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請西藩「真武根陣屋」

真武根陣屋遺址 真武根陣屋跡案内板

請西藩真武根陣屋(まふねじんや)
徳川幕府譜代大名の請西藩二代藩主・林播磨守忠旭(はりまのかみただあき。林氏は故事に習い将軍が元旦に食べる吸物に入れる兎肉を代々献上する家柄)が、嘉永3年(1850)上総国望陀郡(千葉県木更津市)請西村に造営。
案内板によると移転元の貝淵陣屋を「下屋敷」と呼ぶのに対し、「上屋敷」と呼ばれていたという。

木更津港から約2km程南東に位置する、標高50mの真船台地に所在。
発掘調査等によると陣屋の推定面積は南北370m・東西280m・8800㎡。南西の土手部分や西側の枡形を含めると倍の面積になり
南西部に大手口、北側に(飲食用陶器の遺物があるため)御殿、中央に役所や蔵、大手口両側に士屋敷(南東部にも陶器の遺物)があったとみられる。

言伝えによると請西の地名は「城砦」の転訛で、陣屋を置くより前に古い城砦が在ったらしい。廃砦跡とすると陣屋に適した立地といえる。

陣屋は請西藩第3代藩主忠崇が佐幕派に属して出陣した際に焼かせて焼失する。陣屋址は地元の者に「お林」と呼ばれた。
昭和20年、戦後の農地改革で開墾され遺構は壊されてしまった。
請西藩の陣屋の存在が完全に埋もれてしまうことを憂いた知己関係者達の促進により昭和41年4月に木更津市指定文化財となった。

 

真武根陣屋遺址の碑

▲「真武根陣屋遺址碑」(まふねじんやいしひ)
忠崇が出陣した相州の、根府川で産出する赤みを帯びた根府川石の碑石は、箱根山の陣中で月光を仰いで詠んだ和歌と共に、20代当主林忠昭氏による碑文が刻まれている。
一番上には、徳川将軍より拝領の林家家紋、丸の内三頭左巴下に一文字。

陣中観月

くもりなき心や見せんあすの夜は
かはねの露に照らす月影

慶応戊辰四月 忠崇

 

林氏は清和源氏。親羅三郎義光十七代の孫光政公を祖とす。
姓は小笠原、徳川家康の祖、有親、親氏と足利持氏に仕えて誼し。
讒に遭ひ去って信州林郷に在り。親氏父子も持氏義教との隙に流浪し、永享十一年臘日、光政を誘ふ。
公遇する雪中に一匹兎を狩り、元日之を羹にし、薦めて歳旦を賀す。上意により姓を林と改む。
後、親氏三河に興るに及び、出でて仕ふ。
歴代、歳末に兎を献じ、元旦、将軍より一番に盃を賜ふ例とす。拝領紋、下に一の字を加ふ所以なり。

十四代忠英公諸侯に列し、若年寄に進む、子十五代忠旭公請西藩主として、嘉永三年、此処に館を営み真武根陣屋と称す。
第十六代忠交公伏見奉行勤役中に卒し、忠旭の子忠崇公封を襲ぎ戊辰の大変革に際す。
若干二十歳で徳川氏朝敵の汚名を受くるや、譜代の恩義を痛感、その冤を雪がんと蹶起し、慶応四年閏四月三日、藩地を脱し、豆相より奥羽各地奮戦す。
後、天恩鴻大、徳川家の社稷存せらるるに至って、翻然罪を闕下に請ふ。
赦されて忠交の男忠弘華族に列せられ、忠崇公亦其礼遇を賜ふ。

星霜移ること百年、里人お林と称し、藩侯の遺徳を慕へり。
後開拓せられ、今その址を留めず、往時を偲ぶに由無く、只管史蹟の湮滅を虞る。
玆に木更津市より文化財として史蹟の指定を受く。仍て碑を建て縁由を録し以て不朽に伝ふ。

昭和四十年四月廿二日 当主 第二十代 林忠昭 建立

林勲氏の碑文

真武根陣屋陣屋懐古詩碑(うたぶみ)
発起人である林勲氏による碑文。氏の物した詩が刻まれている。
一番から五番まで、忠崇の出陣の勇姿を謳うこの詩は柴勝三氏の作曲で歌になっている。

