▲白河の戦地を流れる阿武隈川と柏野の野辺
柏野の村々は土佐兵により焼き払われてしまった。会津救援のために戦った、北辰一刀流千葉周作道場の四天王と呼ばれた森要蔵と飯野藩の脱藩士達は会津藩士の戦死者と共に阿武隈川岸、西郷村の大龍寺に眠る。
慶応4年(1868)6月12日 新撰組は上田八郎右衛門の「朱雀三番士中隊」、土屋鉄之助の「新練隊」、総督原田対馬の隊と合兵して雷神山より入道山・米(よね)まで進軍し官軍を散らす。
しかし米の北西にある熊倉口の友軍が敗走して戦況が変わり、新撰組は雷神山を引き揚げ柏野村・阿武隈川岸の台場で交戦。
やがて新政府軍の援兵が平潟港(ひらかた。茨城県北茨城市)に上陸し24日官軍参謀板垣退助率いる薩・長・土・大垣・黒羽部隊が棚倉城を陥落し東軍は勝機を失う。
7月1日 会津・仙台・二本松軍は熊倉口方面へ出撃。山口次郎(二郎、斎藤一)ら新撰組と森要蔵ら上総飯野藩(脱藩)兵は柏野逢隈(おおくま)川の塁を発して、雷神山の西軍を撃つ。
しかし官軍の援兵により砲撃に晒され、山口達は羽鳥野まで引き揚げて休戦。土佐軍は旧幕府軍の屯営地の村々や、拠点になり得る集落を焼き払った。
森要蔵親子ら飯野藩士5名戦死。
これ以降、新撰組の白河口での出陣記録は発見されておらず、土方歳三の戦列復帰に合わせ白河から最前線へと移動したとみられる。
7月28日に残敵掃討に出陣した土佐兵に会津兵は抗戦するも撤退し、この地での戦闘は絶えたという。
米方面の地形概念図は戊辰見聞館パネルより。撮影可でしたので個人日記に利用として掲載しました
■■伝習隊と新撰組■■
※伝習隊・新撰組と共に戦った飯野藩士達、大龍寺の墓については別途記事にします