本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として

大坂夏の陣図屏風本多忠朝

本多出雲守忠朝 (ほんだ いずものかみ ただとも。画像は『大坂の陣合戦図屏風』天王寺口で戦う忠朝)
通称は内記(ないき)。幼年より徳川家康の側近くに近侍し、後に大多喜藩5万石の藩主となる。正室は一柳直盛(ひとつやなぎなおもり。監物。伊勢神戸藩・伊予西条藩藩主)の娘。
子は長女の千代(本多政朝室)、二女は山口主水(本多家家臣)室、嫡男の政勝(播磨姫路新田藩・大和郡山藩藩主)、養女に有馬直純の娘(政勝の妻の妹。黒田隆政室)

天正10(1582)年、忠朝は遠江国(静岡県西部)で、徳川四天王こと本多忠勝(ただかつ)の二男として生まれる。幼少の頃は「大入道」と號す。
母は忠勝の正室於久の方(阿知和右衛門玄銕の娘。見星院)
姉は長女稲姫(小松姫。天正元年生、幼名は子亥/ねい。家康の養女として真田信之に嫁ぐ。母は側室乙女の方)と次女もり姫(奥平家昌室。法明院。母は乙女の方)、兄は嫡子忠政(天正3年生。伊勢桑名藩主)、妹に本多備中守信之室、松下三十郎重綱室(母は側室)、蒲生瀬兵衛室。

◆父・本多忠勝の大多喜入城
天正18年(1590)8月、徳川家康の関東転封に伴い、本多忠勝が43歳で上総国大多喜10万石(千葉県夷隅郡大多喜町)に入封。当初は万喜城に入城したとみられる文献や、根古屋城に入城した等諸説ある。
忠勝は商業政策として市を開かせ(元禄時代から始まる六斎市の原型か)、万喜城の旧城主土岐頼定の旧臣を召抱え土豪の掌握と軍役人員を補強したとされ、この時厚遇した藤平冶右衛門は大坂役で忠朝と共に戦死している。
この年、17歳の小松姫が真田信之に嫁ぎ上野へ行き、熊(ゆう。徳川家康の孫娘)姫が忠政に嫁いだ。
天正19年(1591)忠勝は陸奥国九戸(くのへ)一揆討伐のため岩手沢へ家康に供奉。翌年、豊臣秀吉の朝鮮出兵のため忠勝は家康に従軍し肥前国名護屋(なごや)へ向かい先駆。翌年は肥後国の梅北一揆(島津家の家臣梅北国兼が首謀者)鎮圧に出動。
文禄4年(1595)9月25日に忠勝は了学和尚を大多喜城下に招いて良信寺(現良玄寺)を建立。
慶長元年(1596)4月14日兄忠政の長男平八郎(後の忠刻/ただとき。忠為。播磨姫路新田藩初代藩主。母は熊姫)が生まれる。
慶長2年(1597)11月~12月に忠勝が領内を検地。
慶長4年(1599)兄忠政の次男の鍋之助(後に大多喜藩を継ぐ政朝。母は熊姫)が生まれる。

岡崎城の本多忠勝像 大多喜城主本多忠勝公

▲忠朝の実父・本多忠勝像(左は岡崎城、右は大多喜行徳橋)

■本多忠朝は初陣で賞され大多喜城主となる
慶長5年(1600)9月15日、19歳の忠朝は関ヶ原の戦いに父忠勝と共に従軍し、初陣となる。
本多本隊は兄忠政が率いて秀忠に従い上田城攻めに加わったため遅参し、忠勝隊の兵数は大軍とは言えなかった。
徳川本陣に向けて決死の敵中突破を決行した西軍の島津義弘の島津本隊・先陣の島津豊久率いる佐土原衆により徳川方の井伊直政が負傷し、忠勝も家康から貰った名馬三国黒(みくにぐろ)を撃たれた。本多家与力梶金平勝忠が自分の馬を差し出す間、忠朝は島津軍中に進撃し大声で名乗りを上げて敵を引き付け果敢に戦った。忠勝も戦線復帰すると島津軍を追い立て戦功を得る。
忠朝は島津兵を討ち取り首二級をあげ、忠勝のもとに戻ろうとした時には血にまみれた太刀が反り曲がって鞘に納まらないという勇ましさは家康に「今日のはたらき、ゆくすえ父にも劣るまじき」と賞賛された。

