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法華寺-保科正則夫妻の墓

保科正則夫妻の墓 飯高法華寺

大乗山法華寺保科正則夫妻の墓
保科家は信濃国(長野県)高井郡保科郷から伊那郡藤沢郷へ移り、正則は代官職を務めた。嫡男の正俊は藤沢城主、孫の正直は伊那高遠城主となった後に下総多胡(千葉県香取郡多古町)に転封となる。
正則の妻は、甲州武田家臣と思われる甘利備前守の娘とされる。
この墓碑が海音比丘により再建された元禄3年は高遠建福寺の保科家の墓の再建と同じ頃なので、会津藩松平家3代藩主松平正容(保科正之の子)の請願であった可能性が高い。

明治の頃、正則夫婦の墓は平山氏が守っておられ、旧飯野藩保科正益侯の御子息の妻、北白川宮能久親王第三王女保科武子様の知る所となり幾許か永代供養料を納めたとの話だ。
今も寺の方か檀家の方が管理されているようで、墓の周りは綺麗に保たれていた。

 

■飯高・法華寺周辺の歴史
飯高地域は古くは北条庄と呼ばれ、鎌倉時代は千葉家一族の飯高氏が地頭であった。
今の字(あざ)城下、飯高寺(はんこうじ)~飯高神社(旧妙見社)境内に飯高城が在ったとされる。

この法華寺の境内は古くは千葉氏支族の新藤田縦空(じゅうくう。新藤太とも)の城址で
延慶3年(1310)縦空入道は千葉氏の本領千葉庄の妙見宮で妙見菩薩のお告げを受けて帰郷すると、水田の中に亀の背で白蛇に抱かれた妙見菩薩像が輝いていた。縦空は喜んで昌山に妙見宮別当の社を建て妙見山妙福寺と号し、この地は由来から亀田蛇が洞と呼ばれるようになった。(『下総名勝図絵』)
妙福寺は真言宗であったが、千田庄(多古町)を領する千葉胤貞の猶子日祐(にちゆう)が再興し法華経の一乗妙法の道場とする。

 

■戦国期~保科家多古移封時の飯高
天正5年(1577)京都から妙福寺に訪れた蓮成院日尊に、飯高城主の平山刑部少輔常時(新藤田の子孫ともされる)が帰依する。
天正8年(1580)平山・若林らの懇請で妙福寺住僧の日因が、飯塚光福寺の講務を辞した教蔵院日生上人を迎えた。飯高氏流の椎名氏で妙福寺6世、飯高4世となる日圓(にちえん)も日生に学ぶ。
天正13年(1585)3月に平山常時は日生を開基、日尊を開山として飯高城内に法輪寺を建立し、妙福寺の講席を移した学寮が後の飯高檀林の基となった。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際に常時は北条方であり、小田原落城後は帰農し、北条氏の旧領へ移封となった徳川家康に城地を寄進した。
飯高のすぐ西に位置する多古には高遠城主保科正直(正則の孫)が入り、病身の正直は子の正光に家督を譲り、湯治等をし療養の生活に入る。
保科家は諏訪神氏の家系であり下総でも諏訪神社を信奉し、仏道においても信心深く領内の寺社に寄進している。

 

■保科正則の晩年
正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろう。
下総善龍寺の開山廣琳荊室は、正則の孫の源蔵(内藤昌月)を養子に迎えた内藤信量の次男で、幼くして上州長生寺で剃髪し、大泉山補陀寺(群馬県安中市松井田町)の的雄和尚に学び天正10年(1582)正月28日満行山善竜寺(高崎市箕郷町)に住職する。
この年、織田家の伊那侵攻により保科家は内藤昌月を頼って上州箕輪城へ逃れ、高遠城奪還を期した。

天正18年(1590)的雄和尚の遺命で補陀寺に転院していた廣琳は、羽柴秀吉の北条攻めの頃は院を移し討死した大檀を弔った。この後、徳川家康の関東入封に従い高遠城主保科家は多古へ移る。
そして高齢の正則は多古に廣琳を招き善龍寺の開基となり、隠棲したと想像できる。

天正19年(1591)9月6日に正則、文禄2年(1593)8月6日に子の正俊が亡くなる。
それぞれ上州館林の茂林寺(もりんじ)や内藤昌月父子墓のある箕郷善竜寺に墓があるとも伝わっており、彼らは廣琳と共に上州へ戻り──箕輪城は井伊直政の居城になっており、かつてのように内藤家を頼ることが目的でなく──信仰と共に余生を過ごしたのかもしれない。

