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>M様(林忠崇の年表の資料について)

当サイトの林忠崇の記事は各藩の記録文書、従軍者の日記、宿場の宿帳等も参考にしていますが、他カテゴリーと合わせて古文献の数が多いため郷土資料リストは準備中となっています。個人の趣味のWEBページですので遅延につきましてはご容赦下さい。
また、年表も今後の記事の更新に合わせて追加・修正していくので完全ではございません。

M様が現時点でどの程度お調べになっているかにもよりますが、最近興味を持ったのでしたら、林勲著『上総国請西藩主一文字大名林侯家関係資料集』が林忠崇研究の入門書といえます。この資料集の引用元資料を順々にあたっていくのが良いと思います。
戊辰年の行動は林忠崇の『林昌之助戊辰出陣記』や家臣、遊撃隊士、岡崎藩士らの日記をベースに、東北諸藩や官軍側の記録で確認をとる流れです。
上記の資料集や近年再編集された従軍記など著作権が発生するものは当サイトの関連記事のいずれかの記事に1度は引用元として書名を記載しているはずですのでご確認下さい。

M様が既に林侯家関係資料集の引用元の大半の資料に目を通していて、当サイトの年表で分からない箇所があれば、どの部分かを具体的にお伝え下さい。

空知集治監と看守長伊藤常盤之助のこと

前列右から2番目久代樫郎看守長の子孫所持の写真「明治廿四年二月十一日 空知集治監構内ニ寫之」「千葉縣 伊藤常盤之助」裏書有り

明治24年に空知集治監構内で撮影された看守長達の写真
後列左から2人目が伊藤常盤之助(いとうときわのすけ)

常盤助は上総国木更津村(現千葉県木更津市)南町紺屋島屋当主・幸左衛門の次男として生まれた。大河内三千太郎の一か月後か)
文久3年(1863)7月17日大河内一郎(三千太郎の父)が死去。
慶応4年(1864)の戊辰戦争では4月に不二心流島屋道場の大河内兄弟と門下の町人達が義勇隊を組織して幕府撒兵隊に協力し閏4五井・養老川の戦いに敗退、戦死または本家の西小笹等へ走り散り散りとなった。
島屋は協力した嫌疑をかけられ、8月24日に一郎のあとを継いで最後の南町島屋当主となったと思われる幸左衛門が亡くなっている。後に南町島屋の土地は明治政府に接収された。

西小笹の本家大河内喜左衛門が明治2年伊藤と改め、常盤助ら木更津の幸左衛門一族も伊藤とした。(心形刀流伊庭軍兵衛に入門し伊庭八郎とも知己であろう三千太郎は彼と同様に箱館まで従軍し戦った。放免後は東京で榊原健吉の撃剣会興行に加わり、大河内のままである)
常盤助は妻さくと共に木更津寺町(後の伊藤染店・志摩屋の場所)で暮らす。

明治8年(1875)3月の寺町火事で家屋が類焼。それからは宮本栄一郎著『上総義軍』に「ときわのすけ」が幸左衛門の後妻きた(鈴木家娘)を伴い北海道に渡ったという聞き語りがある。
北海道に渡った常盤之助は明治15年(1882)石狩国空知郡市来知村(いちきしり。現三笠市)に開庁した空知集治監(そらちしゅうじかん、しゅうちかん。刑務所)に監獄官として勤めた。
明治24年(1891)2月11日に空知集治監構内での写真に写っており、5年間勤めあげた看守は試験を経て看守長に任用されること(明治23年公布。後に短縮)から、三千太郎と同時期の22年頃より空知監の看守であったと思われる。
そしてキリスト教に感化を受け、この年に空知監に赴任した教誨師(きょうかいし)留岡幸助(とめおかこうすけ)のもとで11月29日の夜に伊藤松太郎(後に常盤之助の家業を継ぐ)も洗礼を施されている。
明治26年夏に市来知の教会堂を岩見沢へ移転する臨時集金に常盤之助は50銭を寄付。8月28日に50銭寄付。(『留岡幸助日記』)
明治27年(1894)1月常盤助が空知分監看守部長に任命される。
3月北海道集治監判任官十級俸の看守長となる。
明治28年(1895)1月から判任官九級俸となり、30年頃には市来知村に転籍を済ませて定住していた。

 

▲1882年~市来知村近傍鳥瞰図と空知集治監典獄官舎レンガ煙突(鳥瞰図北西)
典獄(刑務所長)や集治監を訪れた要人達が宿泊する官舎跡に現存する高さ約8mの煙突。明治23年に官舎が改築された時のもので囚人達によって造られた。三笠市指定文化財。※鳥瞰図は三笠市立博物館展示パネルより

 