 

石祠と藩庁方面 海と貝淵方面

▲左写真、小さな石祠の方向(西南)奥にかつて藩庁や蔵が建てられていたようです。その先に古井戸、大手口(南)として枡形門の土塁も築かれていました。
右写真が貝淵陣屋がある方向(西)です。更にその先に江戸湾(東京湾)が広がります。こちらの区画は調査により遺構が完全に消失していることが確認されています。

木更津中央霊園前の道

▲址碑の前で南方向を撮影。木更津中央霊園入口のすぐ向かいにコンクリートに囲まれた址碑があります。かつては土塁が廻らされていたのでしょう。この右の敷地の先にも古井戸。
※縄張り等の学術的図面は著作権の都合で引用できず、言葉での説明のみでご容赦下さい

・真武根陣屋遺址
所在地:木更津市請西字間船台1319-21

請西藩第2代藩主林忠交-最後の伏見奉行

林忠交(ただかた。武三郎。林家十六代)
天保3年(1832)貝淵藩初代藩主林忠英の四男として生まれる。

安政元年(1854)4月27日に請西藩主(貝淵から陣屋を移転林播磨守忠旭は長男を亡くしており末子昌之助(忠崇)が幼年であったため、弟の武三郎(忠交)に家督を譲る。
12月16日、従五位下肥後守に叙される。
安政4年(1857)閏5月18日に大番頭となる。

安政6年(1859)8月11日に伏見奉行を21年務めた内藤正縄(信濃岩村田藩藩主。翌年2月死去。前老中水野忠邦の弟)が解任される。
8月28日に忠交が伏見奉行となる。京都町奉行と共に幕末の激動期となる京都での司法・行政を管轄する重職就任である。
9月5日引越費用の借受を願い金一千両を支給される。

万延元年(1860)3月15日、水戸浪士の金子孫二郎(教孝)・同佐藤鉄三郎(教寛)を拘引し、翌日訊問する。閏3月5日江戸に2人を檻送させる。

文久2年(1862)4月23日、忠交は尊皇派達が討幕の挙に出ようと集まったことを察知するが、薩摩藩藩主後見役の島津久光の命で薩摩藩尊皇派の過激分子を伏見寺田屋(てらだや)で成敗されたため、伏見奉行所は関与に至らずに済んだと思われる。(寺田屋事変
寺田屋騒動殉難碑と坂本龍馬像 伏見寺田屋殉難九烈士之碑
▲薩摩藩士らの「寺田屋騒動殉難碑」と「伏見寺田屋殉難九烈士之碑
坂本龍馬像の背後にある殉難碑の篆額は有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆。

文久3年(1863)5月に将軍徳川家茂が大阪城より入洛のため(3月4日に上洛、4月21日に巡視のため大阪城に入り5月11日に出発)淀を経て伏見京橋から伏見奉行所に入る。竹田街道より入洛。
6月9日に二条城を出て伏見街道から伏見奉行所に着き、今留橋より乗船し大阪城へ戻る。

元治元年(1864)6月24日に長州藩(前年の八月十八日の政変で長州藩を中心とした尊皇攘夷派が京都から追放された)家老の福原越後(元僴/もとたけ)が三百余人の兵を率いて長州伏見藩邸に入り、幕府は監察戸川安愛(やすちか)・小出五郎左衛門を伏見奉行所に遣わせ長州藩の様子を偵察させる。
7月3日に朝廷は大監察永井主水正・小監察戸川安愛を伏見に遣わせ、福原越後を伏見奉行所の役所に呼び出すが病を称して翌日応じる。兵を退ける説得に福原は従おうとしたが、山崎天王山に陣する久坂玄瑞らや嵯峨天龍寺に陣する来島又兵衛らは拒む。
その後も応じず18日一橋慶喜は追討を決め伏見方面には大垣藩を先方に彦根藩・会津藩(新撰組も属す)・桑名藩等の兵を出した。追討軍は長州勢を破り敗走させた。
19日の禁門の変勃発時に福原越後が率いる長州勢は伏見長州藩邸に立ち戻り、再び出陣しようと試みるが、彦根藩ら連合軍に京橋から砲撃され藩邸は焼け落ちた。
長州藩邸跡と禁門の変 現代の京橋
伏見長州藩邸跡と現在の京橋