慶長6年(1601)正月一日、忠朝は20歳で従五位下出雲守に叙任され、忠勝の旧領のうち大多喜5万石を拝領し分家する。大多喜城の城主として城持ち大名となった。
共に関ヶ原で戦功をあげた父の忠勝は54歳で伊勢国桑名10万石移封となる。忠勝の側室乙女の方、嫡男忠政や忠政の子達と共に桑名へ移る。
この時、忠勝の正室である忠朝の母お久の方のみは大多喜に留まった。
慶長8年(1603)2月に家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開く。10月に切支丹御条目の制令が平沢妙厳寺に建てられる。

関ヶ原古戦場 大多喜城

関ヶ原古戦場と現在の大多喜城

 

■大多喜城主としての忠朝
慶長10年(1605)忠朝、堀之内貴船大明神の社殿を建立。
慶長14年(1609)2月に忠朝は国吉原の新田開発に着手し9箇条の開発掟を発令。
4月に桑名で忠勝が隠居する。
9月5日にドン・ロドリゴ一行の新スペイン(現メキシコ)船サンフランシスコ号が大多喜藩領の岩和田(いわわだ。現御宿町)沖で座礁、田尻の浜に漂着し村人によって317名が救出される。
10月13日にロドリゴ一行を大多喜城下招き歓待した。
ロドリゴが江戸、駿府、京坂、豊後国へと西行し帰国するまでの間、忠朝は度々書状を送り親善を深めたという。

慶長15年(1610年)10月18日、忠勝が63歳で桑名にて病没。大多喜の菩提寺良信寺にも分骨して葬る。
忠勝は生前に家老の松下河内に、忠政は嫡子なので遺跡を継がせ武具馬具茶具等の貴重品を悉く譲り、次男忠朝には小身(地位が低い)だからこそ蓄えの黄金1万5千両を与えよと命じる遺書を渡していた。
それを河内に告げられた忠政は「嫡子なので親の遺跡や遺物を所有するのは当然でたとえ遺言でも弟に貯蓄を渡すという非道には従えない」と怒り、黄金を忠朝に与えなかった。
河内は仕方なく忠朝に経緯を告げると、忠朝は機嫌を損ねずに「私は小身だから金銀は多く使わないが、父の跡を継いで濃州の主となった兄は多くの家臣を持ち変乱時に軍用もかかる。父は私を愛して遺言を残したが、義において金は受け取れません」と潔く言った。
これを伝えられた忠政は驚き恥じて黄金を惜しむ心も無くなり忠朝に贈り、しかし忠朝は次男の身であると言って受け取ろうとしなかった。
一門一族は兄弟の意志を察して黄金を兄弟で半分ずつ分配するよう取成した。
忠朝は急用時に受取るとして忠政の蔵に預けたままにし、生涯一金も手に取らなかった。(『古老雑話』)

慶長16年(1611)忠朝は万喜原の新田開発(現いすみ市)に着手し6箇条の開発掟を発令。新田開発を行った者に3年の諸役と年貢免許という手厚い免除を定めた。
この年、領地の泉水寺郷内で良信寺に100石を寺領を寄進する。
慶長18年(1613)9月14日に母お久の方が大多喜城内で没し、良信寺に葬る。
慶長19年(1614)安房国館山藩(千葉県館山市)の里見忠義(さとみただよし。11万2千石)が改易となり、9月に忠朝は佐貫城主内藤左馬助政長と共に、忠義の館山城を破却し没収された所領の守衛を命じられる。9日に館山城を受取り、里見家の者を下旬までに退去させ、20日に取壊し終えた。
この年、忠朝の次男、入道丸(政勝)が生まれる。