明治34年(1901)に空知集治監が廃監となり、三千太郎が上川尚武館の館長も務める旭川町へ移住した。
明治35年(1902)四條通七丁目右十號に転籍手続きを終え、屋号紋『』の伊藤海産問屋(鮮魚・干魚乾物商)を営んだ。
松太郎を店主として大正時代には師団通りの発展と共に栄えた。
常盤之助は家族と共に日本組合派旭川基督教会の会員として大正時代の名簿にも住所と名前が確認できる。

同じ教会員として、映画化もされた三浦綾子著『塩狩峠』の主人公永野信夫のモデル長野政雄(ながのまさお)と伊藤家が親交があったことが中島啓幸著『塩狩峠、愛と死の記録』に紹介されている。
明治42年(1909)2月27日、旭川鉄道運輸事務所書記の長野政雄は名寄に出張へ行く途中で伊藤海鮮魚店に立ち寄り、友である伊藤光子に挨拶をしたという。
翌28日夕方に長野は名寄駅発4両編成の汽車の最後尾に乗る。塩狩峠の頂上付近で最後尾の連結が外れ、乗客22人を乗せたまま分離車両が峠を逆行して滑り加速していく……脱線転覆を恐れる乗客を鉄道員の長野が落ち着かせデッキに飛び出してハンドブレーキを回し、大惨事を免れたが、乗客達の命を救った長野は車両の下敷きとなり29歳の若さで殉職。常盤之助が住む伊藤家が、旭川の街で長野政雄が最後に訪れた場所となったのである。

 
▲現在の旭川の伊藤海鮮魚店跡付近

■■不二心流と木更津「島屋」■■

 

■空知集治監
 内務省は郁春別(いくしゅんべつ)川筋に沿い、東はポンベツ川・西は石狩川を境とする約10万6千haを直轄地として開拓使から引渡しを受けた。空知集治監は監獄としての役割の他、開拓・行政の責任も担い、道内の集治監のなかで最大の約三千人もの囚人が収監されていた。
 空知集治監創設時の建物は、獄舎2棟(各247坪)、事務所1棟、ほか浴室・死体室・米搗場・米庫・調度庫・小買物渡場・物置・理髪所・菜焚所・塩味噌設置所・賄所・門番所・炊事場各1棟・合宿所2棟・交番所4棟・高見張所2棟・官舎7棟等。空知集治監の建築経費は10万円(現在の約4億5千万円)と見積もられている。獄舎は直径1尺(約30cm)程のトドマツ丸太を組合せ、当時のロシア式建築による堅牢な構造。本監構内の敷地はおよそ12町余(約12万㎡)で、外側に張巡らせた黒塀の三方の隅に脱走に備えた高見張所が設けられた。

明治12年(1879)12月石狩国空知郡幌内炭礦(ほろないたんこう。炭鉱)開坑。
明治13年(1880)10月石狩国樺戸郡須部都(後の月形村)に樺戸集治監を設置。
明治14年(1881)9月3日内務省直轄樺戸集治監開庁式。
明治15年(1882)2月に開拓使が廃止し札幌・函館・根室3県を置く。
札幌県下石狩国空知郡市来知村が開村。人口908人・戸数87戸。村名は“それ[熊]の足跡がたくさんある所”を意味するアイヌ語の地イ・チャル・ウシからとり、開墾前は原野であった。
6月15日市来知に空知集治監を設置し7月5日開庁。。反政府思想の革命運動に参加・扇動した国事犯の受入れや、道路開削・炭鉱採掘の囚人労働力の需要が見込まれた。9月に空知集治監幌内外役所を設置。11月13日に幌内鉄道が開通。
明治16年(1883)空知集治監に教誨師が置かれる。7月に囚人による幌内炭礦の採掘が開始。
囚人は周辺の土地開拓を進め、炭鉱従事の他、5月~10月まで農業、11月~4月まで山林の材木または監内の工芸を課役とした。
明治17年(1884)4月17日、樺戸・空知両集治監の看守に銃器の携帯を許され、短騎兵銃50挺借用。
明治18年(1885)11月10日釧路集治監開庁。
明治19年(1886)1月26日に北海道庁を置き3県を廃止、空知集治監は北海道庁管轄に入る。
5月、市来知村から上川郡忠別太に至る上川仮道の開墾(8月竣工)
この年、市来知に札幌基督教会系の講義所が設立される。
明治20年(1887)1月4日、樺戸・空知・釧路の集治監を監獄署に改称。4月に上川仮道の改築。
7月28日新島襄・八重夫妻が空知監獄を訪れキリスト教について講話する。
明治21年(1888)囚人労役により市来知水道完成。
明治22年(1889)上川道路改築。
明治23年(1890)7月22日、樺戸・空知・釧路の監獄署を集治監の名称に戻す。
明治24年(1891)7月30日北海道集治監官制が制定され樺戸に本監、空知・釧路・網走に分監を置くとし、北海道集治監空知分監となる。
明治25年(1892)炭鉱労役が軽減。8月13日自由党総理の板垣退助らが空知分監を訪れ獄中の同志を慰問。
明治27年(1894)空知監幌内外役所を廃し、採炭事業の囚人使役を廃止。
明治29年(1896)4月1日に拓殖務省が置かれ、空知分監は拓殖務省へ移管。
明治30年(1897)9月2日拓殖務省官制廃止。空知分監は内務省直轄に戻る。
明治33年(1900)4月司法省官制が改正し、監獄局が司法省管下となる。
明治34年(1901)9月30日に空知分監廃止。

