▲八重洲通りヤン・ヨーステンのモニュメント
1989年4月20日に日蘭修好380年を記念してオランダ貿易と関わり深い中央区が設置。
天球儀の形に組み合わされた二つの羅針盤の輪にヤン・ヨーステンの頭部(オランダ人LPブラート作)と彼が乗船したリーフデ号が、上中央にオランダの国策会社東インド会社のマークが象られています。古地図をイメージして中央下部は太陽をモチーフにした方位の印、四隅は海の波を図案化したものです。
▲八重洲地下街のヤン・ヨーステン記念像(LPJブラート作)
八重洲という名称は、徳川家康がウィリアム・アダムスこと三浦按針(あんじん。相模国三浦郡逸見村に所領があり按針は羅針盤を操る航海長の意味。イギリス人)と共に召し抱えたオランダの航海士ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn 1557頃-1623)略称ヤヨウス(耶楊子)の江戸屋敷があったことによるとされます。
西暦1598年6月27日、ヤコブ・クワッケルナックを船長にヤン・ヨーステンや操舵手W・アダムスら110名を乗せたオランダ帆船リーフデ号(De Liefde/慈愛)が東インドを目指して他4艘とロッテルダムを出航。
1600年2月23日に大強風に遭って船団は離散、4月19日(慶長5年3月16日)にリーフデ号は単独で豊後(現大分県)の臼杵(うすき)湾北岸佐志生に漂着します。生存者はたった25名で、うち5名はすぐに亡くなりました。
当時大坂城にいた家康のもとに連れられ──この時押収した武器や砲撃手は関ヶ原の戦いに利用されたといわれます──そして江戸へ上がり、外交顧問としてイギリス・オランダ両国の友好を取り持ちました。
ヤン・ヨーステンは江戸城治水工事を監督し、幕府より朱印状を得て東南アジアを中心に幅広く貿易を営み、日本人女性と結婚をして、和田倉門外の馬場先門付近の堀端(現丸の内一丁目付近)に屋敷があり、後に八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれます。
慶長14年(1609)に平戸に開設(後に長崎に移転)されたオランダ商館は鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口となります。
ヤン・ヨーステンも江戸を去って長崎で貿易に従事しますが、元和9年(1623)の夏にバタビヤ(現インドネシアのジャカルタ)へ渡航し再び日本に帰航の途中、パラセル暗礁で難船して亡くなりました。
八重洲の歴史解説パネルの切絵図に「八代洲川岸」の文字が記されています。後に八代洲は八重洲と書かれ明治5年(1872)に町名として和田倉門~馬場先門の東側から外堀までの地域が「八重洲町」となりました。昭和29年(1954)に東京駅東側(八重洲口)一帯が「中央区八重洲」となって現在に至ります。
▲オランダ船「デ・リーフデ」号
丸の内ビル脇にある彫刻は昭和55年4月22日、来日したオランダ王国ファン・アフト首相の寄贈です。
リーフデ号は初めエラスムス号(オランダの啓蒙思想家の名前)といい、船尾に僧形のエラスムス像が装飾されていました。
この装飾像が徳川幕府旗本の牧野伊予守成里(しげさと。御持筒頭)に授けられ、彼の菩提寺である現栃木県の龍江院に「貨狄様」として安置されていました。
諸説ありますが当所は古代中国の船の発明者・貨狄(かてき)像とされており、後にエラスムス像と判明し、現在は国宝(国指定重要文化財)として東京国立博物館にオランダ最古の木彫像として保存されています。
参考図書
・井岡大輔『ジャワを中心とした南方の実相』
・武藤長蔵『日英交通史之研究』
・実業之日本社『南海雄飛記』
・内山舜『アダムスと家康』
他、中央区案内板、栃木県教育委員会案内文等