大多喜地之絵図 上総大多喜城絵図

大多喜地之絵図と上総大多喜城絵図
ドン・ロドリゴの『日本見聞録』に忠朝が城主時代の大多喜城の様子が記されている。
城は町より高い天然要害といえる場所に建ち、第一の門を入ると深い濠が一つあり上げ下げのできる防衛を備えたつり橋が架かっている。
巨大な城門は鉄製で、濠に面した城壁は縦横6バーラ余(約5m)に畳壁が盛られ、百人程の城兵が火縄銃を持って立っている。
城門の内側には壕と庭園、篭城時に賄える菜園や稲田までもがあった。
約100歩先の第二の門は、表門よりやや低い切り石の城壁が築かれ、槍兵が30人警護していた。
4、50歩先にある城主の宮殿(屋敷)は地震にそなえて木造で土台の基礎工事も優れている。数々の部屋は金銀細工が施され、彩色も美しく床から上方まで目を見張るものがある。
武器庫は将軍の管理するものと思えるほどに立派なものだった。

大多喜城薬医門 大多喜城大井戸

▲古い面影が残された大多喜城二の丸跡の薬医門大井戸
本多忠勝・忠朝が城主時の慶長年間(1598~1614)に掘られたとされるニ十数個の井戸の一つ、周囲約17m・深さ20mの大井戸は、地山の泥岩を加工して切石積の井戸側とする構造。当時は8個の滑車と16個のるつべ桶があり、水がつきることなく湧き出ることから「霧吹ノ井戸」「底知らずの井戸」と呼ばれてていた。
前城主正木大膳が八幡宮の託宣により掘られ破棄した「大膳井(たいぜんいど)」跡や不動院(圓照寺)の尽きない水を引いた等の伝承がある。井戸は大東亜戦争時に半ば埋立られたが昭和21年に復元されている。
薬医門は天保13年(1842)の火災後に建築された二の丸御殿の門。現在の大多喜城建造物唯一の遺構。
明治4年の廃藩の際に払下げられたが大正15年に県立大多喜中学校の校門として寄贈され、後の大多喜高等学校校舎建築の際に一旦解体保存されたものを昭和48年に修理が成された。

○本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

丸に立葵

▼参考資料(講談・軍記物含む)
・『大多喜町史』
・『夷隅郡誌
・『岡崎市史
・『房総叢書
・戸川残花『徳川武士銘々伝』『三百諸侯
・湯浅常山『常山紀談
・『系図綜覧』『本多系図』
・『系図纂要
・『寛政重修諸家譜』
・『本多忠勝家譜』
・『徳川実記』『當代記』『駿府記』
・『房総の郷土史』
・『千葉文化』
・『探訪ふるさとの歴史』
・『本多忠勝・忠朝ものがたり』
・小和田哲男『戦国武将の合戦図
・市原允『わがふるさと城下町』『大多喜城物語』
・藤沢衛彦『日本伝説叢書・上総
・『千葉県史料』
・岡島成邦『房総里見誌』
・安川惟礼『上総国誌』
・『大多喜社寺書上』
・徳富猪一郎『近世日本国民史』
・『日本の戦史
・熊田葦城『日本史蹟
・岡谷繁実『名将言行録
・岡田溪志『攝陽群談・河内名所鑑
・黒川真道『新東鑑
・新井白石『藩翰譜』
・北条氏長『慶元記』
・『武将感状記』
・『校合雑記』
・『難波戦記』『大坂記』『大坂軍記』『真田三代記
・企画展図録『本多忠朝の時代』
他、資料館等案内、遺跡調査報告、史蹟案内板等
▼関連リンク
・大多喜町:http://www.town.otaki.chiba.jp/
・千葉県立中央博物館 大多喜城分館:http://www2.chiba-muse.or.jp/?page_id=59