慶応元年(1865)長州征討への動きで5月24日徳川家茂が二条城を出発し伏見奉行所に入り、翌日大坂へ出立。9月14日に家茂は大坂城を出て伏見奉行所に入り16日に二条城着。23日に再び伏見を経て大阪へ発ち10月3日に大坂城を出て伏見奉行所に入り伏見に逗留し4月2日に二条城入り。11月3日に二条城を発ち伏見奉行所に入り大阪へ着き征討準備を進めた。

慶応2年(1866)正月23日に手配中の浪士坂本龍馬らが寺田屋に入ったと報告が入り、伏見奉行はこれを捕縛すべく指揮をとった。
深夜2時に幕吏(役人)が二階へあがり詰問し、坂本と同泊の長門府中藩士三吉慎蔵の二人は薩摩藩士を名乗った。三吉が手槍を握っているのを見て幕吏が引き下がると坂本らは襲撃に備えた。
やがて階下から数人が得物を携え押し上がり肥後守の上意として捕縛にかかる。
坂本は銃を撃ち三吉が手槍を振るって捕吏に抗戦しながら逃走し薩摩藩邸に救援を求めた。匿った薩摩藩邸は坂本龍馬の引渡しを拒否。
※伏見奉行“肥後守”を同じ肥後守の会津藩主松平容保と誤って解釈され京都守護職配下の新撰組が関わった風聞があるが、この肥後守は容保でなく林忠交である。
薩摩藩寺田屋騒動と坂本竜馬ゆかりの寺田屋 薩摩藩伏見屋敷跡
寺田屋(再建)と伏見薩摩島津屋敷跡

2月23日、禁門事変の軍資を京の商人が代償した書状を幕府に上申し、これを大坂金蔵から弁償することを請う。

慶応3年(1867)6月24日急病のため伏見奉行官舎にて35歳で没した。晃晥院殿轉誉宝国大居士。一心寺に葬る。※急死を黙され実際は5月24日ともみられる
後任が置かれないまま、7月より京都町奉行(永井主水正尚志)の管轄となり、大政奉還を迎え奉行所が廃止されたため忠交が最後の伏見奉行となった。

8月30日に忠交の養子となった忠崇が継ぐが、翌慶応4年(1868)の戊辰戦争で忠崇が脱藩して抗戦に徹したために請西藩は取潰しとなった。
戊辰戦争で減封された藩は少なくないが、全てを没収されたのは請西藩だけである。

桃稜団地の伏見奉行所跡の碑 伏見奉行所跡地の石垣
伏見奉行所跡と明治期?の石垣
慶応4年の鳥羽伏見の戦いで新政府軍の砲火を浴びて伏見奉行所は焼け落ち、その後跡地は陸軍工兵隊の兵営になっている。

一心寺 伏見奉行林忠交の墓
一心寺忠交の墓
晃晥院殿従五位下前肥州大守轉譽寳國忠交大居士
慶應三丁卯年 六月二十四日 林 肥後守源忠交 於城州伏見宦舎卒

請西藩初代藩主・林忠旭と印旛沼開拓

真武根陣屋遺址

真武根陣屋遺址
請西藩真武根陣屋林忠崇の実父、忠旭が構えた。

 

林忠旭(ただあきら。銈次郎。林家15代)
文化2年(1805)2月6日、武州にて林忠英の次男として生まれる。母は後室。
8月、兄(忠英長子)忠起が21歳で病死。
文化10年(1813)忠旭を跡取りとする届け出が認められる。

文政2年(1819)12月2日、15歳で西の丸の小姓として出仕。
12月16日、従五位下に叙され諸大夫、播磨守となる。
父林忠英が徳川家斉に引立てられていたため忠旭もその恩恵があったと思われる。
文政4年(1821)2月11日船掘筋御成りの際弓の御伴した際に浅草今戸で小鳩を1羽仕留めた褒美として、時服を授かる。

