京都/御香宮神社[1]伏見義民碑

伏見義民碑 伏見義民事績

伏見義民之碑伏見義民事蹟
御香宮境内に明治19年(1886)12月に建立。篆額(題字)は内大臣三條實美(三条実美/さねみ。内閣総理大臣兼任)書、碑文は海舟散人(勝海舟)撰。

天明5年(1785)当時の伏見奉行(ふしみぶぎょう)小堀政方(こぼりまさみち)の悪政を幕府に天下の禁を破って直訴して伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた7人の町人が伏見義民(ふしみぎみん)と呼ばれる。

 

■伏見奉行に対する直訴の経緯
安永7年11月8日に小室藩第6代藩主の小堀和泉守政方が37歳で伏見奉行に任じられる。翌年2月27日に伏見に着任。
小堀家の利益を裂いて町民のために善政を行うが、財政は窮乏し、伏見の裕福な町人に御用金(ごようきん。財政難を補うための臨時の徴収金)を課すなどをして怨嗟を生んだ。
御用金は6月に町人枡屋源兵衛に銀四貫目を命じたのに始まり各所に渡るが、還元の様子も無く、政方が目にかけた商人や御用金徴収人の異例の贔屓が行われ、政方やその腹心の着服が疑われた。

天明元年(1781)5月28日、政方の妾芳子が宴の席で魚の骨を喉を詰まらせ、小堀家お抱え医の水島甲庵(幸庵)が癒した褒美として何を求めるか政方から聞かれると、甲庵は竹の柱に瓦屋根の家が欲しいと答えた。これは崩壊寸前の小堀家を喩えであり涙ながらに諫言するが、言葉では政方達の心が動かせないと分かり、甲庵は身をもって諌めようと帰宅後自刃した。
心を動かされたのは町民達で、甲庵の遺骸は町民達の手で密かに水島家の墓に葬られた。

凶作が続く中で米穀の価格高騰が収まらず(町人の訴えは米価についても多く、調整や救済指示は町奉行所の仕事でもある)町民の苦悩を見かねて、町年寄役(町の自治長)である文殊九助丸屋九兵衛等同志達が両替町の受泉寺、深草間眞宗院の山室で密議し、もはや越訴(訴訟は奉行所を通す決まりだが、その段階を飛び越えて民衆が処罰覚悟で直接将軍や閣僚等に訴状を渡す直訴)しかないと捨て身の決意を固めた。

天明5年(1785)5月に九兵衛が代表として伏見を出て江戸に向かうが同志達に呼び戻され、深草善福寺の後室で議論を重ね、江戸行きは九助・九兵衛・麹屋伝兵衛の3人に決まる。
7月21日に3人が出発し江戸に入った翌月、同志であった中村靭負がこの計画を伏見奉行に密告したため奉行側は関係者達を幽閉し、3人を捜索する。
捕史が3人が宿泊する白河屋を襲撃するが伝兵衛が大いに奮闘し、深川陽岳寺に入り事なきを得たが、伝兵衛は傷を負ってしまう。

9月16日ついに政方一味の暴政を寺社奉行(勘定奉行・町奉行と並ぶ三奉行の筆頭角ともいわれる)松平伯耆守資承(すけつぐ)邸前で籠訴(かごそ。竹の先に訴状を挟み、外出時の駕籠に駆け寄り閣僚等に訴状を渡す越訴)し、11月に追書を提出した。11日に伝兵衛が傷が元で病死し、陽岳寺に葬る。

12月5日に龍ノ口評定所(幕府の評定所。現東京都大手町)で2人の帰郷が命じられ、願いが受け容れられて、政方が江戸に呼び出された。
27日に政方は伏見奉行職を解任となる。

天明6年(1786)1月14日に九助・九兵衛が伏見に帰り、21日に久留島信濃守通祐が伏見奉行に着任する。
23日に久留島信濃守は京の東町奉行所へ行き、25日に伏見奉行所の与力・同心と共に九助・九兵衛を呼び出し、続いて200名近い関係者が吟味(調査)のため東町奉行所に預けられた。
久留島信濃守は京町奉行丸毛和泉守政良と共に直々に吟味し、九助ら7人の町人が獄に入った。大人数の処置は年末までかかり、その間に病死する者も少なくなかった。

12月15日に事件に関わった小堀家臣と奉行与力・同心、町人達が江戸へ護送され28日に到着し、29日から龍ノ口評定所で各奉行の審問を受ける。
天明7年(1787)5月6日にようやく獄が定まったほどで小堀側も町人側も次々に病死している。

 

■7人の伏見義民
・文殊九助
直訴の中心人物で、町の年寄役。板橋二丁目に住む。
文殊(もんじゅ)の家は文禄年間の豊臣秀吉の伏見築城にあたり城閤に必要な金物の鋳造をするため南部から伏見へ移住した文殊四郎三郎包守清左衛門より出て、代々刃物鍛冶を営み薩摩藩御用達となる。
九助は七代目で包光宗兵衛と称し、家業を子の宗兵衛に譲り隠居していた。
江戸での詮議の最中の天明8年正月3日に獄死し、陽岳寺に葬られた。
一族は薩摩藩のとりなしで没落を免れた。

