▲井川城跡(松本市特別史跡)
旧小島村(現松本市井川城)にあり、小島城とも呼び、井の字に四方を水流に囲まれているため井川館と名がついたとも言われる。
明治の地図で遺構は井川の流れの西沿いに位置し回字形、東向きで、南北72間・東西50間。
東南角に高さ六尺・南北6間・東西7間3尺の櫓台趾が残っている。
建武2年(1335)8月14日に伊那松尾館(長野県飯田市)の小笠原貞宗が信濃国の守護職となり、足利尊氏の命で井川館に新城を構えて移り統治したとされる。
以降守護職として小笠原政長─長基─長秀、政康(長秀の弟。家督を継ぐ)─持長─清宗と代々井川館に在った。
長禄年間(1457~1461)に清宗が金華山に林城を築いて井川城と兼帯する。清宗の長男長朝は林の館で誕生している。長朝の弟の光政が城代を勤めたともされる。
寛正6年(1465)長朝の代に井川城を修復して深志城と改名し、城代を置いた。府中(松本)は昔、深瀬と呼ばれ深志(ふかし)となったともされる。
永正元年(1504)長朝の子の貞朝の代に深志城の名のまま北方に築いた城に移した。
※移転した深志城は天文19年(1550)長朝の孫の長時の代に武田軍に攻められ開城し武田領となるが、天正10年(1582)に武田家が滅亡すると長時の子の貞慶が入って松本城と改名した。現在の松本城である。
▲櫓台跡の小祠と案内板
撮影時、ビニールシートの所は発掘調査を行っていた。
小笠原貞宗は建武の新政の際、信濃守護に任ぜられ、足利尊氏に従って活躍し、その勲功の賞として建武2年(1335)に安曇郡住吉荘を与えられた。その後信濃へ国司下向に伴い守護として国衙の権益を掌握し、信濃守護の権益を守る必要からか、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたとみられる。
井川館を築いた時期は明確ではないが、「小笠原系図」では貞宗の子長政が元応元年(1319)に井川館に生まれたと記されているので、鎌倉時代の末にはこの地に移っていたとも考えられるがはっきりしない。
井川の地は、薄川と田川の合流点にあたり、頭無川や穴田川などの小河川も流れ、一帯は湧水が豊富な地帯である。現在の指定地は、地字を井川といい頭無川が濠状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定される一隅に櫓跡の伝承がある小高い塚がある。地域に残る地名には、古城、中小屋のように館や下の丁のように役所の存在を示すものもある。またこれらのほかに中道の地名もあり、侍屋敷の町割跡、寺などの存在から広大な守護の居館跡が想像される。(案内板より)
井川城跡所在地:松本市井川城1丁目
▲現代の林の城山と、松本城