文政8年(1825)4月23日に父忠英が若年寄となり1万石の諸侯に列し、翌日忠旭も21歳で菊之間席となる。
5月24日、実母の本誓院が死去。

天保8年(1837)徳川家斉は西の丸で退隠し、家慶が将軍職となる。
天保12年(1841)閏1月7日に家斉が没し、老中水野忠邦(みずのただくに)が家斉に引立てられていた西の丸派の粛清と、天保の改革に踏み切った。
4月16日に父忠英が免職され1万8千石のうち8千石を削られ、7月29日に隠居に着き忠旭が家督を継いだ。

 

天保14年(1843)6月10日、利根川分水路・印旛沼古堀筋普請御用を仰せつけられる。
江戸湾(東京湾)と印旛沼に流れていた2つの川、古掘筋を地面を掘って水路をつくって繋げ、利根川~印旛沼~江戸湾を結ぶ大工事である。

印旛沼開拓は過去、天明期の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の時に計画され大洪水と反発を受けた田沼の失脚で中止となっていた。
しかし天保13年(1842)に幕府普請役の二宮金次郎(尊徳/のみやたかのり。そんとく)が事前調査をし工事は困難であると報告したにも関わらず、幕府は強行する。

幕府の実施であれ、実際は御手伝として5藩が予算超過分(20万両)等を負担する形で普請を強いられたと言える。
一の手 駿河国沼津藩(静岡県・5万石)水野出羽守忠武【担当区間の村:平戸~横戸】
二の手 出羽国庄内藩(山形県・14万石)酒井左衛門尉忠器【横戸~柏井】
三の手 稲葉国鳥取藩(鳥取県・32万5千石)松平因幡守慶行【柏井~花島】
四の手 上総国貝淵藩(千葉県・1万石)林播磨守忠旭【花島~畑】
五の手 筑前国秋月藩(福岡県・5万石)黒田甲斐守長元【畑~海辺】

忠旭は父忠英、沼津藩水野忠武は祖父忠成が前将軍家斉の寵臣であり水野忠邦派に疎まれたことから報復人事で、他藩も国替え拒否をした経緯や断りきれない立場ゆえに指名されたともされる。

沼津藩は平戸村~横戸村4,416間(現八千代市平戸~千葉市花見川区の約8km)の最長区間、貝淵藩は2番目に長い2,234間(花見川区内の約4km)を受け持つこととなった。
また貝淵藩は粛清を受けて減封され1万石となった小藩でありながら見積金額は4万両にのぼった。(最大が高台を任せられた庄内藩約11万8千両。5万石の秋月藩は比較的楽な区間で1万両)

割掘工事は進むが、天保14年(1843)閏9月14日に水野忠邦が老中職を罷免され、23日に忠旭は普請の御手伝を免じられる。
天保15年(1844)5月10日に江戸城本丸に火災が発生、復興資金の上納を命じられる。
25日に正式に印旛沼開拓が中止が決まる。

印旛沼の普請は、改革の反発にあった水野忠邦の失脚により中止となり、普請を担当した藩には御下賜品が贈られることで労いとした。

 

嘉永3年(1850)11月23日、忠旭は陣屋を上総国望陀郡(千葉県木更津市)貝淵村から約1.5km南東の請西間舟台に移し真武根陣屋と称した。
西南に耕地をめぐらし東北は小高い山丘に連なり平坦にして縦横数町。

嘉永6年(1853)6月4日、米国艦隊来航の報により幕府が請西藩等、総州諸藩に湾岸警備を命じる。

安政元年(1854)4月27日に弟忠交(武三郎・後に肥後守)に家督を譲る。
※忠旭正室(曽我伊予守助順の娘)の長子は早世、末子の昌之助(忠崇)はまだ幼年のため、忠旭の弟である忠交(武三郎。忠英の側室の子)を養子にとって継がせた。

慶応3年(1867)10月20日、63歳で病没。義鶴院殿一道大居士。江戸愛宕下青松寺に葬。
生前の忠旭は画号を一道と号し、狩野(かのう)晴川院養信に師事し、好んで鷹の絵を描いたという。