また、正則が多古転封以降に没したなら100歳前後になることを考慮すれば、天正10年に上州箕輪を訪れた時に上州で没している可能性もあり、下総の善龍寺は正則の位牌を安置するために箕輪の善竜寺と寺名を同じくして正俊か正直が建立したとも解釈はできる。
そして夫の墓を守るために正則の妻は下総に残ったのだろう。
※この頃に廣琳は保科家の縁で高遠城内の法幢院に移るとも伝わるが、まだ保科正光は多古に在る。想像するに廣琳は補陀寺の引継ぎと、正俊や正則を弔うため上州と下総善龍寺と往復していたのではなかろうか

慶長6年(1601)正光は高遠へ転封となる。9月29日に正直が高遠城で死去。
慶長7年(1602)6月20日に正則の妻が亡くなる。
法幢院は高遠城内にあった諏訪神社と共に龍ヶ澤に移転し龍澤山桂泉院と改号する。
その後、高遠城を継いだ保科正之が寛永13年(1636)最上(山形)転封の際に当時の桂泉院住僧英呑が付き従い長源寺に住、会津移封で泉海が下総の善龍寺と同じ号で祥雲山善龍寺を創建し正則夫妻の位牌を守った。会津善龍寺に家族の墓のある西郷頼母の西郷氏は保科家の一族である。

保科前筑前守正則公之墓 保科正則の墓
▲保科正則の墓
法妙 祥雲院殿椿叟栄寿大居士
保科前筑前守正則公之墓
天正十九年辛卯年九月六日薨去
奉再建元禄三庚午年海音比丘之

保科前筑前守正則公妻之墓 保科正則妻の墓
▲保科正則の妻の墓
法妙 長清院殿梅月昌香大姉 
保科前筑前守正則公妻之墓
慶長七寅六月二十日薨去
奉再建元禄三庚午年海音比丘之

[追記]正則夫人の脱字修正

所在地:千葉県匝瑳市飯高字馬場

建福寺-保科正直・正光二代の墓

建福寺本堂の屋根の棟の家紋 保科家と武田氏の墓域

建福寺本堂の棟に松平の葵紋と保科の九曜星。境内に保科氏と伝諏訪御料人の墓が並ぶ。
安元2年(1176)文覚上人がこの地で加持をし不動尊を刻んだ際に独鈷を落とした池、独鈷池(本堂の裏手)に建長5年(1253)鎌倉の建長寺開山の蘭渓道隆大覚(らんけいどうりゅうだいかく)禅師が訪れた際、神家のお告げにより鉾持山乾福興国禅寺(ほこじさんけんぷくこうこくぜんじ)を建立し、箱根・三島・送場三社を祀る鉾持大権現を造営し、隆盛したとされる。本尊は華厳釈迦如来。
弘治元年(1555)寺内に墓のある「乾福寺殿」が亡くなる。
永禄5年(1562)6月武田四郎勝頼が諏訪氏を継承し伊那の郡代・高遠城主となる。その後、勝頼が中興の開基となり駿河国清見寺住持東谷(とうこく)禅師を請待し中興開山し妙心寺派となる。
天正10年(1582)に保科正直が高遠城主に任じられ、以降保科家の菩提寺となり大宝山建福寺(けんぷくじ)と改号。
保科正直と正光父子と武田勝頼母の墓 4奉献石燈篭藤澤八右衛門源正意

▲右から乾福寺殿の墓保科正直の墓保科正光の墓。墓域左右に保科氏家紋の燈籠
花崗石の3基の墓標は、正直没後90年の元禄3年(1690)9月16日に会津藩松平家3代藩主保科正信(松平正客/まさかた。保科正之6男)が再建したもの。
比較的新しい保科家紋並九曜が施された石燈篭の奉献は「藤澤八右衛門源正意」とある。藤澤八右衛門は高遠藩領藤沢村(伊那市高遠町藤沢)御堂垣外の名主年寄に名が見える。藤澤(保科)八左衛門と同じく代々継ぐ名であろう。

保科正直の墓 保科正光の墓

保科正直・正光の墓

保科正光の墓碑文 保科正直の墓の碑文 諏訪御料人の墓裏側

3基とも裏・側面に長い銘文が刻まれている

諏訪御料人の墓 妙香大禪定尼銘石燈篭

▲乾福寺殿の墓と石燈籠

内藤家時代の高遠藩の家老の葛上紀流が安永8年(1779)に記した『木下陰』では3基とも保科石碑として「保科正直公御母堂」「保科正直侯」「保科正光侯」と記している。
文政年間に会津藩士松澤氏守が記した『保科御事歴』でも正俊の妻(正直の母)の説を採用している。