「空知集治監典獄官舎レンガ煙突」所在地:北海道三笠市本郷町205-23

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>H様
お問合せの保科正益の年表内、同行家臣74人小銃31挺携行…については
華族従五位保科正益差出『諸御達願伺及履歴取調書』に収録の
戊辰3月27日差出の嘆願書の別紙に、
同行の家臣全員の名簿や他の所持武器と共に記載されています。
※当サイトでは略年表につき省略しています

写真はおそらく一般書籍化されている全国大名肖像集のようなものにも載っていると思いますので、そちらを確認すると詳細に見ることが出来るかと。

数が多いため参考元古文献リスト化と記事への紐付けが先延ばしになったままで申し訳ありません。
H様の飯野藩についての調べものが捗れば幸いです。

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忠孝の士・請西藩士諏訪数馬

 

▲請西藩士諏訪数馬の墓
数馬が館山で没し埋葬された来福寺から諏訪家の墓所に移した墓碑。郷里で諏訪家が建てたであろう奥の古い先祖の墓石にも数馬の戒名(恵光院善忠元鑑居士)がみえる。
※本家の親戚の方に伺いを立て墓参しました。現在は個人管理下のため詳細を求める問合せはご遠慮下さい。

『諏訪数馬肖像并略伝』『忠考』(林忠崇の筆・明治30年)


林忠崇筆『諏訪一馬肖像並略伝』
 諏訪頼母ノ孫ナリ。幼ニシテ父ヲ喪ヒ祖父頼母ニ養ハル。性従順ニシテ謹直ナリ。幼ニシテ先藩主の側ニアリ。長シテ近侍トナル。身多病ニシテ武技ニ耐ヘズ。一藩擯斥シテ遊行ノ士トナス。戊辰ノ年久シク病床ニアリ。余出陣スルにアタリ、ソノ病躰ヲ思ヒ随行ヲ許サズ。数馬従軍ヲ請フコト再三終ニ強ルヲ以テ之ヲ許ス。従テ、房州館山ニ至る。身躰疲労シテ行歩最モ艱ナリ。自ラ思ヘラク、身躰斯ノ如シ。終ニ素志ヲ達スル能ハジト剱ニ伏シテ自殺ス。今ニ至ルマテ墓前ニ参詣スルモノ不絶。抑々其大和魂ニ感動スルカ故ナリ。嗚呼始アリ終アルモノ少シ。世人ソレ之ヲ亀鑑トセヨ。
 明治三十年十月偶数馬遺族ノ家に寓シ感慨ニ耐ヘズ依テソノ行為ヲ略記シ、併テ当時ノ像ヲ画シ以テ記念トス。
「散りてのみふかき香りのいまもなほ のこるや花のなさけなるらむ」
旧請西藩主従五位林昌之助忠崇入道一夢

(画は木更市津郷土資料館フライヤー・略伝文章は林勲『林侯家関係資料集』より引用)

 

■諏訪数馬
天保6年(1835)貝渕藩諏訪幸右衛門(兵平。地曳家から養子。林忠英忠旭の二代に仕える)と母りか(当時34歳)の間に生まれる。
嘉永2年(1849)9月4日に父を亡くし、祖父頼母(林忠英に仕え貝渕陣屋の陣代を務めた)に養われる。
幼くして請西藩主林忠交の近侍となる。
江戸浜町の請西藩邸の対岸、本所松井町(現千歳町)の中西福太郎の娘せい(数馬より4歳上)を妻とした。
文久元年(1861)頃に息子の篤太郎誕生。
慶応3年(1867)6月に忠交が伏見で亡くなると忠崇に仕えるが、数馬は生まれつき病弱で満足に仕えられないことを憂いていた。

