萬里小路大姉墓誌と川名りか

横田の万里小路大姉墓誌 万里小路大姉墓誌

萬里小路大姉墓誌碑。明治13年広部精(くわし。せい)の撰文

 

■川名里鹿(りか)
天保10年(1839)横田村(袖ヶ浦市横田)中下(なかしも)の豪商河内屋の川名惣左衛門栄助頼信(よりのぶ)とお鐐(りょう)の長女の里鹿が生まれる。

利発な里鹿は嘉永の頃に幼くして12代将軍徳川家慶(いえよし)の頃の江戸城二の丸の御女中に出仕した。貝淵藩林家の口添えも有ったのかも知れない。
大奥で老女(高位の女中職三役の総称)万里小路局(までのこうじ。まて様)に出会う。

嘉永5年(1852)13歳の時に祖父と父親が相次いで無くなり、嫡子の政之助がまだ幼児のため、川名家は大奥へ里鹿の宿下がりを申請する。
嘉永7年(1854)15歳の時に家督を相続するため横田へ帰郷した。
その後婿をとって5人の子を産む(3人は夭折)。

慶応4年(1868)にかつて大奥で面識のあったまて様が請西に移り住み、29歳の里鹿は横田から長楽寺まで往復して世話をした。
戊辰の役の後には、身の置き場を無くしたまて様を横田の川名家に迎え入れる。

明治5年(1872)に33歳で亡くなる。
その6年後にまて様も死去し盛大な葬式が営まれた。

 

萬里小路大姉墓誌 所在地:千葉県袖ケ浦市横田

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碑文には矛盾が見られ、万里小路の出自が虚偽(将来的に大奥で権威をもつことになる、次期将軍の正室のお付きになるには京の公家から選ばれた慣わしのため)であった説もあります。
その他史料を照らし合わせると、大奥に入った後の万里小路が非常に有能で結果的には長く徳川家の支えとなったことは事実に近いはずなので、決定的な記録が発見されるまでは歴史に残した結果を重視したいと思います。