講武所跡

講武所跡 講武所跡の案内パネル

講武所跡
ペリー来航後の政情から水戸中納言斉昭等を中心に軍制改革を提唱する動きがあり、旗本・御家人に剣術・槍術・砲術などを学ばせ士気をあげるために江戸幕府が武芸訓練場として設けた講武所(こうぶしょ)が、この案内板の前の道から神田川までの一帯に在った。

 

講武所の歴史
嘉永の末(1853頃)、直心影流の剣客男谷下総守精一郎(おたに。信友。勝海舟の伯父※系譜上は従弟)が武技の訓練所設立の建白を上申。

安政元年(1854)5月13日の老中阿部伊勢守正弘は、浜苑(現在の浜離宮)南側の泉水蓮池等を埋立てて幅1町半・長さ三町ほどの広場に大砲操練の場「校武場」を創るための調査を目付に命じたが、設立は中止となる。
10月8日に「講武場」建設場所の調査を行わせ、12月2日に鉄砲洲築地堀田備中守中屋敷の上地、越中島調練場、筋違橋門外四谷門外(設置見合わせ)にそれぞれ建設を命じる。

安政3年(1856)春に築地堀田邸の地に総建坪1601坪余、1609畳・細畳3畳の講武場が落成。
3月24日に阿部正弘が「講武所」として創建を布達。
4月4日に久貝因幡守正典(くがいまさのり。旗本。娘が林忠交に嫁ぐ)・池田甲斐守長顕を総裁方とし、次席に跡部甲斐守良弼・土岐丹波守頼旨、先手に男谷精一郎等各役を定め、教授方として剣術は伊庭軍兵衛(惣太郎。心形刀流。伊庭八郎の養父)ら、砲術の頭取に下曾根金三郎・勝麟太郎(海舟)・江川太郎左衛門(英敏)らが任命されている。
4月13日講武所開場を前に、将軍徳川家定が私的に来臨。
4月25日に講武所の開場式が行われる。多くの来賓や見物人が集まり、教授方の弟子達による槍剣の試合や砲術打方演武が披露された。
5月6日に男谷精一郎が先手過人となり剣術師範役として出仕。
11月5日に将軍家定が公式に来臨。以降移転前まで年々臨場があった。
12月28日幕府は合薬座を設け、講武所附属とする。

安政4年(1857)閏5月に築地講武所構内に軍艦教授所(後に軍艦操練所)が設けられ、手狭になった講武所は移転を余儀なくされた。

安政5年(1858)正月14日深川越中島調練場完成。講武所の大規模な砲術調練は越中島で行われることになる。
10月、神田小川町(千代田区三崎町)の越後長岡藩(藩主牧野備前守忠恭)上屋敷周辺の土地7千坪への移転が決まり、翌年7月11日より起工。

安政7年(1860)正月15日講武所総裁を講武所奉行に改称。
26日小川町牧野邸の地に1970余坪の建物が完成し、講武所を移転。
2月3日に大老井伊掃部頭直弼(いい かもんのかみ なおすけ)らの臨席で開場式が行われる。

築地の講武所では剣槍砲の三術に水泳を加えて教授したが、場所の関係で水泳は軍艦操練所で行われここでは三術に柔術と弓術が加わった。(文久2年10月に柔弓術は廃止)
また兵学の講義は西洋流よりも伝統的な山鹿流が主流であったという。

3月3日に桜田門外で大老井伊直弼が暗殺され、この騒動の万一の備えとして11日より講武所に臨時泊番を置く。

文久元年(1861)4月5日、桜田門外の変を受けて将軍周辺の警護の強化が必要となり幕府は新たに親衛職の「奥詰」を新設し、講武所から伊庭軍兵衛ら50余人が登用された。
7月に稲葉兵部小輔正巳(いなばまさみ。安房館山藩藩主)が講武所奉行となる。

文久2年(1862)3月19日移転後初めて将軍徳川家茂が来臨。
4月8日、大関増裕(おおぜきますひろ。下野黒羽藩藩主)が講武所奉行となる。
11月15日大久保忠寛(ただひろ。一翁/いちおう)が講武所奉行に任じられるが、沙汰あって23日に罷免。
12月、講武所奉行大関増裕が陸軍奉行に転じる。

文久3年(1863)家茂上洛の際には伊庭八郎ら講武所の者達が随伴した。
家茂は大坂滞在中、玉造に臨時講武所を開設する。大坂講武所は城代1、加番2の3藩があたり、定番に武術稽古をつけるため講武所世話役45人を世話役とした。(飯野藩からは勝俣音吉等)

慶応2年(1866)11月18日、講武所が陸軍所へ引き渡される形で、講武所は廃止となる。
砲術師範達は陸軍所修業人頭取となり、残りの剣槍師範と職員達は遊撃隊に編入された。

維新後、講武所の地は陸軍の練兵場として使用される。
明治23年(1890)三菱会社に払い下げられて三崎町(みさきちょう)の市街地が開発された。

講武所の江戸復原図 江戸飯田町駿河臺小川町繪圖の講武所

▲江戸時代の切絵図と江戸復原図(案内パネルより)

■講武所付町屋敷(こうぶしょづきまちやしき)
幕府は筋違御門(すじかいごもん。現在の秋葉原にある万世橋と昌平橋の中間)外の加賀原(本郷代地~四ヶ町代地)を町屋に編入して講武所の維持費にあてたという。
明治2年に神田旅籠町(はたごちょう)と改称される。
この講武所上納代地は後に芸者街となり、俗に「講武所」と呼ばれていた。

講武所跡案内板所在地:東京都千代田区三崎町2-3-1 日本大学法学部図書館前

参考図書
・かみゆ歴史編集部『大江戸幕末今昔マップ
・東京市『東京市史外編3 講武所
・清水晴風『神田の伝説』
・勝安芳『海舟全集7