慶応4年(1868)戊辰閏4月の忠崇決起の際、数馬は病床(労咳とされる)にあり従軍を認められなかったが、再三請いた末に同行を許された。
8日に房州館山に着き長須賀の来福寺付近に宿陣。伊庭八郎が雨中に小船で軍艦大江丸に漕ぎ着け伊豆真鶴への出航を依頼し、豪雨のため一泊し乗船を10日とした。
宿所で考え耽る時間を過ごしたのだろう数馬は、歩行すらままならず、これ以上は主に迷惑をかけるとして、その命を以って徳川と林家にかける忠義の覚悟を表明しようと決意する。
9日朝6時台、数馬は遺状を懐に入れ、剣に伏して自害した。33歳。
来福寺に埋葬された。恵光院善忠元鑑居士。

長須賀村宿陣中卯ノ下刻家来諏訪数馬自殺ス 近来多病ニシテ久ク勤役セス空シク録ヲ食ムコトヲ嘆キ請ヒテ随従シ此處マテ到リシモ歩行難儀ニシテ従行難ヲ憂ヒ死シテ素志ヲ表セント此ニ及フ
時三十歳同地長須賀来福寺ニ埋ム 『林昌之助戊辰出陣記』
 ※年齢は誤りか

 

長須賀薬師 海富山医王院来福寺
かつては来福寺の境内に数馬の墓があった。
数馬の子の篤太郎は明治6年(1873)2月22日に13歳で早世したため大井村の伊丹家から嶋治を諏訪家の養女さくの婿に迎え、明治32年(1899)に千葉県士族に編入認許される。
三代の孫にあたり市原市議会議員を務めた諏訪孝(たかし)氏が郷里の諏訪家の墓所を整える際に来福寺より数馬の墓を移し迎えた。没した館山の地で忠孝の士として拝まれていた長い年月を経ての帰郷となった。
来福寺所在地:千葉県館山市長須賀46-1

また数馬の父親の実父、大田村の惣名地曳新兵衛の家から大河内三千太郎なおが嫁いでいる。

『週刊ビジュアル江戸三百藩』62号に請西藩

本日発売の『週刊ビジュアル江戸三百藩』第62号に請西藩関連の写真を提供しました。

全号集めると江戸時代の全315藩が網羅できるという分冊百科です。
第62号の「三百藩総覧」特集藩は土佐・浜松・請西・高岡・今尾・三春藩。
今号が初登場の請西藩が筆頭ページで、大まかな藩史、年代・人物記として林忠英(貝渕藩初代藩主)のこと、本号の年代記の締めとして林忠崇の出陣について触れています。
他、コラム形式で請西藩や陣屋のあった木更津にまつわる風土の歴史を紹介。

これまでに他藩との混合の雑誌で請西藩が紹介されるとしたら、真武根陣屋跡と林忠崇の出陣について触れる程度だったでしょうが、きちんと順を追って紹介する試みのようです。
ナンバリングが完了していないので、今後の再特集で忠旭忠交に軽く触れつつ忠崇メインの人物記が続くのでしょうか。
請西藩に興味がある読者として欲を言えば、忠旭の印旛沼古堀筋普請御用・忠交の伏見奉行でのこともたっぷり掘り下げてもらえたらと(このあたりは私ものんびりと調べ途中なので)次が楽しみです。

週刊なので、書店での購入はお早めに!

▼以下、当誌の内容を含む感想です

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請西藩の記事で松平親氏銅像写真をバーンと持ってくる雑誌はなかなかないですよ!
林家は徳川恩顧~と文字で書かれても、井伊・本多・酒井・榊原等の德川家康の側近達の印象が強いせいでイメージがわき難いところを、家康の祖先の時からの家臣なんだぞと分かりやすい誌面になっているのがさすがです。

そして「鼠小僧」のエピソード。鼠小僧次郎吉は義賊伝説が定着しているため、林忠英の侫人像を語る際に、他大名の盗難被害やその背景を伏せて「忠英は義賊の標的になった」と悪印象を付ける定番事件です。
忠英の経歴として扱うとなると次郎吉について伝説ではなくきちんとした資料を引き合いに一々解説しなければならないので、あえて別枠扱いにするものですが……この江戸三百藩ではきちんとフォローも入れて、かつ読みやすくまとめていて感心しました。

私の考えでは、次郎吉の行動範囲に貝渕藩邸があったからというそっけない前提から始まりますが、いずれこのブログでも書いてみたい題材です。

 

最後に個人的な蛇足。
市内に陣屋が存在した藩なので「木更津=請西藩」という図式で木更津市のことが色々紹介されてますね。木更津甚句は島屋の記事で子孫として名前をだした伊藤勇吉町長の奨励が再流行に一役かったそうです。
そして江戸時代の当地は実際は地区、時代ごとにそれぞれの領主がいました。
請西藩は主に貝渕・請西・桜井・太田・相里・烏田村を領しています。
かつての木更津村である現在の木更津駅周辺は飯野・館山藩領や幕府直轄領等経て幕末の頃は前橋藩松平家の領地でした。

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