乾福寺殿の墓の銘文は苔むして判読し難いが、御堂垣外藤沢本陣役の藤沢家に伝わる建福寺の碑文内容や建福寺の口上覚書(元禄3年2月27日付)等では乾福寺殿は徳川家康の妹で正貞の母多劫(たけ)姫とする。しかし法名(長元院殿清信授法大禅定尼)や没年が大きく異なり、どうやら再建時に多劫のものと誤った(もしくは徳川将軍家と会津松平家の結びつきを強調する配慮で故意に)と思われる。

正俊の妻は小河内美作の娘とされ、保科家の系図上で正俊と正則(正俊の父)の妻は夫共々混同か誤記され没年を同じくして長清院殿「梅岩昌香」「梅月昌香」大姉と乾福寺殿の梅厳妙香に近いが乾福寺殿とは没した日が一致しない。

寛永13年(1636)保科正之の出羽最上(山形県)転封の際に建福寺5世住職の鉄舟(てっしゅう)が保科氏の位牌を保護してお供し、最上に新しく寺を建立したとされ、正之が会津藩主となると会津に高遠と同じ名で「大宝山建福寺」が建てられ霊屋に正直・正光父子の位牌を安置していた。
しかし寺は戊辰戦争で全て焼けてしまった。当時の住職が寺宝を背負って避難し、その後小庵を建てて位牌を安置したといい、現代の会津建福寺は住職兼任のため保科家の位牌等は会津実相寺にあるようだ。

明治時代の伊那の村誌に添えられた高遠の建福寺の絵図には門付きの垣の中に三基あり燈籠は無く「武田氏 保科氏の墓」としている。

諏訪御料人(すわごりょうにん)については保科家と同じく武田家が代々檀家の高野山成慶院の過去帳
『武田日牌帳』に乾福寺殿梅巖妙香大禪定門 淑霊位
同(諏訪)勝頼様之御太方 十一月六日…
別本の『武田家日杯帳』に乾福寺殿梅巖妙香大禪定門 神儀
信州高遠武田勝頼公老母奉為御菩提建立…と記されている。

高遠町教育委員会の文化財案内によると高遠建福寺の本堂に安置されている位牌の裏に武田勝頼母であることを朱色で書かれており(同形の正直・正光の位牌は朱色書きではないようだが)過去帳や位牌の項が後で書き加えられたのでなければ墓も勝頼母の墓であるといえる。

墓所案内板============================================================
建福寺・武田勝頼母の墓
武田勝頼の母は諏訪頼重の娘で、実名が不詳のため諏訪御料人と呼ばれています。
諏訪頼重は天文11年(1542)に武田信玄によって自害させられましたが「尋常かくれなき美人」といわれた御料人は信玄に恋われ、父敵の側室となって諏訪氏再興を願いながら勝頼を生みます。しかし、その後病の身となり、勝頼の成長を待つことなくわずか25才ほどで短い生涯を終え、ここの葬られました。諏訪御料人は井上靖著「風林火山」では由布姫、新田次郎著「武田信玄」では湖衣姫と呼ばれています。
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武田勝頼母の墓(右側)
弘治元年乙卯歳
乾福寺殿梅巖妙香大禪定尼 淑靈
仲冬初六日
これは武田勝頼母の法名である。勝頼の母は諏訪頼重の息女で、武田信玄が諏訪氏を滅ぼした天文11年(1542)若くして信玄の側室とされ、甲府に移り、天文15年に勝頼を生んだ。信玄は諏訪氏族の懐柔策として勝頼に諏訪氏の名跡を継がせ、諏訪四郎勝頼と名乗らせた。
勝頼母は、弘治元年(1555)勝頼10歳の時、没している。墓所については諸説あるが、武田家の菩提寺である高野山成慶院の過去帳や当建福寺(慶長以前は乾福寺という)にある位牌には、勝頼母の法名は乾福寺殿となっており、ここ建福時に葬ったと思われる。
勝頼は永禄5年(1562)から元亀2年11月には大龍山臨済寺(現静岡市)の鉄山和尚を招来して母の十七回忌の法会を高遠城で執り行っている。

