▲みささぎ島
手前(写真の一番右)の島。傾城島とも。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征時に海難に遭い、入水して鎮めた后弟橘媛(おとたちばなひめ)の亡骸が漂着したという。
ミサゴ島由来の操、天皇御陵の陵(みささぎ)、または身捧ぎから名付けられたか。
弟橘媛の伝説
景行天皇(けいこうてんのう)40年7月16日、西国で熊襲(くまそ)討伐を成した第二皇子(古事記では第三皇子)、日本武尊に東国のまつろわぬもの(従わぬ者)・蝦夷の再遠征を命じた。
10月2日に出発した日本武尊は伊勢神宮に立ち寄り倭媛命(やまとひめのみこと)から草薙の剣を授かり、相模(神奈川県)に至る。
上総(千葉県)に渡航中、日本武尊が「こんな小さな海など跳んで渡れよう」と湾を軽視する発言をしたため海神に祟られ、后である弟橘媛が皇子の身代わりに自ら人身御供となり海に身を沈め、海神の怒りと嵐を鎮めた。
この荒れた海は馳水の海(はしりみず。走水とも。現在の浦賀水道)と名付けられた。
みささぎ島に遺体が流れ着いた言い伝えと同様、沿岸に弟橘媛の所持品が流れ着き、袖は「袖ヶ浦」、腰巻が飯野の地に流れ着き「富津(布流津)」の地名の由来の一つとなる。
日本武尊が弟橘媛を偲んで「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影を見るぞ悲しき」と詠んだキミサラズ(君不去)が「木更津」「君津」となり、上総地区四市全て弟橘媛の伝説が語源に関わっている。
また蝦夷の島津神・国津神を平らげた帰路、鳥居峠(長野県上田市と群馬県嬬恋村の境)から東国を望んで弟橘姫を思い出し「吾妻はや」(あずまはや。「我が妻よ、ああ」の意味)と三度嘆いたので、峠より東をアズマの国と呼ばれるようになったという。
▲浮島
源頼朝上陸地から臨む右の大きな島が浮島。
周囲792m・高さ60m・面積6216坪の無人島。属島に大ボッケ島(穴のあいた島)、小ボッケ島があり、波上に浮かぶような様から浮島と名付けられたという。鵜来島と書かれることもあった。
浮島の伝説
東国平定を成しとげた日本武尊が能褒野(三重県鈴鹿)で病没し、父の景行天皇は大いに嘆いた。
景行天皇53年8月1日、天皇は小碓王(をうす。日本武尊)と同じ旅路の巡幸を決め、10月に上総国に入り、弟橘媛の供養も兼ねて上総から海路で淡水門(あわのみなと。安房)へ渡る。
浮島が気に入った天皇はしばらく滞在したという。
覚賀鳥(かくかのとり)の声が聞こえて姿を見ようと海に入った際、皇后の八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)が八尺(やさか)の白蛤(うむぎ。大きな白蛤)を得た。
同行していた家来の磐鹿六鴈(いはかむつかり。磐鹿六雁)が蒲の葉をとって襷にかけ、この白蛤と、角で作った弓の先で釣り上げた堅魚(鰹)を膾(なます)にして天皇に差し上げたところ、たいそう喜ばれた。
以来、磐鹿六鴈は膳大伴部(かしわでのおおともべ。宮中の料理番)役となり、後に料理の神様として祭られるようになった。
参考サイト
・鋸南町オフィシャルサイト http://www.town.kyonan.chiba.jp/
参考図書
・坂本太郎他『日本書紀(二)』
・宇治谷孟『日本書紀(上)』
・竹田恒泰『現代語古事記』
・森浩一『記紀の考古学』
弟橘媛は畳を敷いて言霊を発し祈りながら入水したといいます。かつて大国主命が天津神達への国譲りで身を引きお隠れになった様を思わせますね。