11月14日から今日までの3日間、木更津市立中央公民館にて「西上総文化展」が開かれました。
旧君津郡地域の郷土を研究する西上総文化会主催の第66回目になる展示会です。
飯野藩関連の資料も出品されるとのことで、昨日見学に行きました。
ホールの壁と机に文献や軸物、詩や画や写真、歴史系冊子(私が持っているものもいくつか有って、くすり)等がずらりと並んだ充実の展示会ながら、史料には別紙で手作りの解説が添えられていて個展のような温かみもしっかり感じられました。
請西の長楽寺出品の小松宮彰仁親王(戊辰戦争で官軍の指揮を執り、その後も多く軍事や公務を担った皇族ですね)筆の軸や、貝渕の伊藤川魚店出品の明治初期の高札や同店伊藤氏(先々代でしょうか)が昭和期に記した眞武根陣屋史、重城保日記でおなじみ重城保(じゅうじょうたもつ)の書簡等大きなものがぱっと目につきます。
若めの見学者は戦時の新聞記事や満州の頃の絵葉書の前で足をとめていた印象です。
至徳堂コーナーには、儒学者の片山兼山(かたやまけんざん)のお墓のある明福寺(東京都港区)所蔵の資料や、至徳堂之碑や墓参時の写真が陳列されていました。
※至徳(しとく)堂は、文化14年(1817)8月に旧望陀郡巖根村(木更津市岩根)高柳出身の鈴木元明が、重城継之(重城保の父。高柳の名主)、時田祐(教授。同地区久津間出身)、正木幽谷(まさきゆうこく。詩家。里見忠義子孫。旧神納村/袖ケ浦出身)らと共に高柳の茶臼塚(銚子塚)に建てた学舎。付近が金田庄と呼ばれたため金田庄黌(こう)とも。
元明が尊敬していたのが片山兼山で、元明は兼山の手澤本古文考経一巻を埋めて碑を建てて奉ったそうです。
飯野藩の資料は数種有り、保科正益時代の文書、特に森要蔵に関する項を開いて展示されていました。
私は今のところ飯野藩の原紙・原本資料は、複製古書以外はほぼ複写頼りなので、こうした形で見学できるのは嬉しいです。
史料ではないですが佐貫藩絡みもちらりと有り、展示品を通じて郷土愛が深まりました。
来年の開催も楽しみです。
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写真は公民館を後にして向かった木更津駅の『レトロな“みなとまち木更津”へようこそ』パネル。
昭和4年当時の木更津町を描いた松井天山の「千葉縣木更津鳥瞰」は復刻版が販売されており、富士見町の飲食店でも貼られているのを見かけました。
他にも昔の街並み紹介のパネルが西口(港側)のいくつかの店舗に設置されているとのことで、今度のんびり散策してみようと思います。