青松寺

萬年山青松寺
※青松寺の墓地(林家墓所・石碑等)は檀家以外は立入禁止です。
 一般の方は墓所の参拝許可がおりた場合でも、撮影や写真のWEB掲載を許可しておりません。

青松寺サイト:http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/
所在地:東京都港区愛宕2-4-7

 

余談。
水野忠邦は肥前国唐津藩主(佐賀県)であったのを、幕政に加わる為に遠江国浜松藩への転封となるよう働き実現させています。
唐津藩には小笠原が入りますが、戊辰戦争後に林忠崇が御預となった先が、この小笠原家ですね。

ちなみに林忠英達が粛清された代わりに登用された遠山景元(とおやまかげもと)は、後に江戸町奉行として天保の改革の厳しさに苦しめられた庶民を助けようと水野忠邦派と対立することになりますが、この景元が「遠山の金さん」のモデルです。

貝淵藩貝淵陣屋と林忠英

貝淵陣屋跡 貝淵陣屋案内板
▲住宅地に貝淵木更津県史蹟(市指定文化財)の石碑。

 

貝淵陣屋を置いた林忠英(はやし ただふさ。林家14代)
小笠原家の支流の林家は筑摩郡林郷を名字の地にした。戦国期に徳川に仕え、江戸時代に200石の旗本となる。

狩野探渕守真による貝渕藩主林忠英の肖像 ※木更津郷土資料館フライヤーより引用

明和2年(1765)4月29日、忠英(藤助)が武州で生まれる。父は林肥後守忠篤(藤五郎。浦賀奉行等務めた)、母は水野日向守勝前養女。
天明7年(1787)8月2日、家斉(豊千代。一橋家から将軍家の養子となり西丸に移住していた)に出仕していた忠英は11代将軍となった徳川家斉の小姓(御小納戸衆)を改めて務め寵愛を受けた。
寛政元年(1789)12月16日に従五位下出羽守、寛政4年(1792)12月12日に筑前守に改める。
寛政8年(1796)4月6日に父忠篤が病没(享年59)し、7月3日に忠英が32歳で跡目を相続し、12月9日に肥後守に改める。
寛政9年(1797)3月に小姓頭取となる。
文化元年(1804)11月1日、御小姓組番頭格。御側衆に加わる。
文化2年(1805)1月12日に呉服橋に屋敷を授受され、2月5日に移る。
6日、後室との間に次男忠旭(ただあきら。銈次郎)が生まれる。8月、長男の忠起が21歳で病死。
文化10年(1813)忠旭を跡取りとする届け出が認められる。12月24日、千石加賜され4千石に。

文政5年(1822)3月28日に3千石が加増され、7千石に。上総国望陀郡(千葉県木更津市)貝淵村が領地になる。
文政8年(1825)4月23日に60歳で若年寄に進み、3千石が加増され前封と合わせて1万石を領して諸侯に列した。御奥御用兼。5月6日将軍の詣山に従行。
以降若年寄として忠英の名で酒造・金銭流通・土地や作物の売買等の制限など倹約の公布出し、勤労者への褒賞がみられる。
伝聞の類で奢侈な侫人の一派とされるのは、後の倹約時代とは対照的な時代にこのような仕事柄…同じ西丸派の水野美濃守忠篤も御側御用取次で賄賂が想像し易い内外の接触が多い…為でもあるかもしれない。資料を見る限りでは忠英は職人や役人の働きに応じて彼らに報奨を与え、浪費どころか引き締めが必要な際には倹約も発布しているのである。

この年、地方役所を置くために貝淵村の狭間、浜田に七反八畝廿歩の敷地を買い上げ、翌年に起功。
平坦な田畑の中間に土砂を堆積し、およそ1500~2500坪の丘続きに土堤を廻らし、堤の上に松を植え、中に殿舎を設けた。

文政9年(1826)貝淵陣屋が成る。(『鈴木家文書』では文政8年9月。役所設置時か)陣屋が出来ると貝淵村には家や店が立ち並んで栄えたという。
11月18日徳川家の嘉例再開を願い「兎御献上之儀留」を提出。

