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糀屋村名主伊藤仁右衛門茂平碑

伊藤新兵衛墓所の伊藤名主仁右衛門碑 伊藤名主仁右衛門碑の裏

宗祖藤原元祖伊藤名主源仁右衛門茂平郷造之碑
歌会妙福寺は小見川銚子と交流あり奥の院は天領地大田村の寄贈なり 初代松風庵は水戸の家臣蕪里の人大国隆正や高崎様守役平手剣客らは宮本村や小笹にて剣や歌を教る左内らは剣の師事つく玄庵は長谷村の人水戸藩出入医者なり 二百年に渡歌会も天領により事無送た 片貝騒動は各藩挙兵集備中幕府に鎮圧さるも千人余は追捕まぬがる  後世記 進書 當村名主伊藤家乃傳説也

西小笹妙福寺にある名主伊藤(新兵衛)家の墓域に建つ由来碑。
当地が糀屋村と呼ばれた経緯や1490年の匝瑳合戦で水夫として恩賞を得た祖先弥右衛門・弥左衛門、江戸中期の名主伊藤仁右衛門茂平らの功績を刻む。
上州高崎藩の飛地で、高崎は元将軍家隠居城なので高崎水戸阿波の三者にて談合し藩奨励の藍葉作り九十九里一の産地として栄ええたことや、幕末まで続けた妙福寺の歌会など歴史を窺える。

同じ西小笹で藍商を営んでいた同族伊藤家である大河内氏と、剣客中村一心斎についても
中村一心斎なる剣豪が小笹実蔵院にて阿波剣豪と真剣勝負をなす 立会人当地親分伊藤弥左衛門 一心斎は身の丈七尺顎鬚一尺にて二声三声で阿波方降伏する 一党は木更津にひきあくる 一心斎は当村大河内氏を共に木更津に行木更津の寺院で水戸藩の剣豪に一戰申入る 大河内氏は木更津初代の市長となる
と記されている。初代市長のくだりは、成就寺中村一心斎供養塔に名がある「大河内孫左衛門」の孫の伊藤勇吉氏(木更津町長)のことであろう。

西小笹妙福寺山門 妙福寺境内

真言宗智山派妙福寺

妙福寺所在地:千葉県匝瑳市西小笹1352-1

■■不二心流と木更津「島屋」■■

不二心流中村一心斎碑文

地蔵院の中村一心斎碑文 不二心流中村一心斎碑の刻文

中村一心斎供養碑
不二心流開祖の中村一心斎が嘉永7年(1854)10月3日赤荻村(千葉県成田市)で没し善福寺に葬った後、一心斎が剣を教えた西小笹村(匝瑳市)地蔵院と木更津村(木更津市)成就寺に分骨し大河内家を中心に門人達が葬儀を行った。
慶応2年(1866)10月不二心流二世の大河内縫殿三郎(幸安)親族と門人達の連名で一心斎の供養碑が建立された。
地蔵院は大河内家祖先伊藤河内守為安の白い愛馬を祀った伊藤(大河内)家縁の堂宇である。

妙はその子に譲られすつき穂かな

中村一心斎肥之島原城之人也姓藤原字一知身長六尺二寸美髭三尺五寸清正公之後云々先生竹馬歳始學劒法不遊他技既而訪師于四方從問從學遂究諸流之淵原矣後来于東部入鈴木重明之門開教場於八町堀教育子弟二三千諸侯聞名重聘者多然而固辞不仕焉悠然貫適意其他周遊而欲貽術於天下以成言鍛錬之心忠孝旡二之志報國體旡窮之恩也北總漁村岩井石橋氏盡禮敬而迎先生吾兄弟共從事濤川氏向後氏又教育一日先生語曰剣法體用未得自然文政戌寅之夏登駿之富峰行氣断鹽穀食百草而禱祈一百日季秋二十六夜非睡非覺身心豁然有得焉夫吾心精一則天地心精一豈有二心哉於是新號不二心流爲師術之表吾兄弟事先生積年親猶子世故所得悉傳與因開鍛錬場而以教授千時安政甲寅十月二日卒埴生郡赤萩鵜澤氏行年七十又三也荼毘以葬此地謚淨念雲龍今當十三諱辰門人來會謀不朽亦欲後生不忘先生之得澤書大䊠于時慶応二年十月也

大河内幸安
同  芳安
同  安道

経年磨耗して判読し難いため『続日本武術神妙記』の「中村一心斎碑文」を引用した。

中村一心斎碑の大河内署名部分 中村一心斎門人者名大河内総三郎

▲表面の大河内幸安らの署名部分。裏面に大勢の門人名が刻まれている。
表と同様に門人名も一部消えかかっていて確証はつかめないが、大河内総三郎(不二心流三世・幸経)と阿三郎(不二心流四世・安吉)の名にも読める。

 

* * *

上記の日本武術神妙記が今年、正・続編を併せて安価で読み易くした(ここで引用した碑文の旧字も現代語に置き換えられている)文庫本が出版された。中村一心斎や他剣豪の言い伝えが纏められているのでお勧めしたい。
著者の中里介山(なかざとかいざん)は、甲源一刀流の巻で中村一心斎が登場する小説『大菩薩峠』の作者でもある。

