▲玄武館址と瑶池塾址の顕彰碑
千葉周作はここに玄武館を開いて北辰一刀流の剣術を指南し、玄武館の西隣に東條一堂は瑤池(ようち)塾を開いて儒学と詩文を教授した。
千葉周作は寛政6年(1794)正月元旦に陸奥国(宮城県)栗原郡荒谷村に生まれる。
父幸右衛門に北辰夢想流の剣を学んだ後、義父浅利又七郎義信の門に入り小野派一刀流を修め、更にその師中西派一刀流中西忠兵衛に学び心気力三者一致の妙諦を悟るに至った。
周作は家流の北辰夢想流の北辰と伊藤一刀斎の一刀流を併せて実用に適する組型を創定しこれを北辰一刀流とし、文政5年(1822)秋、江戸の日本橋品川町に北辰一刀流の道場「玄武館」を開く。
文政8年、神田お玉ヶ池に八間四方玄関は破風造りの立派な道場を構えて移る。門下総数は5~6000名を下らないといい、嘉永年間に浅草観音堂に額を奉納した際の門弟の署名は3600余名。
身分を問わず歳末の大試合の成績によって門弟達の次席を定め、森要蔵・庄司辨吉・塚田孔平・稲垣定之助(第一回は森要蔵・海保帆平・岡田金平・平手造酒破門後稲垣文次郎)ら「玄武館四天王」等の剣豪、清川八郎、櫻田良佐等を輩出。
水戸藩主徳川斎昭、慶篤の二公に仕え天保6年(1835)水戸藩校弘道館に師範として出仕。
安政2年(1855)12月10日病没、享年62歳。浅草誓願寺内の仁寿院墓地に葬られ、後に改装。明治44年に本郷区菊坂町(現文京区本郷)から移転した本妙寺(豊島区巣鴨)に墓が在る。
周作は剛毅風貌魁梧、身長六尺に近く眼光炯炯として威厳があったという。
周作のあとも玄武館では坂本龍馬、有村次左衛門等の多くの志士が薫陶を受けた。
安政2年に久留米の剣客松崎波四郎が千葉の弟子との対戦後に「千葉(周作の次男の千葉栄次郎)の技は天下一品」と語ったことから『技の千葉』とも呼ばれた。
※北辰一刀流「玄武館」・鏡新明智流「士学館」・神道無念流「練兵館」の『江戸の三大道場』の呼称は後世の造語らしく、幕末には道場主を称して「三剣客」「三天狗」とのみ呼んでいたという。
安政4年、隣の瑤池塾の土地を譲り受けて拡張し、三男千葉道三郎に引継がれた。
▲右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)の碑文
東條一堂は安永7年(1778年)11月7日、上総国埴生郡八幡原村(現在の千葉県茂原市八幡原)に生れる。名は弘。
天明7年(1787年)江戸の古学者亀田鵬斎、寛政5年(1793年)京都の儒学者皆川淇園に学びに漢学の大家と成る。
文政4年(1821年)に神田お玉ヶ池の玄武館の西隣に「瑤池塾」を開いて諸生に儒学と詩文を教授した。門人3000余名。
一堂門下三傑と称された清川八郎・那珂五郎・桃井儀八(もものいぎはち)や安房国出の鳥山新三郎等多くの志士や、上総国出身の政治家高橋喜惣治等を輩出した。
幕府の閣老阿部正弘を始め庄内藩等の各藩公に召され常に輿で送迎されたので「輿儒者」と称される。
著書百二十部の中でも四書知言五辨等が有名。
参考図書
・かみゆ歴史編集部『大江戸幕末今昔マップ』