天保5年(1834)12月20日に3千石を加増され1万3千石となる。
天保8年(1837)4月2日、家斉が家慶に将軍職を譲り西丸に隠居するが、実権は大御所となった家斉が握っていた。
天保9年(1838)西丸普請。
天保10年(1839)3月18日に前年の西丸普請の勤を労わり5千石を加増され1万8千石となる。
この頃に伊能惣右衛門由虎(一雲斎)が仕え、忠英に宝蔵院流槍術愛洲陰流剣術を指南したという。

天保12年(1841)閏正月晦日に大御所家斉が69歳で亡くなり、4月16日に若年寄を免職され8千石も削られてしまった。
7月29日に次男忠旭に家督を継がせての隠居を命じられる。
華やかな大御所時代から一転して、幕政建て直しのため厳しい倹約を主とした改革を進める老中水野越前守忠邦の主導であったため、忠邦ら本丸派が家斉の寵臣であった忠英ら西丸派を疎んでの粛清であるともいわれ、落首や狂言で風刺された。
剃髪後は擽叟と名を改める。

天保13年(1842)8月に貝渕陣屋に長屋増設。
弘化2年(1845)5月8日、81歳で病没。義芳院英擽叟大居士。愛宕下の青松寺(東京都。林家菩提寺)に葬られた。

 

請西藩
忠英次男の播磨守忠旭が領地を継ぎ、武蔵上野で1万石を領した。
嘉永3年(1859)11月23日、忠旭は陣屋を貝淵から東の請西間船台に移し真武根陣屋とした。

 

桜井藩
明治元年(1868)請西藩主林忠崇が脱藩して抗戦派の旧幕府軍に加勢したため藩地を没収される。
7月13日、徳川家達(いえさと)の駿河移転により、駿河小島(おじま)藩主の滝脇信敏(たきわきのぶとし。丹後守。維新前は松平姓)が上総に転封。
周准郡金ヶ崎(八重原村南子安/君津市)に金ヶ崎藩を称したが、不便な土地であったため、貝淵陣屋の場所に藩庁を移す。
翌月、士卒100人程の邸宅を設けた隣の桜井村から名を取って、桜井藩と称した。

明治4年(1871)の廃藩置県で廃藩。
11月14日の再編で木更津県旧桜井藩邸を庁舎に選擇寺を官舎に発足。
明治6年6月2日に木更津県が廃止され、千葉町に県庁を置く千葉県が誕生した。
その後この地に監獄署が置かれたが、それも後に廃された。

 

貝淵陣屋跡地 大楠

貝淵木更津県史蹟
所在地:千葉県木更津市貝淵

参考図書
・『木更津市史
・君津郡教育会『君津郡誌』他

※他、林家関連の資料は別途まとめる予定です。

特別展「幕末の木更津」・中村彰彦先生講演会

先日新しく「請西藩主 林忠崇」年表ページを追加しました。
今後、更新中のまとめ記事と並行する形で請西関連の記事を書いていきます。

さて現在木更津市郷土博物館「金のすず」で特別展「幕末の木更津」が開催中です。
凹型のコーナーの3つの壁にそれぞれ幕末の木更津に関したテーマで史料と解説が展示されていました。

 

木更津船と文化
まずは木更津港から江戸へ従事したという、大きな木更津船の模型が目に入ります。江戸の日本橋と江戸橋の中間に「木更津河岸」が設けられて、江戸時代から特別扱いを受けていたそうです。特権を与えられた理由は大坂の陣に参加した水軍に因むとも言われています。

壁に面した展示で目を引くのが木更津が舞台の歌舞伎「與話情浮名之横櫛」の錦絵。三代豊国作。
ペリー来航の3月前に浅草中村座で初演され、人気演目となりました。
「切られ与三」の通称や歌謡曲「お富さん」でお馴染みですね。
※木更津市内に与三郎の墓や、相棒の蝙蝠安の墓があります。
他に江戸視点で当時の木更津の地図や、房総の絵葉書が展示されています。

