『列侯深秘録
・『有徳院殿御実紀』
・古屋野正伍『都市居住における適応技術の展開』
・君津市文化協会『呦々4』
・西上総文化会『西上総文化会会報53』
・君津郡市文化財センター『年報11』
・『会報21』菱田忠義「豪商高間伝兵衛関係の文書」
・『房総文化18』『常代遺跡群』『すなみふるさと誌』
・『江戸名所図会』