▲昭和4年『千葉縣木更津町鳥瞰』の島屋推定跡地(旧山崎医院)周辺と跡地に沿う矢那川
南町(現木更津市富士見)島屋は新田川(矢那川)沿いにあって豊富な水で藍染をしたのだろう。
講談『切られ与三郎』のモデル四代目芳村伊三郎こと中村大吉が南町島屋で型付職人をしていたともされるが、大河内家の島屋か別の島屋かは不明。歌舞伎の人気演目となった瀬川如皐『與話情浮名横櫛』では「南町藍玉屋善右衛門」で登場する。
戊辰戦争の際、福田八郎右衛門・江原鋳三郎(素六)ら撒兵隊(さっぺい、さんぺいたい)が木更津に駐屯し、撒兵頭の福田が大河内家の島屋を宿所としたようだ。
大河内幸左衛門「島屋」
大河内氏は藤原鎌足の摂家光明法寺摂関左大臣九条修理大夫長家の流れで、天正10年織田軍の甲信攻めで信州伊那城主伊藤志摩守為長(靫負。28世)が降伏し、戦で負傷し不具となった18歳の息子伊藤河内守為安は縁故の本多氏(当時の領主、本多縫殿亮か)を頼り家臣の17士と共に下総国匝瑳郡西小笹村(西小篠/こざさ。匝瑳市。旧共興村)に帰農したという。彼らは向地屋組十七家と呼ばれ、為安は隠棲して縫右衛門と称した。
縫殿三郎(1790-1871)の時に、西小笹の領主である旗本の菅沼氏から大の字を賜り伊藤から大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)と姓を改めた。
※西小笹村は維新前は旗本菅沼藤十郎、森川内膳正、岡部中務、馬場繁治郎の分領
西小笹には現在も往時の村の隆盛を偲ばせる長屋門や古民家が生活に溶け込んでいる
文化年間の初めに阿波国(四国徳島)の僧が藍種を隠し持って小笹村を訪れ、逗留した伊藤家にもてなされた礼として藍業を伝授した。
文化2年(1805)4月4日に伊藤家当主喜左衛門の弟幸左衛門が阿波に向かい、5月に鳴門に着き名主の金兵衛に阿波国秘伝の藍業を詳しく教わった後、栽培用の藍種を持ち帰った。
西小笹村での生産に成功し屋号喜左エ門は1町5反の藍畑を持ち栄えたという。
▲縫右エ門と幸左エ門の姓は擦れているが(不完全な読取で佐藤とする郷土誌もある)、実際に刻字を観察した限りでは願主の伊藤喜左エ門と同じ伊藤に見える。
文政4年(1821)は縫殿三郎の父の喜左衛門安吉は62歳なので隠居し、藍商喜左衛門の当主は次の代か。縫殿三郎はこの時32歳。
『四國同行中 伊藤縫右エ門 同 幸左エ門 渡邊権兵衛 増田□』
『文政四辛巳年 三月吉日 西小笹邑中 願主 伊藤喜左エ門』
※四国巡礼者達と思われ本件の阿波へ渡った伊藤幸左エ門らと関わりがあるかは不明だが、祖先伊藤為安が縫右エ門を名乗っているためその名を代々継いだ紺屋大河内家の兄弟であろう。
■木更津南丁島屋
阿波で藍業の技術を得た幸左衛門は江戸越前堀の藍問屋の島六(森六・まる九)の株を買い、木更津に「島屋」という名の紺屋(こうや)の出店を持った。富士山が見える立地若しくは不二心流(富士浅間流)道場があったためか由来は不詳だが富士城や・不二城とも呼ばれた。
※越前堀は中村一心斎・大河内縫殿三郎の江戸道場が開かれた八丁堀の東
以降、代々島屋の当主は幸左衛門の名を継いだ。
▲島屋があった推定地の山崎公園と旧山崎医院
島屋跡地ははっきりしないが昭和27年木更津市発行『木更津郷土史』等で「山崎医院の場所」としている。
山崎節『山崎直その踏跡』によると山崎周太郎氏が向かいの塩勘の右隣の倉庫の所に開院し、明治20年頃に現在の山崎公園と旧山崎医院(大正9年建築)の場所に移転した。
因みに周太郎の兄、山崎邦之助(内蔵之助)は佐貫藩相場事件での佐幕派剣士であった。
▲君津橋(證誠寺橋)対岸の左が證誠寺参道で開院当初の山崎医院側。右が移転後の山崎病院
【2016.11/5追記】昭和当時の郷土研究家の聞取元が開院当初の山崎医院を言った可能性もあるので、補足として昭和初期鳥瞰図での島市(材木店。岸本家)敷地跡を追加。新政府に土地を接収されたなら公園側が妥当か。
■島屋道場
▲かつて八劔八幡神社境内の不二心流道場があった地と周辺鳥瞰図 ※鳥瞰図は木更津駅前パネルより
島屋では番頭から小僧まで皆剣術を習い、門下は「島屋門」と呼ばれたという。島屋の敷地内の道場の他に、八幡町(木更津市富士見)八劔神社の境内にも町道場を作り中村一心斎・不二心流正統大河内氏・不二心流門下で神職の八劔氏が指導した。
八幡町道場があった住所は大河内一郎(維新前に死去し愛染院に葬。長男の三千太郎が継ぐ)が戸主であった記録が残っている。
現在は八劔八幡神社専用駐車場となっている。
山崎公園所在地:千葉県木更津市富士見1-14-14
瑠璃光山愛染院所在地:千葉県木更津市中央1-3-15
■■不二心流と木更津「島屋」■■