 

海防と太平の世の終焉
幕末の日本に通商を求める外国船が現れ、東京湾の防衛のため諸藩が警備にあたります。
亜墨利加(アメリカ)人上陸之図など資料と一緒に置かれた屏風は安房上総御固図屏風。
海上警備の様子を描く絵の中に富津沖に請西藩林家の家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」を染めた帆船が描かれています。

 

請西藩と戊辰戦争
請西藩主の林家を中心に紹介されています。
林家の系譜。そして林家のルーツでお馴染み兎御献上の資料。

戊辰戦争資料は、これがなくては語れない「戊辰出陣記」の原本。
リーフレットの表面に使われている、箱根の関で戦う忠崇の姿絵。
片腕を斬られた伊庭八郎を描いた線画「伊庭八郎手負い図」。完成画でなく作者不明ですが、忠崇作とみられるとのこと。

当時を思わせる古銃も展示されています。火縄銃、短エンフィールド銃、短スナイドル銃。
火縄銃には「木更津縣」の銘、旧大多喜藩所有のものとみられるようです。

仙台で降伏した忠崇が滞在した林泉院の写真パネル。その後に忠崇が綴った和歌集の「おもひでくさ」
林家再興のために家臣達が嘆願した書。士族の身元証明のための書類等々。

忠崇の祖父にあたる、貝淵陣屋を築いた貝淵藩主林忠英を描いた「林家初代藩主忠英侯肖像/狩野探渕守真作」は今回が初公開です。
林家の名誉が回復した印の、忠弘(忠崇の弟)の叙従五位。明治2年に林家を継ぐため忠弘が決めた実名と花押も相続史料として重要な資料です。

近年の請西陣屋の遺構を絵にしたカラー俯瞰図もありました。

 

金のすず特別展 講演会看板

 

そして今回の企画として、日曜日に直木賞作家の中村彰彦先生による講演会「上総請西藩主 林忠崇の幕末維新」も行われました!

 『脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯』の著者でもあります。

一般向けの講演会なので勉強をしに行くような堅苦しい場ではなく、中村先生ファンはもちろん今回の催しをきっかけに初めて幕末や忠崇に興味を持った方でも楽しめるトーク内容でした。

受付で特別展チラシのコピーと、講演会用の「林忠崇侯年譜」1枚。年譜は明治時代以降が主で住居地の移行が簡単に紹介されています。

初めの10分は、来賓の紹介と挨拶。現在の林家ご当主もいらっしゃいました。

そして中村先生の講演が始まります。
まずは「予備知識」として木更津は離れて、幕末史のお話。先生論全開の豆知識が次々に飛び出します。

 

『これまで「組」と呼ばれていたのが「隊」となったのはなぜか』
『隊列に見る、これまでの日本の伝統的な戦い方と新しい「洋式戦術」の違い』
いずれ本になるか、すでに著書で紹介されてるからかもしれないので詳細は省きますが「部隊」は英語と日本語のごろ合わせではないかという提案です。
ボードに語句を書きながら、洋式戦術を採用した大村益次郎の強さという流れに綺麗に持って行って、退屈させません。

これは私の感想、古い日本語は聞き取りをそのまま文字に当てはめるイメージなのでごろ合わせには共感もありますが、新旧和洋の「隊列」については異議ありありでした。
古代ローマ、フランス、スペインと欧州の隊列からアメリカ南北戦争での隊列までと、日本の古代から戦国時代の合戦での隊列を思い浮かべながら聞いていたら、隊列についても独自な用語も違和感ありありで。
(もちろん間違っているという批評でなく、歴史話は意見の出し合いもありだよねという感想)
序盤なので私もこれはジョークで(洋画の話も持ち出したので)笑うべき所なのか、真面目に頷く所かがつかめずに、静かな周りに合わせて流しちゃいました。あとで日本での部隊の語源について調べてみよっと。

 

まだ参加者が緊張している気配を察したのか、もう少し身近な幕末トークに移ります。
具体的な歴史人物の名前を出して、よりバラエティ感覚に。
強さといえば『幕末最強は誰か』で先生が推すのはご自身の著書にも描かれたあのお方、立見大将です。

そしてようやく「遊撃隊」の話に。忠崇目当ての参加者が期待している遊撃隊と、その他の遊撃隊(見廻り組や新撰組)についてを分かりやすく説明します。
慶喜に対しては何度もしつこくダメ将軍として紹介していたので、中村先生の慶喜ポジションというよりここも笑い処だったのかも??