保科正直の墓(中央)
慶長六辛丑歳
建福寺殿天関透公大居士 神儀
九日晦日
・正直は下総多胡城主であったが、慶長5年(1600)高遠城主となる

保科正光の墓(左側)
寛永八辛未歳
大宝寺殿信巖道義大居士 神儀
十月初七鳥
・正光は正直の子、高遠城主・会津若松城主保科正之の養父である
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建福寺の守屋貞治石仏群 建福寺の守屋貞治石仏群案内板 守屋貞治顕彰碑

▲建福寺は守屋貞治(もりやさだじ)ら高遠石工の石仏群が有名で貞治顕彰碑もある

臨済宗妙心寺派大宝山建福寺
所在地:長野県伊那市高遠町西高遠1824

保科氏の家紋

保科氏家紋

 保科氏は清和源氏井上掃部助(いのうえかもんのすけ)賴季流で、築後守正則(諏訪郡の高遠氏家臣)が信濃国中嶋高井郡保科に生まれたことから保科を称号としたとされるが、「保科ははじめ星の御門と申し、また星野とも言い、信州に移って保科と改める」「井上頼季の6代孫の井上忠長が悪星を射落としてついた村名の星名(または星無)からこれを氏とする」等の諸説有。
※保科氏のルーツ(伝承)については→飯野藩保科家系譜・伝(保科郷の保科氏)

 保科家の家紋は「いにしえは天人の子であり、ある時産屋にさした星の光を、絹を隔てて見ると、丸九曜の如くであったことからこれを紋所とした」と由来記に、前述の「井上忠長が悪星を射落した時に星が光を顕したことから家紋を角九曜とする」と『保科村村誌略』にある。
 保科家一の御旗は、一は万物の初であることから信玄公の戦功の第一として賜わり一文字、武器類には丸の内一文字、古い武器・道具に丸の内九曜が見られる。

丸九曜丸の内九曜   丸一文字丸の内一文字

 江戸時代の初めには、徳川秀忠の血をひく保科正之(ほしなまさゆき)の血統と同じ家紋を使うことを遠慮したためか、会津藩保科家(正之の家系)は並九曜、飯野藩保科家は五つ鐶に九曜五つ鐶に一文字を用いた時期もある。

 

 会津藩保科家は初期から並九曜(なみくよう)が見られ、御幕の紋は並九曜となる。
 並九曜はならびくようの読みや、角九曜・平形九曜とも呼ばれる。九曜は古代インドで占いに用いた九つの星(羅睺(らご)・土曜・水曜・金曜・日曜・火曜・計都(とつ)・月曜・木曜)を表し、それを仏身に現した(不動明王・聖観音・弥勒・阿弥陀・千手観音・虚空蔵・釈迦・勢至・薬師の菩薩)九曜を集めて九曜曼荼羅と言うので、九曜紋は月星紋の一種として妙見信仰に基づく紋ともいえる。

並九曜 並九曜

※『大武鑑』に保科正之が「並九曜」で保科正貞(飯野藩)が「九ツ銭」とする時期があるが、保科家側の主な資料に九ツ銭紋を用いた記録は見当たらず、現在調査中

 

 梶葉(かじのは)紋は諏訪神社・諏訪の神裔の章で、諏訪上社の大祝である神(みわ。建御名方命の後裔ともいわれる)氏の子孫や、諏訪下社の祝金刺舎人氏の家紋である。(『信濃史源考』等)
 保科氏も、神氏諏訪の庶流として「立梶の葉」を用いた。
 梶の皮は祭祀の際に捧げる幣帛(ぬさ)・葉は食物を供え、梶の木は神事に関係深いものとして梶紋が使われた。徳川時代の梶紋の大名は保科・諏訪・松浦の三氏。

梶の葉 梶の葉(立梶葉)

 

元禄9年(1696)に保科正容(まさかた。正之の六男)が松平の氏と葵御紋の使用を許されて会津松平家の御葵紋を用いるようになると、飯野藩の家紋が保科家の並九曜と梶の葉となった。

参考資料
『保科村村誌略』『保科御由来記』『保科御由来所』『保科正則由来書』等
※家伝・郷土系の資料は別途まとめる予定です

 

余談ですが…映画版の「天地明察」が原作(冲方丁著小説)よりも会津藩主保科正之を押し出し、要所で並九紋の家紋を強調して見えたのは、史実として保科正之が山崎闇斎や安藤有益の才能を認めていたことだけではなく、家紋が天体に関わり深いこと(星紋)のためでもあるかと思ってみていました。
そういった設定があるとのテキストは見当たらない(冲方氏と福島についてくらい?)ので、深読みでしょうか。