角川ソフィア文庫『日本武術神妙記』中里介山著

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流二代目】大河内縫殿三郎

不二心流大河内縫殿三郎の夫妻の墓所

大河内縫殿三郎と妻喜佐子の墓標
※現在は個人の方が管理しており撮影・WEB公開許可を得た墓碑のみ掲載しています。
 詳細を求める問合せはご遠慮下さい。

 

万延元年(1860)の『武術英名録』に不二心流二世の縫三郎(縫殿三郎)の名が記されている。幸左衛門と市郎(一郎)は弟親子で木更津島屋当主として島屋道場で不二心流の剣術を教えた。
冨士心流 上総国望陀郡木更津
     大河内 縫三郎
      同  幸左衛門
      同  市郎


大河内縫殿三郎藤原幸安
おおこうちぬいさぶろう。縫殿之助、縫之助とも。号は三朗。
寛政2年(1790)下総国小笹村で伊藤喜左衛門安吉の嫡子として生まれる。母は豊子。
後に地域の領主である旗本の菅沼氏から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)と姓を改めた。
妻は河津信行の娘、恵以子(のち喜佐子に改める)。

不二心流開祖中村一心斎門下一の剣の腕を持ち、一心斎の猶子となって正統二代目として文政年間に江戸八丁堀不二心流道場を継承した。

上総国望陀郡木更津の南町で弟の大河内幸左衛門藤原幸芳が営む紺屋島屋の敷地内と、八幡町の八劔八幡神社境内に道場をつくり、一心斎が木更津に隠棲している間共に指導にあたった。
縫殿三郎は周准郡富津村の代官森覚蔵(上総での任期1823~1840)管理下富津陣屋にも出向き、また請西藩士にも教授したという。
西小笹の実家の道場にも一心斎を招いて、上総・下総地域に広く不二心流を広めた。
慶応2年(1866)10月、嘉永7年に没した一心斎の碑を西小笹に建立

慶応4年(1868)戊辰戦争の幕開のこの年2月下旬に幕府撒兵隊の福田八郎右衛門の使者が大河内家を訪ねてきた。
勤王勢力に徹底抗戦する主張に高齢の縫殿三郎は静観したが、息子や甥達は撒兵隊に協力する意思を固めて義勇隊を結成する。縫殿三郎の「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」の句を以って見送ることとなった。

戦後の明治2年(1869)に、戊辰戦争の義勇隊長を務めた三男の阿三郎(大河内正道)と上総武射(むさ)郡成東で再会を果たす。
明治4年(1871)6月24日に東京市芝区芝山内旧粟田口青蓮院宮入黒道役所(現東京都港区)内で没した。82歳。
駒込蓬莱町海蔵寺(かいぞうじ)に葬られ、成東元倡寺(がんしょうじ)にも分骨した。宝樹院成壇幸安居士。
死後20年後に飽富神社に奉献された不二心流振武社の奉額には縫之助の名で筆頭に記されている。

駒込大智山海蔵寺山門 大智山海蔵寺社殿
▲曹洞宗大智山海蔵寺
海蔵寺所在地:東京都文京区向丘2-25-10

 

尚、『函館戦争記』等複数の箱館戦争史料に従軍者として大河内三千太郎と共に記され戦死している「大河内縫殿三郎(縫之助)」は不二心流門人達の証言では誤記ではないかとされている。大河内一門で実際に義勇隊として戦った「大河内縫之進」のように似た名前の別人の誤記か、縫殿三郎幸安から継いだ通称かは不明。(現在調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

宮川熊野神社と不二心流

宮川熊野神社拝殿 宮川熊野神社賽銭箱不二心流門人名
熊野神社拝殿と賽銭箱に刻まれた不二心流門人名 ※この門人名画像のみ見やすいように加工有

熊野神社不二心流藤城氏碑1基 熊野神社不二心流藤城氏碑門人中2基
藤城氏の碑
吉高以降藤城氏三代の功績を称える立派な碑が門人達によって建てられた。

 

藤城吉高
号は百翁。無一翁に就き、武を不二心流中村一心斎に学ぶ。家塾を設けて文武両道を教えた。妻は佐藤氏の娘。三男一女あり。
文政3年(1820)正月15日に下総国匝瑳郡宮川村(横芝光町)で代々神官の藤代家に生まれる。
天保13年(1842)4月に熊野神社祠官となり、伊勢守に任じられ匝瑳郡神官都司を歴任。
宮川800石の領主内藤因幡守に仕えて撃剣指南役となる。
嘉永2年(1849)に海防の事に勤労し甲冑を賞賜される。
明治2年(1869)神官督令に転じ神習殿式教を兼ね神官職免許状を賜る。
明治7、8年頃に家塾で息子の藤城吉隆吉直の兄弟が子弟の教育にあたった。
明治29年(1896)2月19日に77歳で死去。 明治34年に弟子達が碑を建立。