スクリーンに写真を写して人見勝太郎や伊庭八郎を紹介。この頃には参加者の緊張もほぐれて、幕末三大美男子の二人は「林忠崇」「伊庭八郎」が不動であとは──…と、先生の面白く語るネタに笑いも漏れます。
そして榎本武揚の行動を追い、ようやく話の舞台が木更津に移ります。

ようやく、というのはここまでで1時間丸々使っているんです。
きっちり1時間だったので先生の予定通りなのかも。プロだ。

 

まずは林家について、長ったらしい名称の林家家紋の一文字の由来でもある兎献上のこと。
「兎御献上之儀留」にある兎の結び方がスクリーンに写されます。
そしてこのネタでもユーモラスに話して笑いをとる先生。

 

「総野の戦い」という語句を掲げて忠崇の戦いについての話に移ります。
先生は房総も協力たので『奥羽越列藩同盟を奥羽越“総”列藩同盟と呼んでもいいのでは』とおっしゃるので、私はまた首かしげ。(これもジョークか房総半島・木更津上げ?でも周りが笑ってなかったからリアクション難しくて流しちゃいました)

上総義軍と村人の反応。忠崇は遊撃隊の協力要請に快諾したこと。
だいぶはしょって(富津台場や途中訪れた藩の詳細は触れず)相模へ渡ったこと。
その頃、問罪出兵に共感した小田原藩。
かなりはしょって、奥州行。はしょりすぎです。
会津で忠崇が容保と面会し、志を同じにする二人に言葉は不要、ただ「お察し申す」だったこと。
奥州では忠崇は自ら戦ったこと(戦の詳細は無し)、70万石で徳川存続も決まり、そして投降して唐津藩に御預けとなったこと。
明治五年に許されて、後に忠弘が華族になること。

テーマが幕末「維新」ですし配られたレジュメも明治以降が主で、木更津についてを多く話そうとしたのか、ここから話がローカルな方向で詳しくなりました。
爵位のいろいろ。男爵は一家に一人だけなので忠崇は華族になれない。
それに男爵になるには毎年500円の大金が必要になる。地元に広大な土地を持っていた人が(ここも面白く語られました)、忠崇の親族を偽った自称林家に騙されてもめげずに身を削って援助を続けた逸話。

忠崇の足取りを簡単に追って、招魂祭70周年でのインタビューのこと。
そして逝去の直前に、辞世を尋ねた次女に対して答えた言葉で、忠崇の人生の話を締めくくりました。

とても濃厚な講演内容でしたのに開演から2時間、皆さんしっかり聞き入って、大きな拍手があがります。
資料重視な作家さんだけあって引出しが豊富で、本当に素晴らしい話術でした。

 

講演終了後は、当日のサプライズとして、サイン会が行われました!
そうと知っていたら携帯用の文庫でなくハードカバーの本を持参したのにと悔やみましたが、事前告知をしたら先生に負担がかかりますものね。
長い列でも、前に並んでいた林家に詳しい方(林家ご当主とも知り合いで、今回お知らせが届いたから来たような)とぽつぽつ雑談をしているうちに順番が来ました。

体調が優れないのに講演を受けて下さったと紹介されていたので「お体大事になさってください」と言ったら、にっこり笑顔で一言お礼を返してくれました。なんと良いお人柄!

興奮というよりも、ふわふわした良い気持ちで帰りました。
中村先生ほんとうにお疲れ様でした!

 

中村彰彦先生のサイン

 

※講演は終了。特別展は12/26(木)まで開催
木更津市郷土博物館金のすず
所在地:千葉県木更津市太田2-16-2
▼木更津市公式サイト内博物館ページ
http://www.city.kisarazu.lg.jp/13,491,38,262.html