本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」・その後の本多家

良玄寺本堂 良玄寺大多喜城主本多忠勝侯忠朝侯墓碑

良玄寺本多家墓所

右五輪塔・大多喜城主本多忠勝中務大輔忠勝侯奥方墓塔
  見星院殿蓮譽光信大襌定尼 慶長十八年九月十四日大多喜城内にて卒

中五輪塔・大多喜城主本多忠勝中務大輔忠勝侯墓塔
  西岸寺殿前中書長譽良信大居士 慶長十五年十月十八日卒去行年六十三歳

左五輪塔・大多喜城主本多出雲守忠朝侯墓塔
  三光院殿前出州岸譽良玄大居士 元和元年五月七日大阪夏の陣にて戦死行年三十四歳

良玄寺大多喜城主本多忠勝侯忠朝侯墓誌 良玄寺案内板

■良玄寺由緒
天正18年(1590)大多喜十万石へ入城した本多忠勝(ほんだただかつ)は、文禄4年(1595)9月25日下総国小金城下(現千葉県松戸市)東漸(とうぜん)寺の住持照誉了学(しょうよりょうがく。小金城主高城胤吉の三男。後に徳川家菩提寺江戸芝増上寺貫主)上人を招き開山、金澤山良信寺を建立し菩提寺として寺領百石を寄進し、境内四町八反を除地(免税地)とした。本尊は木造阿弥陀如来像。

慶長5年(1600)関ヶ原合戦の翌年に忠勝は伊勢国桑名(三重県桑名市)に移封となり二男の忠朝(ただとも)が五万石で大多喜城主となった。忠朝も城主となった年に寺領百万石を寄進している。
了学は飯沼(茨城県常総市水海道)弘経(ぐきょう)寺を再興し、良信寺にはその弟子圓誉信牛和尚が住職となる。

慶長15年(1610)忠勝が63歳で桑名(江戸とも)で没し遺言により了学の葬儀で桑名浄土寺に葬られたが、良信寺に分骨して墓碑を建てた。
慶長18年(1613)忠勝が桑名に転封後もこの地に残っていた正室で忠朝の母である於久の方が大多喜城で没して良信寺に葬られる。二代目圓誉上人の焼香。
元和元年(1615)忠朝は大坂夏の陣で34歳の若さで戦死し一心寺(大阪府大阪市天王寺区)に葬られたが、分骨し当地にも埋葬。
今でも本多忠勝夫妻と次子忠朝の、伊豆小松石で出来た五輪の墓碑が町指定文化財として顕在している。

大多喜藩は忠朝の甥の政朝(まさとも。甲斐守)があとを継ぎ、忠朝の法名(戒名)から三光院良玄寺と寺号を改め、この年11月15日に百石を寄進している。

大多喜忠勝公園 忠勝公園から見た大多喜城

▲良玄寺墓所に隣接した忠勝公園からは遠くに大多喜城が見える
良玄寺に伝来する有名な、忠勝が土佐派の絵師に描かせた肖像画「鏡の御影」こと九幅の紙本着色本多忠勝像は、元禄4年(1691)本多宗家6代忠国の元に渡り模写が奉納され、現在は県指定文化財として県立中央博物館(大多喜城分館)に寄託されている。

金澤山三光院良玄寺(浄土宗)
所在地:千葉県夷隅郡大多喜町新丁180

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
○本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

 

◆余話◆その後の本多家
元和元年(1615)5月7日に大多喜藩主本多忠朝が大坂夏の陣で戦死。忠朝の長男の政勝が幼少のため、閏6月4日に甥(兄忠政の次男)の本多甲斐守政朝(初め忠氏、忠郷)が17歳で大多喜5万石を継ぐ。
元和3年(1617)政朝が播磨国龍野藩(兵庫県たつの市)5万石に転封。
大多喜藩には武蔵国鳩ヶ谷藩(はとがや。埼玉県川口市)から阿部正次が3万石で入封。
7月14日に本多宗家当主の忠政が姫路藩主(兵庫県姫路市)となり15万石を領した。

寛永3年(1626)5月7日忠政の嫡男忠刻が病死したため、翌年政朝が宗家を継ぐこととなった。
政朝が相続の際に5万石のうち4万石を忠朝の長男政勝に、1万石を政朝の弟能登守忠義に分け与えた。
政勝は母と共に姫路の郭内に住んでいたが、元は実父忠朝の遺領にあたるはずが勝手な分与の不満から出家しようとし、細川越中守らの説得で4万石のみの相続を承諾した。
寛永10年(1633)正月政勝は従五位下に叙す。

寛永15年(1638)11月20日政朝が亡くなる。
寛永16年(1639)政朝の長男政長6歳・二男政信5歳の幼少のため政勝の養子とし、3月3日に政勝が宗家を継ぐ
政勝は大和郡山藩(奈良県大和郡山市)15万石へ移封。政勝が分与されていた4万石を政長3万石・政信1万石に分与。
寛文2年(1662)政勝の養子政信が死去。政貞(政勝の実子三男、後の忠英)が政信の養子として政信の遺領1万石を継ぐ。

寛文11年(1671)10月30日政勝は江戸屋敷で死去。宗家を継ぐ養子政長に9万石、政勝実子の二男政利に6万石、俗に九・六騒動と呼ばれる分与が生じ、お家騒動に繋がる。
延宝7年(1679)政長が休死(政利の毒殺説もある)し、政長の養子忠国(水戸藩主松平頼元の子。徳川光圀の甥)が本多宗家を継ぎ陸奥国福島藩(福島県福島市)15万石に転封。
忠英が山崎藩(兵庫県宍粟市)1万石の藩主となる。
政利は明石藩(兵庫県明石市)6万石へ転封となるが、その後の素行で減封を兼ねた転封の末除封となってしまう。
天和2年(1682)忠国が播磨姫路藩15万石に転封。
宝永元年(1704)3月21日忠国が死去し、忠国三男の忠孝が宗家を継ぐが幼少であったため越後村上藩(新潟県村上市)に移封となった。
宝永6年(1709)に忠孝が12歳で早世。
宝永7年(1710)忠英の長男忠良が宗家を継ぐこととなった。しかし15万石から5万石の減封となり三河刈谷藩(愛知県刈谷市)に転封となってしまう。
正徳2年(1712)7月12日忠良は更に下総古河藩(茨城県古河市)へ移封。

忠朝の男子の血筋としては、宗家を継いだ★政勝→山崎藩主★忠英の系譜になる。
・【本多宗家】忠英の長男★忠良は本多宗家を継ぎ→長男★忠敞(急死)→養子の忠盈(信濃国松代藩主真田信弘の六男)→忠敞長男★忠粛→忠盈実子→養子忠顕→四男忠考→婿養子忠民→婿養子忠直→忠考の孫忠敬……
・【山崎藩主】忠英の次男★忠方→忠英三男★忠辰→長男★忠堯→妹婿☆忠可(越前丸岡藩主有馬孝純の次男)→長男☆忠居→次男☆忠敬→忠居四男☆忠鄰→次男☆忠明が山崎藩最後の藩主となる。