・丸屋九兵衛
寛永年間から伏見に住む松村忠兵衛の家筋の分家で京町北八丁目に住む。
力強く義に厚く「雉の子」と呼ばれる人望から町年寄となった。
江戸での詮議は病に苛まれながらも弁を振るったが、天明8年1月23日に力尽きて獄死し、陽岳寺に葬られる。
その後の九兵衛の一族は、総本家忠兵衛・分家伊兵衛・別家六兵衛以外は皆離散してしまった。

・麹屋伝兵衛
大文字町で麹(こうじ)製造を営む3代目。南山城久世村の福富勘兵衛の弟庄助。同家の養子となる。
直訴のため九助・九兵衛と共に江戸に向かうが、追手の捕史により傷を受けて天明5年11月11日に病死し陽岳寺に葬られた。
伝兵衛の遺族は生家の久世村に戻ったが、迫害を受けて血族は絶えた。

・柴屋伊兵衛
京町南八町目の薪炭商。良妻と、家業に精進していた弟に後を託して九助らの支援を決意し、九助らが江戸に向かった時は伏見の情勢を伝えて道中の危機から救う。
処罰を覚悟しており、勝念寺境内の土地を買い父母の墓碑を建立し永代供養料を納めておく(自分に代わって寺院に子孫代々まで両親を供養してもらうための支払)などをして予め身辺整理を済ませていた。
事件後に東町奉行所の糺問を受け、家は差押となり、天明7年8月1日から入牢。9月23日に獄死した。
生前の用意の甲斐あって遺族は落剥を耐えたが、文政年間に伊兵衛の血統は途絶えた。

・板屋市右衛門
寛文年間に山城相楽郡和束郷から伏見に移住し板類を商う板屋(屋号)の二代目三右衛門の長男市右衛門が家を起こして、その二代目。推薦されて町年寄役となる。
伊兵衛と同様に予め堀詰新町の顕正寺に一家の碑を建てて、後で自分の戒名を刻めるようにするほどの決意で同志達を助けた。
事件後に家は差押となり東町奉行所に呼び出されて入牢。天明7年10月20日に獄死した。
生前の準備と本家の支えのお陰で遺族への迫害は抑えられたが、間もなく血統は途絶えた。

・伏見屋清左衛門
両替町十三丁目で塩の販売を兼ねた醤油醸造を営む。塩屋仲間の年寄となり、町年寄役も勤める。
息子の清兵衛に家業を託して同志達を助けた。
事件後に東町奉行所の糺問を受けるが天明6年1月20日に再び拘置される。天明7年8月11日に家が差押となり、入牢。
9月9日に獄死し、死後8ヶ月後の天明8年5月21日にようやく遺骸を京の役所から受取り土葬を終えた。
遺族は京都へ逃れて文政年間に再び伏見に帰り、油掛木津屋筋南角で紙商を営む。

・焼塩屋権兵衛
深草に住む。平田姓。
平田家は文禄2年に播州赤穂から伏見田町に移って瓦製造を営み、豊臣秀吉の伏見築城の際は天守閣用の瓦を造る。瓦町から寛永年間の二代目権兵衛の時に間直違橋九丁目に移る。三代目権兵衛の次男が家を起こして初代平右衛門とする。
元禄年間に瓦屋の副業として始めた焼塩が伏見名物になる程の評判で、屋号が焼塩屋になった。
この権兵衛は七代目で、推薦されて町年寄となる。
義民の中では作戦立案を担当し、権兵衛が密議の場に深草瓦町の眞宗寺を選んだのも瓦町が伏見奉行の管轄外であり、眞宗寺住職香山和尚と親交があったため。
事件後に東町奉行所の糺問を受け、家は差押となり、再び呼ばれ天明7年8月25日に入牢し、11月4日に獄死。伏見街道筋塗り込め地蔵堂後の墓地に葬られる(寳塔寺共同墓地に改葬)
遺族は分家の平右衛門の援助があったが、奉行の圧力が甚だしく、権兵衛の子の佐吉は平右衛門に迷惑がかからぬよう瓦屋を廃業。佐吉は他の同業者に雇われて一生を終え、その子孫は長く続き、明治21年に系統が途絶えた。

 

御香宮神社
主祭神は神功皇后。
秀吉の伏見城築城の折に鬼門鎮護として深草大亀谷(古御香宮の位置)に移り、慶長10年(1605)家康は現在の位置に社殿(本殿)を建てて戻す。
表門は薬医門で元和8年(1622)徳川頼房(水戸光圀の父)が旧伏見城の大手門を寄進したといわれる。拝殿は寛永2年(1625)徳川頼宣の寄進。

御香宮神社鳥居 御香宮神社表門

▲御香宮神社の現在の鳥居と表門

所在地:京都市伏見区御香宮門前町
御香宮サイト:http://www.kyoto.zaq.ne.jp/gokounomiya/