飯盛山と白虎隊

会津白虎隊飯盛山自刃図 会津飯盛山 

▲会津新撰組記念館蔵「会津白虎隊 飯盛山自刃の図」と飯盛山
撮影可でしたので個人日記に利用として掲載しました

 

16、7(または年齢をごまかし15)歳の若き白虎隊(びゃっこたい)は、まず寄合白虎隊(中級士族の子弟で構成)が慶応4年(1868)7月12日越後口に出動命令、15日出陣。8月5日に西軍と衝突し寄合白虎隊は14日に奮戦。犠牲を出しながらも9月までよく戦い、籠城戦では三の丸の守備を務める。
次に足軽白虎隊(下級士族の子弟で構成。銃器乏しく本来なら戦闘に用いられなかったという)が太平口に向かう。推定65名中、戦死者4名。

そして8月21日母成峠の戦いで大勝した新政府軍が翌22日戸ノ口原に迫るとの報に、元会津藩主松平容保(かたもり)は、日向内記(ひなたないき)を隊長とする白虎隊士中(上級士族の子弟で構成)二番隊にも戸ノ口原への出動命令を出した。
白虎士中一番隊は春日和泉の屋敷に集合し待機。二番隊は主君の護衛を命ぜられ三の丸に集合し、容保の滝沢本陣督戦に従う。

豪雨の中、軍議(第一線の戦場へ急な出動で糧食もなく兵糧調達とも)に出た隊長の日向が官軍と遭遇し隊に戻れなかった。
23日早朝、日向に代わり篠田儀三郎の指揮で新政府軍を待ち構える。
午前5時頃、篠田の号令で白虎隊士達のヤーゲル銃での攻撃で開戦。
新政府軍2600の大軍と会津軍500の兵が激突するも火力の差は大きく、必死に戦った白虎隊も伊東悌次郎・池上新太郎・津田捨蔵が戦死。

撤退の最中、篠田ら白虎隊士は滝沢峠で西軍に遭い、永瀬雄治が腰を撃たれた。対岸の飯盛(いいもり)山を目指して戸ノ口洞門(用水路としての洞窟)をくぐる。
滝沢白糸神社から弁天祠の傍らに出た、炎に包まれる城下と黒煙にまかれた鶴ヶ城を目にし(落城と誤認との説もあるが定かではない)、負傷者もおり城下へ向かい敵に捕らわれるよりはと自決を選んだ。

午前10時から11時、遅れて辿り着いた石山虎之助含む二番中隊の17人が自刃。介抱され生き残った飯沼貞吉を除く16人が殉じた悲劇が起こった。
(飯沼は事切れる前に通りがかった印出新蔵の妻ハツもしくは渡部佐平と長男の嫁ムメに塩川の病院まで背負って介抱され息を吹き返した)

この日、藩主護衛の任につく白虎士中一番隊もまた北追手門で西軍を迎えうつも転戦のうち一時は田中土佐と共に自刃を望むが田中の家臣に諌められ中止し、25日に入城。転戦中の戦死者は10名を超えたという。

 

■会津藩正規軍
朱雀隊:18~35歳(主力。白河口など第一線に投入)
青龍隊:36~49歳(国境沿いの警備)
玄武隊:50歳以上(予備軍)
白虎隊:16~17歳(予備軍・伝令)

■白虎隊編成 ※各一番隊・二番隊の二隊
白虎士中隊(上級士族の子弟)
白虎寄合組隊(中級士族の子弟)
足軽隊(下級士族)

■自刃したと伝わる白虎士中二番隊の隊士
安達藤三郎・石山虎之助・井深茂太郎・津川喜代美・永瀬雄次・野村駒四郎・間瀬源七郎・簗瀬勝三郎・有賀織之助・石田和助・伊藤俊彦・飯沼貞吉(生存)・篠田儀三郎・鈴木源吉・西川勝太郎・林八十治・簗瀬武治

■戦死した白虎士中二番隊の隊士
池上新太郎・伊東悌次郎・津田捨蔵

 

酒井峰治の像 飯盛山案内図

▲飯盛山の酒井峰治(みねじ)と愛犬クマの像
明治17年(1884)に16人の墓が建てられ、6年後に戦死した3人が加わり19人の墓に改修された。

所在地:福島県会津若松市一箕町

 

津田捨蔵は会津藩江戸湾東海岸警備の際に上総国の竹岡(現千葉県富津市竹岡)で生まれたために「竹岡捨蔵」と称したという説もある。
石山虎之助もまた『白虎隊事蹟』石山虎之助君事跡に「上総国天羽郡竹々岡村會津陣屋に生る」とある。
詳細はいずれ会津藩の内房防衛と共に記事にしたいと思います