飯野藩第10代藩主「保科正益」の墓所

保科正益の墓 保科節子の墓

保科正益と保科節子の墓

髙岳院殿徳雲惟馨大居士 
明治二十一年正月二十三日卒

安住院殿深禅愛楽大姉
子爵保科正益室
明治三十八年十二月七日卒

保科正益子爵の妻、節子は伊達宗紀(伊予国宇和島藩10万石の第7代藩主)の娘。宗城の妹にあたる。
とても美しく、絵草紙などにもなったという。

 

保科正昭氏と武子夫妻の墓

保科正昭と保科武子の墓

正益公長男、保科正昭子爵の妻は北白川宮能久親王(奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された輪王寺宮)の第3王女、武子女王(香淳皇后の皇后女官長)

 

保科正益と節子夫妻の墓

正興氏(光正の子)建立の保科家の墓石や飯野藩士献燈の石灯籠などが並ぶ。
家紋は並九曜

墓誌に刻まれている保科光正氏は保科正昭子爵の子で大東亜省秘書官を務めた。
昭和20年4月1日午後11時、乗船していた赤十字の救援物資を運び届ける為の阿波丸が台湾海峡で米国潜水艦クイーンフィッシュにより撃沈され(阿波丸事件)戦没。享年31。妻は徳川宗家の德川家正公爵三女、保科順子(ゆきこ)

都立青山霊園サイト:http://www.tokyo-park.or.jp/reien/park/index072.html
東京都港区南青山
保科正益公の墓所:東1-1種ロ12号30

大圓寺-飯野藩保科家菩提寺

大円寺

徳川家康開基の大圓寺は、開山の諦巌桂察和尚(武田信玄の弟)の縁から飯野藩保科氏の菩提寺になったという。

山門 大円寺山門

大圓寺山門。門には葵紋。

 

●飯野藩保科家墓所

保科家墓所 保科家の墓

[1]保科正貞(ほしなまささだ)
・翠松院(第2代藩主正景室。播磨国明石藩主松平山城守忠国女)
[3]保科正賢(まさかた)
・瑞光院(正賢後妻。美作津山城主森大内記源長継の娘、森対馬守長俊養女)
[4]保科正殷(まさたか)
[5]保科正寿(まさひさ)
・喜三郎(正寿長男。早世)
・慈照院(正寿室、於染。奥州弘前城主津軽土佐守藤原信寿女)
[6]保科正宜(まさよし、初め正富)
・華萼院(正宜室、於喜井。高槻城主永井飛騨守大江直期女)
[7]保科正率(まさのり)
・蘭香院(正率室、於艶。筑前秋月城主黒田甲斐守源長恵姉、黒田甲斐守長邦女)
[8]保科正徳(まさよし)
・蓮芳院(節。正徳四女)
・玉樟院(正徳側室)
[9]正丕(まさもと)
・捨五郎(正丕の次男。早世)
・栄寿院(正丕室、於トシ。武州人忍城主松平下総守源忠翼女)

・長元院(ちょうげんいん、正貞の生母)五輪塔

等保科氏一族を葬。(↑記事の[数字]は飯野藩何代目藩主か)
※第2代藩主保科正景は千葉県富津市浄信寺、第10代(最後)の藩主正益は東京都港区青山霊園に墓所

両脇の墓塔 中央の五輪塔

保科の家紋の並九曜、中央の五輪塔には禅宗の地・水・火・風・空が刻印されている。

 

長元院五輪塔

長元院の五輪塔
保科正貞の生母多劫(たけ)姫の墓塔。父は久松佐渡守俊勝、母は徳川家康の生母でもある伝通院(於大の方)で家康養女となる。
長元院殿清信授法大禅定尼
元和四戌午年六月七日

【泉谷山大圓寺】東京都杉並区和泉
泉谷山と号する曹洞宗(禅宗)の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
慶長8年(1603)赤坂溜池の辺りに徳川家康が開基となって建立され、開山は諦巌桂察和尚(武田信玄の弟)とされる。
寛永18年(1681)正月、江戸の大火に遭い伊皿子に移転。その頃から大渕寺の寺名を大圓寺に改める。
延宝元年(1632)薩摩藩主島津光久の嫡子綱久の葬儀を行って以来、島津家の江戸における菩提寺となり、福寿院・門能院の塔頭二院もそれぞれ大名保科・旗本五井・松平・本多・土方の諸家中、町人衆を檀家として隆盛を極めた。
明治41年に二院の塔頭を併合して現在地(杉並区)に移転。
(案内板より抜粋)

※薩摩藩関連は後の機会に紹介します。