石塁で囲い石段を下りて水を汲むようにつくられ、当時には珍しく石板の蓋がある。
産湯の井戸についての伝承は多く、松平郷では松平家館(現在の松平東照宮境内地)の鬼門(艮/うしとら。北東)の方位に祀られている氏神・八幡宮(今の奥宮)の前庭にある井戸が、7つ存在した井戸のうち最も古く、在原信盛によって掘られ松平親氏の子の信広・信光(泰親の子とも)の頃から男子出産時の産湯に使った井戸と言われる。
天文11年(1542)12月26日に岡崎城で松平元康(竹千代。後の徳川家康)が誕生した時には、松平太郎左衛門家7代親長がこの井戸の清水を竹筒に汲んで早馬で岡崎城へ届け、元康の産湯に用いたという記録がある。
江戸時代には将軍御代替の際に諸国巡検使の巡検地として貴重な扱いをされた。
▲産(うぶの)八幡の宮(水神八幡)
この地は井戸の洞とも呼ばれ、在原信盛が井戸を掘った際に尊体(石)を得て祀り松平親氏が氏神として若宮八幡宮と称したとされる。
井戸は産湯の井戸・沙汰なしの井戸・奥の井戸と異名が多く、井戸水が濁ると異常事態の前兆とされた。
現在も4月の松平東照宮例祭の前夜の試楽祭で、産湯の井戸で浄水を御神水として神前へ供える「御水取り神事」が執り行われている。
▲境内の二の井戸・三の井戸と産湯井戸の案内板