藤城吉高顕彰碑 熊野神社不二心流門人名右側 熊野神社不二心流門人名左側

神職藤城家を「フジシロ」と読む郷土誌もあり、飽富神社の不二心流奉額にも「藤代」とあるが、今の藤城(ふじき)宮司に伺ったところフジシロを名乗ったことは聞かず藤城=フジキであるそうだ。
【2016.10.26追記】神職藤城家とは別の、不二心流の技を継ぐ藤城家の存在も確認できた。こちらの藤城はフジシロとも読めるそうだ。この剣道家の藤城先生は鬼籍に入られ詳しい話しを聞くことは出来ないが、飽富神社の奉額については名前の一致からやはり神職藤城家の親子と思われる。

 

■宮川 熊野神社
千葉県神社庁規範神社。第九期神社本庁指定モデル神社。
祭神は伊弉册命(いざなぎのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)。
清和天皇貞観18年(876)に紀伊熊野本宮より勧請。社号は宮川入之領境宮。
朱雀天皇天慶2年(939)に平貞盛が社殿を建て、社領十八貫目寄付。熊野新宮大権現と改称し、武門の帰依崇拝を集めた。
明治2年(1869)に熊野神社と改称し、明治6年(1873)10月に近郷十八ヶ村惣鎮守として郷社に列する。
昭和54年(1979)12月25日に江戸後期から演じられてきた太々神楽が町無形文化財に指定。

所在地:千葉県山武郡横芝光町宮川2118

参考図書等
・『千葉県匝瑳郡誌
他、碑文や案内板、宮司のお話

■■不二心流と木更津「島屋」■■

結城藩成東陣屋跡地

結城藩成東陣屋跡地 成東松風山福星寺

成東陣屋跡地と結城藩学館「興譲館」の置かれた松風山福星寺

 

■結城藩成東陣屋
元禄13年(1700)10月水野隠岐守勝長(かつなが)が能登国西谷(にしやち。石川県七尾市)1万石から下総国結城(茨城県結城市)へ移封となり、元禄16年(1703)までに上総国2郡内7715石余の領地をあわせ1万8千石を領した。
結城藩水野家は武射(むさ)郡成東村に上総国領を治めるための陣屋を、廃城となっていた成東城址の入道山東南麓に造営した。
面積1615坪、かつては堀及び土手があり、南側に門、西側に牢屋や蔵が建てられていたという。

幕末の第10代藩主水野日向守勝知(かつとも。第9代藩主勝任の養子、奥州二本松藩藩主丹羽長富の八男)は佐幕派であり、藩内で佐幕派と勤皇派が内紛を引き起こすこととなる。
慶応4年(1868)1月11日には佐幕派家老水野甚四郎の蟄居を実行し、3月1日に旧幕府軍に上野東叡山の警備と彰義隊の指揮役を命じられた勝知は承諾の意思があったが家老小場兵馬ら恭順派家臣の嘆願が幕府軍に聞き入れられて警備と指揮は免除となった。
更に恭順派が画策したのは隠居の水野摂津守勝進(かつゆき。勝知の義祖父。第8代藩主)を江戸藩邸に迎え入れて藩政を取り仕切らせ、禊之助(勝進の次男。後の勝寛)を新藩主にすることであった。
しかし勝知の元に、脱藩した水野甚四郎ら佐幕派が駆けつけ、勝知は「一水隊」を結成し、自らが隊長となった。
3月16日に勝知は彰義隊隊士と合わせて300名を率いて、本領の結城へ藩主自ら攻め込んだ。
25日結城城の戦いは勝知が勝利し、勝進と禊之助や係累の婦女は成東に避難して難を逃れた。勝進は成東に留まり家臣達は禊之の相続を進めるため尾張藩へ身を寄せさせた。
4月5日に結城城は官軍に攻められ、勝知は彰義隊に守られながら久保田河岸より船で逃れて成東に潜伏した。数日後に江戸に上り一水隊を再編成し上野寛永寺外、屏風坂の守備に当たったが、上野総攻撃を受ける直前に天野八郎(彰義隊頭取)の勧めで離脱し親元の二本松藩邸に身を潜めた。
5月20日に官軍の捜索で津藩に引き渡され9月10日鶴牧藩に預替。避難中の勝進と禊之助(勝寛)は新政府からの命で帰藩した。

明治2年(1869)2月24日14歳の水野勝寛が上総領千石減封の1万7000石で最後の結城藩主となり、勝知は7月4日に改めて二本松藩預となった。
6月版籍奉還で勝寛は結城藩知事となり、11月に成東陣屋の西に位置する福星寺に結城藩学館興譲館が開かれた。朱子学と武術を教え、武術は大河内阿三郎(不二心流四世大河内正道)が指導した。翌年に作られた勝寛の筆による興譲館扁額は市指定文化財。
明治4年(1871)7月14日に廃藩置県、11月に成東陣屋を廃した。
明治6年(1873)12月1日に勝寛が18歳の若さで死去、21日に勝進も57歳で亡くなっている。

所在地:千葉県山武市成東上町

参考図書
・『山武町史』
・『千葉県誌・下
・『成東町郷土史料集』
・『成東町史』
・『成東町志』
・『東海道先鋒記』
・小沢治郎左衛門『上総国町村誌
・『三百藩戊辰戦争辞典・上